本を読んだ時に、印象に残ったり気になったページに折り目をつけておき、その箇所を読み返してまとめてみました。
このページ先頭へ第1章 人間音叉
p42: 「国際的なピアノコンクールには、毎年多くの日本人がラインアップされますが、 審査員たちは彼らの演奏を全部聴く必要などないといいます。 みんな同じで個性がないからです」、と語る。 … 「高度にコントロールされ、画一化された音楽教育が、突出した才能を生み出す機会 を妨げている」、と語る。第2章 形見の和音
p65: 昭和13年、…、海軍に対して絶対音感教育による聴音訓練の採用を具申していた。 音の高さ、音色、リズムなどを鋭敏に感得することが対潜水艦、対飛行機作戦に 重大な関係があると考えたのである。第3章 意思の刻印
p104: 「いろいろなデータは出ていますが、 1キロヘルツぐらいの周波数域で聴き分けられる音の差は、1.5ヘルツ、 500ヘルツの周波数域で聴き分けられる音の差は、1ヘルツ弱ぐらいです」 p119: 1996年の「ニューロサイエンス」、…、絶対音感と脳に関する後続研究が発表された。 それは、音声と楽音を聴いたときの、脳の局所血流量をMRIで診断したものだった。 その結果、絶対音感を持つ音楽家は、音声も楽音も左脳の大脳皮質聴覚野が優位である ことが分かった。それに対し、絶対音感を持たない人は音声は左脳優位、楽音は大脳皮質 聴覚野全体に活性が見られることが分かった。 このページ先頭へ第4章 幻想狂想曲
p134: 子どもたちが使用する旗の色には意味がある。 ドミソの和音は赤。ドファラは黄。シレソは青と。… はじめから和音を音名でいわせないのはなぜだろうか。… 「子どもがもし自分でピアノを弾いて、ドミソとドファラを比べて、ドファラの方が 鍵盤の高い位置にあることを知ったとき、音を高低という相対関係で聴いてしまう ようになるからです」 p147: 絶対音感教育を受けた子たちが記憶した音名は、イタリア音名のドレミである。 日本音名のハ音をドと固定した読み方をするもので、固定ド唱法という。 現在の音楽大学を始めとする専門教育機関や町の音楽教室なども、固定ド唱法を採用している。 1939年のロンドンの国際会議で定められた基準音によれば、 A=440ヘルツがラであり、C=約261ヘルツがドに対応する。 p152: そして終戦、「なつかしいドレミが復活する。昭和16年春から国民学校、中等学校では 音階の唱法をハニホヘトイロとし、一方音感教育が極度に重んじられていた。 ドレミをイロハとしたのは国粋主義の現われだが、聴覚教育を重視したのは軍事的な はっきりとした目的があった。…」 このように公教育では、移動ド唱法がスタートした。 だが、専門教育で固定ド唱法で楽譜を読み、歌を歌い、しかも絶対音感を身につけた 子どもたちは、小学校でドレミが歌えなくなってしまったのである。 彼らはドの音が鳴れば、「ド」という言葉が頭の中に鳴り響く人々だ。 p162:(p125) だがそんな事情とは一切関係なく、絶対音感を持つ子どもたちは依然として増え続け、 今日も何食わぬ顔で和音の音当てを楽しんでいる。 和音に反応する子どもたち: バーン、と三畳の小さな練習室にピアノの和音が響く。 「あかぁー」 「はぁーい」 バーン、 「きいろぉー」 「はぁーい」 隣の部屋にも、和音が響く。 「ミーギスシー」 「はぁーい」 「ラドファー」 「はぁーい」 「レーフィスゥ…」 「ん、レーフィスラーね」 「レーフィスラー」 「はぁーい、そうでーす、よくできましたぁー」 私は、この子どもたちの言葉を思いだし、心臓の鼓動が高鳴るのを覚えた。 なんということだろう。 白鍵をイタリア音名で、黒鍵をドイツ音名で歌っていたのである。 「ミー・ギス・シー」(ミ・Gb・シ) 「レー・フィス・ラー」(レ・F#・ラ) このページ先頭へ第5章 失われた音を求めて
p165: 「アメリカは、カーネギーホールはじめ主要なホールのスタインウェイピアノの基準音は 皆、442ヘルツです。もし440ヘルツで絶対音感のついた子どもたちがアメリカに来たら どうなるのでしょう」 p173: 日本人は横、欧米人は縦の音程のつくり方をすると教えられた。 「ヨーロッパの場合は、一つの音から相対的にハーモニーで音程をとっていきます。 ところが日本人は平均律でついた絶対音感でドならド、ラならラ、とピアノのように あらかじめそこに音があるように音階をとっていく。平面的といいますか、 ハーモニーではない」 p176: (ここにピタゴラス音階、平均律の解説がある) p180: 日頃から、若い人々の耳が平均律化してゆくことを心配していた。 日本に限らず他の民族音楽も、地球全体が平均律化しているのではないかという不安を 抱き続けた。… 音楽知覚認知学会に報告される音律評価の研究によると、純正律やピタゴラス音律など で演奏された音楽よりも、平均律のほうが心地よく聴こえるという学生が年々増加して いるという。 p186: インドネシアの代表的な音階には、オクターブをほぼ五等分する五音階と半音に近い 狭い音程を含む七音階がある上、地方やガムラン楽器のセットごとに調律が異なる。… そのずれから生じるうなりがこの音楽の特徴でもあるのだが、それが西洋音楽の平均律 というカテゴリーで理解できるわけがないのである。 まさにカルチャーショックだった。 p196: 1997年に音楽知覚認知学会で報告された研究 音楽アカデミーの学生たちに、ハ長調のメロディの楽譜をコンピュータ画面上に提示し、 楽譜の中の音を一つだけ変えたメロディを二つのパターンで聴かせた場合、その間違え を指摘できるかどうかというものだった。 (1) メロディをハ長調で聴かせる (2) メロディをハ長調以外で聴かせる 結果、絶対音感を持つ人も持たない人も、(1)も場合に間違いを指摘するの反応時間に ほとんど差は見られなかった。 (2)の場合、絶対音感を持つ人の反応時間が持たない人より長くなる傾向が見られた。… 時間がかかるのは、楽譜からイメージされるメロディをいったん頭の中で移調してから、 聴えてくるメロディと比較するためではないかという。 このページ先頭へ第6章 絶対の崩壊と再生
p234: 「譜面を見ない、絶対音感を持っている、絶対狂わないテンポ感を持っている、 ということでどんどん指揮者をスーパーマンとしてつくり出そうとした時代は 確かにありました。でも、それは1989年のカラヤンの死で終わったと思います」 p235: 現代音楽の演奏や指揮には今後もますます絶対音感が有効な側面もあるかもしれない。 しかし、そもそも歴史をさかのぼれば、二十世紀の現代音楽の中心的存在であるユダヤ人の シューンベルクが発したメッセージは反ナチス、つまりナチスが悪用したワーグナー音楽の 「絶体性」を調性原理を破壊することによって脱却することだったいわれる。 心を揺り動かされてはならない。記憶に残ってがならない。感動を引き起こすことを あらかじめ排除することを前提に作られたのが現代音楽だった。 このページ先頭へ第8章 心の扉
p270: 「音楽家に一番必要な素質としての耳がいいといわれる条件には二つあると思います。 その一つが絶対音感です。特に弦楽器のように自分で音をつくらなければいけない 音楽家には基礎条件でしょう。現代音楽を演奏する場合には、絶対音感がなければ かなり苦労すると思います。そして、もう一つ重要なのは西洋音楽にある和音進行、 和音間の重力がわかるということです。たとえば、一度四度一度の進行で解決する ことを感ずることができるかというものです」
このページ先頭へ第1章 音の公害国日本
p14: 電車の発車ベルのかわりに流される暴力的な音楽まがいの強迫サウンドロゴであった。 サウンドとしては全く工夫の意図すら見えない機械音一色で、けたたましく人を威嚇する 平均律の不協和音は、激しく私の耳を蹂躪したのだ。そしてその直後、何の前ブレもなく ブツッと中断した。この衝撃的な中断の仕方はなんなのだ! このページ先頭へ第2章 音楽たれ流しテレビ
p61: 今のTV、音楽文化を駄目ににているのはブランケット方式である。 今から20年前にNHKと民放連とJASRAC(日本音楽著作権協会)の間で協定を交わした 著作権徴収方法で、当初は殆どの人が賛成し、… いまやTVのワイドショーの音楽垂れ流しの元凶となっている。 これはNHK及び、民放各局の規模によって年間X億円というあらかじめ決められた 金額をJASRACに払い込み、一回ごとの申告をやめたのである。 当初から思わぬつまづきがあった。放送局とのブランケット方式の中に、 CM音楽とドラマ音楽を入れなかったのである。 ラジオは歌番組が多いけれども、TVでは、殆どがCMとドラマである。… 作曲家いずみたく氏がよくいっていたのは、「イトウへ行くならハトヤ」は 当時一万円ももらったのですごいもうかったと思っていたら、20年使われて、 今では一銭も入ってこないと冗談まじりにいわれていたのを思いだす。 このページ先頭へ第3章 日本の音楽教育はまちがっている
p82: 995年にイタリアに生まれた、グイドという高僧の作曲したヨハネ賛歌の一行ずつの 音の高さが今のドレミファソラで始まっており、しかもその詩の先頭の文字が、 Ut・Re・Mi・Fa・Sol・Ra だったので、それ以降、そう呼ぶように習慣化しただけのことである。 そして、Ut(ユト)は後に発音しやすいようにDo となり、 17世紀はじめに Si が追加された。この追加されたSi が後々、論議を呼ぶことになる。 …、余談だが、「ドーはドーナッツのド」はいいとしても、「レはレモンのレ」はおかしい。 R と L の発音が分からない日本人の典型的な恥である。 p83: 独語の音名「B(ベー)」は「H(ハー)」の半音下である。 最初のころは音の名前は「ラ」までしかなかった。 これから類推しても、当時の「シ」の音程は不確かだったのである。 体勢は、半音下の変ロだったので、ドイツ音名は、その半音低い「シ」の音に「B」と つけている。… 時代は移り、導音という概念がはやりだして、 「ド」に到達するには半音高い「シ」が当然という流行になったとき、 その音はドイツ音名で「H(ハー)」と呼ばれるようになったのだ。 いつ頃、高い「シ」の音が主導権をとるようになったか? これは私の推測だが、バレストリーナ(1525〜1594)という、宗教音楽を沢山書いた 有名な作曲家の時くらいだろうと思われる。そのころに属七という不協和音が発明された からである。属七といってもなんじゃと思われるかも知れないが、 ハ長調でいう「ソシレファ」の和音で、コードネーム G7 になる。 当たり前のコードだが、中世の教会では、「ファ」と半音高い「シ」の間に生じる大変に 音程のとりにくい「三つの全音(トリトーン)」を「悪魔のトリトーン」と呼び、 禁則にしていたから、「シ」が半音低かったのもうなずけるのである。 ちなみに、あの大バッハはバレストリーナの死後約90年たって生まれている。 p96: ところで数学なら 6/8 は 3/4 と同じなのだが、音楽では全くちがう拍子である。 3/4 は厳然とした三拍子だが、6/8 というのは、2/4 と親戚である。… この、3/4 と 6/8 の違いを見事に利用したリズムがある。 それはメキシコ系のマリアッチで、そのリズム感で大成功したのが、バーンスタインの ミュージカル「ウエストサイドストーリー」の「アメリカ」である。 あの曲では、6/8 と 3/4 が交互に出てくる。 p105: ギターで「ド」の音を人さし指で取ると、次の「レ」はフレットを一つまたぐので、 薬指でとることになる。フレットのないチェロも指使いは同じである。 ところが、バイオリンは「ド」を人さし指でとると、次の「レ」は中指でとる。 これは「#」がついていようと「b」だろうと関係ない大原則である。 そして、「ド」の「#」は「ド」に変わりはないのだから、人さし指でとる。 反対に、「レ」の「b」は中指でとる。 そして、フレットもないのにこの半音を押さえるときに先生から教わることは、 「#」のついた「ど」は中指の「レ」の位置に限りなくくっつけるということになる。 反対に「b」のついた「レ」は限りなく人さし指に近付けた中指という風に教わる。 … その結果、「ド」の「#」は「レ」の「b」よりかなり高いし、「レ」の「b」は 「ド」の「#」よりもかなり低くなる。 一方、チェロはギターと同じ押さえ方をするから、 常に、「ド」の「#」と「レ」の「b」は同じ位置になる。 だから弦楽四重奏のとき、臨時記号の多い曲なんかの、チェロとビオラのオクターブは、 音程の合わないことがものすごく多い。 p116: バッハ時代にもいろんな調律法があったが、それはすべて純正な音と、 演奏しやすい間引いた音との妥協の産物だった。 モーツァルトが好み、19世紀の終わりまで、ピアノの調律法の主流といえば、 中間音律(ミントーン)だった。 これは「ドミソ」の美しさをそこねるピタゴラスとは反対に、 完全五度の「ド」と「ソ」を少し犠牲にしても 「ド」と「ミ」の純正度を保つように考案されたものである。 … モーツァルトは、自分の曲を平均律で彈く奴がいたら殺してやるというほど、 極端に平均律を嫌っていたといわれている。 平均律は19世紀の始めに確立されていたが、その汚い不自然な響きゆえに誰からも 認知されなかった。それ以前から、平均律でしか調律できなかったギターやハープなど が主流の楽器になれなかったのは当然のことである。 このページ先頭へ第4章 純正律こそ体に良い調律である
p130: バイオリンの調弦は純粋に美しい完全五度を「自分の耳」でたしかめながらやるが、 それにくらべ、ピアノの調律はまず純粋に美しい完全五度を「自分の耳」でつくるまでは 同じなのだけど、ここから、とんでもない作業が待ち受けている。 平均律のピアノの完全五度は完全ではなく不完全なのだ。 ほんの少しだけど五度上の音を低くし、不協和なうなり、つまりビートがでるように 再調整するのだ。0.8秒に一回、ワンワンといううなりが生じるのである。 p134: バイオリニストとアンサンブルしたときに、バイオリンの音程が悪いなどと、 ホザくんじゃない!と個人的に怒ってみたりして。 平均律以前はピアニストや作曲家は自分で調律していたのだ。だからかなり個人の好みの 調律ができていたのである。それにくらべ、今のピアニストは自分で調律していないのだから、 音程に対して鈍感で無責任な人が多い。 このページ先頭へ終章 玉木宏樹の「言いたい放題」
玉木宏樹のホームページから p151: 君が代に対する一つの提案をしたい。それは、あのどうにもならないドイツのアカにまみれた ドミソ節のコード進行を何とかしようじゃないかということだ。… もし、新しいコードを発見した方がいたらE-MAILしてくれませんか。 p158: 1997年1月、純正律トークショーが終わって… 世の中はこわいもので、私の知らない人でも強力な純正律研究者がいるということがわかり、 心強いと同時に肝が半分冷えた。平均律が初めてピアノに搭載されたのは1843年で、… p176: 1997年10月、絶対音感神話をきる この秋に小学館から「絶対音感」に関する本が出る予告が七月の週刊ポストに出た。 21世紀世界国際ノンフィクション大賞を取ったというのだが、一部を紹介されたその内容は、 ウソとひどい間違えと捏造で膨張した、非文化国家日本の恥の上塗りをするような、 … 出る前にここで告発しておく。
「Be-Bop study / Perfect 5th」で、ピタゴラス音階とか平均律を話題にした直後、 新聞広告で「絶対音感」の本を知り、早速、本屋で探して購入しました。 その時に、「純正律のすすめ」というサブタイトルの本が目に入り、一緒に買いました。 まず最初に読んだのは「絶対音感」ですが、「純正律」の方が2カ月ほど早く発行されている。 以下は、感想というか「言いたい放題」です。 * * * 「絶対音感(Absolute Pitch)」最相葉月 小学館(1998年3月) これは約300頁もあるので、読んでいて少し飽きてくる感じもする。 幾つかの章は割愛できそうだし、 特に、「プロローグ」と「エピローグ」は後味がよくないので疑問、 ないほうがすっきりした良い本なのに。。。 でも、「21世紀世界国際ノンフィクション大賞」を受賞した本なのです。 第1章から第6章、いろいろと興味深いことが書いてある。 だいたいは上記にまとめてあるので参考にして下さい。 幼児の音感教育というのは、自分の子にやらせたほうがよかったなぁ、 いや、やらせなくて正解だったのだ、とか考えながら読んでいました。 この本は、最後の「第8章 心の扉」が感動する力作だと思います。 ここだけを読むために、「絶対音感」の本を買っても損はないかも。 特に、音楽に興味をもっている親、あるいはその娘さんにとって。 * * * 「音の後進国日本(純正律のすすめ)」玉木宏樹 文化創作出版社(1998年1月) 表紙に、永六輔さんからのコメントがあって、 「専門書なのに大笑い」とか「バイオリンの野人が吠る」とかが当たっています。 確かに専門的な内容が分かりやすく紹介されており、 「Be-Bop study コーナー」への新しい話題を提供してくれる貴重な本です。 特に、中間音律(ミントーン)については、私の楽典には載っていなかったもので、 後日「Perfect 5th」の続編として載せるつもりです。 終章 玉木宏樹の「言いたい放題」は、著者が自分のホームページから抜粋ですが、 本を買わなくても、このアドレスから覗くことができます。 ご注意!新しいウインドウが開いて、外部にリンクされます。 http://www.music.co.jp/~archi/ ちょっと覗いてみましたが、こんなのがありました。 言いたい放題コーナー、2/24/1998 版に、 「長野オリンピックと第九について」、一読を! それから重要なことですが、 この本には、CD-ROMが付いていて純正律のコードや音楽を聴くことができます。 確かに純正律と平均律のコードはすぐに聞き分けられます。 が、 平均律のうなりがビブラートのように感じて、何か心地かったりもするのはなぜか! 「人々の耳が平均律化してゆくことを心配、地球全体が平均律化しているという不安」 これはひょとして想像以上に進行しているかもしれません。 この本を買った人は、自分の耳を確かめてみて報告して下さいね。このページ先頭へ