第31回逸話 アブラハムは、喜ばしき福音に聞き従う者




アブラハムは、喜ばしき福音に聞き従う者(※)

“目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムハすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、〜”(聖書『新共同訳』による訳文)

『創世記』18章2節より引用

※:「聞く」を意味する動詞は「聞き入れる」が転じて「聞き従う」と言う意味でも用いられている。日本語の「言うことを聞く」と同じニュアンスである。

アブラハムは、(いつでも)旅人を手厚く歓迎する(気前の良い)男であった(※)。あらゆる方角のための入り口が(いつでも)設けられる天幕を建てた(ほどである)。

※:慣用句で「(客人を)手厚く歓迎する人」という意味なのだが、分かりやすくするために意訳を絡めてみた。


アブラハムは、(天幕の)あらゆる側面から来客が彼の家へと近づいて来るのを察知できる男であった。

アブラハムは天幕の入り口に腰を下ろすのを日頃の常としていた。通りを横切る人々を待ち、彼らを客人として迎え入れたいがためである(※)。

※:「彼らを客人として迎え入れるため」は不定詞に人称接尾辞が付いた聖書ヘブライ語の用法であるが、時として現代ヘブライ語にも紛れ込んでいることがある。


アブラハムは、旅路(路上)において疲れ果てた者たちを目撃したならば、天幕の入り口に生えた豊潤な枝葉を伸ばす(※)木の陰で休息してもらい、よく冷えた水を飲んでもらい、ささやかではあるが食事を嗜んでもらうために、彼らを招待するのであった。

※:「厚く生い茂った」の意訳。


旅人たちは、休息を得て(十分に)体力を蓄えるに至った時、それぞれの旅(道)を継続できるようになるのであった。

こうして年月が過ぎた(ある日のこと)、暑い盛りの時間帯のことであった。アブラハムは、ほとんど癖(※)のように(天幕の)外に座り、来客(の訪れ)を待っていた。

※:「いつもの習慣」という訳出でもいいのだが、「ほとんど癖」の方が微笑ましかったのでこちらを採用した。


だが、甚だしく暑い日だったので、通りのすべては(人の気配がなく)閑散としていた。人々は表に出るのを控え、もっと快適な時間帯(が訪れるの)を待っていた。

アブラハムはおもむろに目を上げてみた。すると見よ、三人の客人が彼の傍らに立っているではないか。

なぜアブラハムは、(こんなにまで)近づいている彼ら(の姿)が見えなかったのであろうか?

この甚だしい暑さのせいで、彼は屋外で(あるにもかかわらず)居眠りをしていたのだろうか?

アブラハムは客人たちへと向かって喜んで立ち上がり、彼らの面前で平伏した。そして、天幕の傍らにある木の陰で休んでもらうため、彼らを招待した。

アブラハムは客人たちに言った。「どうかこの場所で、この木の陰で腰を下ろしてください。」

「冷たい水をお飲みになり、あなた方が渡られた長い旅路から、ほんの少しだけでもお休みになってください。その(休憩の)間、わずかばかりですが(※)、わたくしが茶菓子を用意いたします。」

※:謙遜的に語られた(粗末な茶菓子)の意訳である。


客人たちはアブラハムの招待を受け入れ、休息を得るために木陰の中に腰を下ろした。

アブラハムは急いで天幕の中に入り(※)、彼の妻、サラに要請した。

※:厳密に訳せば「アブラハムは天幕に入るのを急ぎ」となる。


「わたしたちの客人のために茶菓子の準備をしなさい! 彼らのために焼き菓子をこしらえなさい!(※1)。見なさい、とうとう客人がやって来てくれたのだ。彼らはその道すがら(※2)、大変お疲れになっている。」

※1:「焼きなさい!」の意訳。 ※2:「その道ゆえに」の意訳


サラは、アブラハムの言葉に適った行動をする(※)よう急いだ。

※:「アブラハムの言葉の中で行動する」が直訳なのだが、上記の意味となることは理解できよう。


アブラハムは彼の客人たちに、水と食事とデザートを差し出した。

さらにはバター、牛乳、そして(味覚の異なる)様々な御馳走をも差し出した。

客人たちは心の中で思った。「善良な男とは、アブラハムのこと(を言うのだろう)。口数は少ないが、行いは多い(※)。」

※:「少なく語り、多く行う」が直訳。いかにも格言のような言い回しである。検索したところ実際にいろいろな文章で引用されているのだが、誰の言葉として有名なのかという肝心な点が分からなかった。


「アブラハムは我々に、わずかばかりの(※)食事を勧めてくれたに過ぎない。しかし見よ、彼は家の中にある良いものすべてから(選んで)我々に差し出してくれている。」

※:形容詞のような訳出だがこれは副詞。


客人たちは食事を終えると腰を下ろし(※)、アブラハムと共に歓談した。

※:食事の後に改めて「彼らは座った」という動詞があるのは、あるいは、古代においては肘を付いて横たわりながら食事をするのが作法だったことを物語の作者が暗に描写してくれている、とも考えられる。


客人たちが問うた。「あなたの妻、サラはどこにおられるのか?」

「天幕の中におります。」とアブラハムは答えた。

すると客人の一人が言った。「一年後、わたしはあなたを訪ねに戻って来るであろう。その時、サラには息子がいるはずである。」

(客人がそのように語った)ちょうどその時、サラは天幕の中で座っており、アブラハムと客人たちの間で交わされている(※)会話を拝聴していた。

※:「交わされている(分詞の女性形単数)」は、「運ばれている」が直訳。


(一年後、)彼女に息子がいるなんて、そんな話などありうるのだろうか? どうやって客人は、それを知ったというのだろうか?

彼女は確かに息子が欲しがっている。だが、かくも高齢な年代において出産することなど、いかにすれば可能なのだろうか?

(それゆえ、)サラは自分が聞いた(客人の)言葉を信用しなかった。彼女は心の中で失笑した。

すると客人が言った。「なぜサラは笑っているのか? 神由来の出来事が不思議だというのか?(※) 神になし得ないことがあるとでもいうのか?」

※:この箇所の“”は『創世記』18章14節からの引用句 "" で、聖書ヘブライ語では一般的な疑問辞の “” (ヘー)が用いられている。また “” (主なる神)の代わりに略号 “” が記されている。略号 “” は “” (アドナィ=我が主)、あるいは “” (ハッシェム=御名)と呼ばれている。


サラはすぐさま答えた。「わたしは笑いませんでした。」

だが、客人は意見を曲げなかった(※)。「いいえ、あなたは笑いました。」

※:「頑固であった」が直訳。


客人たちは(十分に)休息を得ると、アブラハムから受けた接待に区切りを付け(※)、彼が追加で用意した土産(弁当)を携えて通りへと出た。

※:「彼らが受け入れた食事を終え」の意訳。


アブラハムも、旅(道)の途上にある客人たちに随行して外に出た。

(一方)サラは、自分が聞いた(客人の)言葉について(まだ)あれこれと思案し続け、心の中で笑っていた自分(の笑い声)をあの客人が聞いたという(不思議な)ことがどうしてありえたのか? と(なおも)驚いていた。

だが、ここに来てサラは(ようやく)理解した。彼ら客人が、息子の誕生についての福音を自分に告げ知らせてくれた神の使いの者たちであったということを。彼女は大いに喜んだ。

そして事実、サラは一年後、息子を出産した。

その日、彼女は自分が笑った(時の)あの笑い声を記念して、息子を“イサク”(彼は笑う)と命名した。




(了)




改訂履歴
初版:2007/4/1 本章の日本語翻訳(文章および注記)は、本コーナーの愛読者ご協力を得てご投稿を頂き、その記事に沿って編集したものです。(なお単語毎の下線と直訳は当方管理者側の責任で追加補完しました)

今回の翻訳について、皆様から評価を賜りたいとのことですので、下記のメールアドレスにまでご意見をお寄せいただけないでしょうか。 翻訳者Satoshi: babako@mua.biglobe.ne.jp


ヘブライ語のテキストにマークした意味は次の通り



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