Jewish Wisdom: Chapter 12

When To Give, What To Give, How To Give
( Why Tzedaka Is Not Charity )

第12回講座


第2章「いつ与えるか、何を与えるか、いかにして与えるか」 このページ最後へ
When To Give, What To Give, How To Give ( Why Tzedaka Is Not Charity )
いつ与えるか、何を与えるか、いかにして与えるか
(なぜツェダカは慈善とは違うのか)

from The Torah

 もし、あなたの中の貧しい同胞がいるならば .... 
 その貧しい同胞に対して、心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、
 彼に大きく手を開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。
                           [ 申命記15:7-8 ]


 慈善には8つの階級がある。
 各々はその次より高く、最も高い階級は、どれによっても越えることはできない。
 最高の慈善とは、
 貧しいユダヤ人に贈り物あるいはローンを与えることによって、
 あるいは彼を共同経営に参加させることによって、
 あるいは彼に仕事を見つけてあげるのを助けることによって、
 すなわち、他の人々の援助を分配することができる場所に彼を置くことによって、
 その貧しいユダヤ人を援助する人である。

         [ --- Moses Maimonides, Mishuneh Torah, 
                   "Laws Concerning Gift to the Poor," 10:7 ]


ユダヤ人の法律に従うと、
慈善の最も高い形は、短期間であっても、それを必要としないことを保証することである。
信頼おける慈善の継続は受取り人の勇気をくじく、という今日広く受け入れられていることを、
マイモニデス(Moses Maimonides)は明白に直感していた。
この理由で、彼が強調することは、貧しい人にローンを作り彼に仕事を見つけることである。


from The Torah

 もし同胞が貧しく、自分で生計を立てることができないときは、
 (文字通りには、「そして彼の手が落ちる」ときは)
 寄留者ないし滞在者を助けるように、その人を助け ... 
 あなたはその人からローンの金利を取ってはならない ....
                         [ レビ記25:35-37 ]

「そして彼の手が落ちる」という語句に関して、あるラビの注解では、
人は彼をひどい貧乏に落とすことを許してはならない、と教えている

 この命令は、ロバの背に重い荷物の話に類似して説明されよう。
 ロバが立っている限りは、一人の人が、ロバを押さえてそして荷を乗せる。
 しかしロバが倒れてしまうと、五人の人ですら、ロバを起き上がらすことができない。
                      [ --- Sifra Leviticus on 25:35-38 ]

この命令、「あなたはその人からローン金利を取ってはならない ....」に関して、
聖書の法律は、実際に、「全て」のローンの金利をとることを禁止している。
しかし古代のユダヤ人の生活が、独占的な農耕経済から、農業と結合した経済、小さな事業
に拡張した時に、事業の利益を分配することによって、
貸し手に金利を稼ぐことを許した法律「合法的なfiction」をラビたちは制定した。

私はこれを「合法的なfiction」と呼び、そして通常の投資とは呼ばない。
なぜならば、貸し手は、その事業が利益を出そうが出すまいが、彼の設定した割合を
「稼ぐ」からである。

しかしこの法律条項は事業の利益だけに適用している。
今日までユダヤ人は、必需品を買うための人にまで拡張されたローンに関しては、
どんな金利を集めることも禁止されている。
ユダヤ人の共同社会は、歴史を通してずっと、貧乏人に金利無しのローンを拡張するために、
(貧乏人とは、繁栄を続けることを避けることに努力している人々)
「Free-Loan Societies」(ヘブライ語の”Gemakh”として知られている)を設立してきている。

あらゆる人の必要が、ローンや仕事の提供で満足されるわけではないので、
ユダヤ人の伝統では、慈善に関連して二つの別個の提言をしている。
貧乏の危機にある人々には、繁栄に変わるためにあらゆる可能性の選択を試みるように主張、
そして莫大な財産を所有している人々には、寛大さを主張している。

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The Jewish Message To The Poor
貧乏の人々へのユダヤ教の教え

from The Talmud

 通りにある動物の死体の皮をはいで、そして賃金を稼ぎなさい。そして
 「(私を援助してくれ)、私は偉大な賢者であって、この仕事は私には品位を落とす」
 と言わないように。
                  [ --- Babylonian Talmud, Bava Bathra 110a ]

 あなたの安息日(の食事)を平日(の質素な食事)のようにしなさい、
 そして他人に援助を求めないように。
                  [ --- Babylonian Talmud, Bava Bathra 118a ]

いくつかのラビの書物は、貧乏人に対して難かしい論理的議論を創造した。
一方で、どんな選択もないときには、彼らに慈善を受け入れるように命令している。
他方で、できるだけ長くその日を遅らす人々を称賛している。

 老人、病人、あるいは非常に苦しんでいる個人のような慈善を受けることなしには生き残ること
 ができない人で、しかも助けを頑固に拒む人は誰でも、自分を殺すという罪になる ... 
 しかし慈善を必要としているが、それを取るのを遅らせて、そして共同社会に面倒をかけない
 ように貧しく暮らす人は、他人のために支給するように生活しなさい。

          [ --- Rabbi Jpseph Karo(1488-1575), Shulkhan Arukh
                   (The Code of Jewish Law), Yoreh Deah 255:2  ]


 19世紀の Vilna で、ある裕福な男が彼の全ての財産を失った。
 彼は貧乏であることを大変に恥じて、彼の立場を誰にも知らせなかった、
 そして実際に栄養不良で死んでしまった。
 Rabbi Israel Salanter (1810-1883)が恥じた町の人々を慰めた。
 「その男は飢えで死んでしまった、しかし自尊心が過渡であった。
  もし彼が自発的に助けを他人に求めて、そして彼の立場を打ち明けていたならば、
  彼は餓死することはなかったであろう。」 
             [ --- Based on Shmuel Himelstein, Words of Wit, page 169 ]


慈善を受け取る人が、自分自身を乞食以上に価値がないとして見ることを妨げるために、
ラビは注目すべき法律を制定した。

 慈善で生き残っている貧乏人でさえも、
 慈善を与えるべきである。
                    [ --- Babylonian Talmud, Gittin 7b ]

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The Imperative To Respond: Judaism's Message To Everyone Except The Poor.
応答すべき命令:貧乏の人々を除いたあらゆる人へのユダヤ教の教え


ユダヤ人の法律は、
成功した市民が慈善を与えない理由で、貧乏の人々に向けた教えを引用することを意図していないし、
あるいは、その教えを使うことで、物乞いに屈辱を与えることを意図していない。
(例えば、「なぜあなたは町で動物の皮をはぎに行かないのか?」といった屈辱、など)

 もし金持ちが貧乏人にこう言うならば:
  なぜあなたは出ていって仕事を見つけに行かないのか?
  あれらのものを見よ! あれらの両足を見よ! あの腹を見よ! あの筋肉を見よ!
 その時、主なる神がその金持ちに言うであろう:
  あなたが彼にあなたのものを何も与えていないということで、あなたにとって十分ではないのか?
  あなたは、わたしが彼に与えたところのものを、また、ねたまなければならないのか?
                          [ --- Leviticus Rabbah 34:7 ] 


ユダヤ人の教科書が、
金持ちの人々に向けている時は、それらのメセージは貧乏の人々への教えとは全く違っている:

 慈善は、他の全ての戒律を結合したものに、重要さにおいて等しい。
                   [ --- Babylonian Talmud, Bava Bathra 9a ]

 内密に慈善を与える人は、モーゼよりも偉大である。
                   [ --- Babylonian Talmud, Bava Bathra 9b ]


しかしながら、英国のユダヤ人作家 Chaim Bermant が皮肉を言った、
この種の偉大さは、「ユダヤ人がめったに熱望しないところの一つである。」

マイモニデスに従うと、
匿名の寄付は慈善の第2番目に高いランクである。
(寄付する側と受け取る側が互いに知らない、すなわち第三者あるいは慈善の組織を含む)
私の祖父、Rabbi Nissan Telushkin、の聖なる記憶であるが:

 昔、貧しくなったあるラビの学生に対して生計の金が必要となった。
 祖父は、他のラビたちに彼への請願を呼びかけた、しかし受取人の身元を漏らすかもしれない
 全ての情報は隠した。
 Cincinnati のある男、Rabbi Eliezer Silver、が祖父に金額欄が空白のままのサインのある
 チェックを送ってきた。
 それにはこう書いてあった、
 「あなたは受取人の環境と身元を全体的によく知っている人であるので、
  あなたのみが、記入されるべきた正しい合計を知っているのです。」


マイモニデスが最も低いレベルとして、
慈善の8番目のレベルと指摘したのは、人々がしばしば驚嘆する、「気難しく与える人」である。
(Mishuneh Torah, "Laws Concerning Gifts to the Poor," 10:14)

もちろん、少しも与えないよりはいやいやなでも与える方がまだよいが。
理想的には、人は喜んで与えるように熱望すべきである。
数年前に、United Jewish Appeal キャンペーンスローガンが勇気付けていた。
「それが不都合とならないまで与えなさい!」

 Leover として知られているあるハシディックのラビが、こう教えた。
 もし人があなたに助けを求めにやって来た時に、
 「神があなたを助けるでしょう」、とあなたが彼に告げるならば、
 あなたは神に不信義な行ないをしている。
 なぜならば、神はあなたに貧乏な人を助けるように送ってきたのであり、
 その貧乏な人を全能なる神に追い返えさないように、とあなたは理解すべきである。

       [ --- Based on Lionel Blue with Jonathan Magonet, 
             The Blue Guide to the Here and Hereafter, page 168 ]


 Nikolsberg の Rabbi Shmelke (d.1778) が言った:
  貧乏人があなたに助けを求めにやって来る時は、
  彼を助けないための口実として、彼の欠陥を使ってはいけない。
  なぜならば、その時は、
  神はあなたの罪を探すであろう、そして神は多くを見つけるに違いない。


 Arthur Kurzweil は言っている:
  この引用は、金を求めている酒飲み人を扱っている時に、何らかの助けとなる。
  「彼は酒にそれを使うだけだ」、という理由で私が彼に金を拒むことは、助けにはならない。
   [ --- The Treatment of Beggars According to Jewish Tradition, page 110 ]


乞食の問題に関しては、
何が道徳的に正しいか私は知らない、と告白する。
この問題の議論に関して、
ほとんど全ての慈善的な組織そして社会のために働く人はコメントした:
乞食に与えることは、乞食に対しても、そして継続的に世話する所に対しても、結局は悪い。

多くの数の乞食によって洪水のようになった時、私は自分の行動に一貫性がないのを見ている。
(私が住むNew York City の歩行者は、一日に20回以上もしつこくせがまれる)
私がいつ誰に与えるかを決定する明白な理論的な解釈なしに、
私はある人には与え、他の人には通り過ぎる。

私がただ知っていることは、
「わたしはずっと食べていない、わたしは腹ぺこだ」、と誰かが言う時に、
歩き去るのが難しいと私が見ていることである。

 もし人が(いくらかの)慈善を与えることを避けるために彼の目を閉じるならば、
 それはあたかも彼が偶像崇拝の罪を犯している。
                      [ --- Babylonian Talmud, Ketubot 68a ]


けちくさいことと偶像崇拝との間の見たところこじつけの関係は、
近代のタルムード学士 Rabbi Adin Steinsalz によって解説されている:

 彼の金が、神から来ているということを知っている人は、
 彼の金から貧乏人に与えるであろう。
 しかし貧乏人に与えない人は、
 彼自身の力(そして知恵)が単独に彼の持っている全てに責任があると明白に信じている。
 彼が彼自身をあらゆるものの排他的な源泉であるとして断定する限りにおいて、
 これは偶像崇拝の一つの形である。

    [ --- Commentary on Ketubot, page 302; Hebrew edition of Steinsalz Talmud ]


主要な現代ラビの名士である Rabbi Israel Meir Ha-Kohen Kagan (1838-1933) 、
彼はthe Haffetz Hayyim として知られている人、
彼はこのタルムードの格言を聖書の句に結び付けている:

 「あなたは、あなた自身のために銀の神、金の神を造ってはいけない(出エジプト記20:20)」、
 すなわち金や銀を神にしてはいけない。(Ahavat Chesed, Chapter 10)

ラビたちの観点では、偶像崇拝のローマ社会の破滅的な特徴の一つは、
芸術の美的に先進的ではあるが、貧乏人に対する残酷な無関心にあった。

ある賢者の報告にある。

 Rabbi Joshua ben Levi がローマに行った時に、
 彼は、布で覆われた大理石の寝台を見た。暑さからひび割れせずに、寒さから凍らないように。
 彼はまた、ある貧乏人が下にわらのマットだけ、上にわらのマットだけ、であるのを見た。
                          [ --- Pesikta de-Rav Kahana 9:1 ]

 我々は、イスラエルの貧乏人と一緒に生活している非ユダヤ人の貧乏人を支援する。
                        [ --- Babylonian Talmud, Gitten 61a ]

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Steady Giving
習慣的な寄付

from the Shulkhan Arukh

 祈りの前に慈善を与えることは良いことである。
               [ --- Shulkhan Arukh, Orakh Chayim 92:10 ]

今日最も伝統的なシナゴークでは、ウィークデイの朝の祈りのサービスの間、
(安息日や祝日には金を扱うことが禁止されている)
小さな「プシュケ(慈善箱)」が回される、そして人々は貢献することが期待されている、
たとえただ僅かな金額であっても。

 ふさわしい一人に千の金貨を与える人よりは、
 それぞれがふさわしい理由のある千の異なった機会に千の金貨を与える人の方が、
 寛大である。
       [ --- Anoymous; sixteenth century Orhot Zaddikim 
                          (The Ways of the Righteous) ]

その著者はこう仮定しているものと私は信じている:
散発的、衝動的よりは、むしろ習慣的に寄付する行為が人をより寛大になるために慣らす。
それがすなわち、安息日に入る直前の毎金曜日の午後に、子供たちに慈善箱の中に金を入れる
ように習慣とし続けている理由である。
これは、今でも多くのユダヤ人によって守られている。


from the Talmud

 断食の長所は(分配された)慈善である。
                [ --- Babylonian Talmud, Berakhot 6b ]

このタルムードの注釈として、中世の学士 the Maharasha は説明している:
断食の前には、人々は彼らが食べないことによって節約した分の金を慈善として分配する
習慣があった(Babylonian Talmud, Sunhedrin 35a)。
不幸にして、この美しい習慣はほとんど全ての現代のユダヤ人に知られていない。
それは復興すべきである。

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How Much Charity Should A Person Give?
一人がいくらの慈善を与えるべきか?

理想的には、
人は彼または彼女の収入の10パーセントを最小として寄付すべきである、
ユダヤ人の法律では下限と同様に上限を置いているけれども。

 寄付をしたい人は(一般的に)彼の収入の五分の一以上を与えるべきではない、
 さもなければ彼が慈善を必要とするようになるからである。

                [ --- Babylonian Talmud, Ketubot 50a ]

修道僧の命令を引受る貧困の誓いによって集約されているように、
初期のクリスチャンの貧乏の理想化に対して、タルムード法律は対象的にそれ応答している。
ラビたちは貧乏を呪いとして見ていた:

 この世には貧乏以上に耐えることが難しいものは他になにもない。なぜならば
 貧乏によって潰された人はこの世のもめごとの全てがくっついて離れない人のようである...。
 我々のラビは言った、
 「もし、この世の全ての苦難と痛みが(天秤の一方に)集められ、
  貧乏が他の側に集められたならば、貧乏の方がより重いであろう」
               [ --- Exodus Rabbah 31:14; →この本の第61章を見よ ]

このように、もしそれが正直な方法においては、財産のある人は適切な量の慈善を与える限りは、
ユダヤ人の法律は富の蓄積を何か悪いこととは決して見ていない。


慈善の最低額と最高額を設定する場合、その心理学的な知恵は二つの部分からなる:

一つは、彼らがそれ以上を与えるようにと人々を勇気づける。
(彼らの収入の2から3パーセントを慈善に与える人は、普通、彼ら自身気前が良い
と考えている、と私は見ている)
もう一つは、必要な額を寄付した敏感な人々に、彼らの所有を罪なしで楽しむことを可能にする。
 

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But Aren't Many Beggars Fakers ?
しかし多くの乞食たちのほとんどは大ぼら吹きであると主張して、乞食に金を与えない人々
(おそらく我々を含めて)を我々はみな知っている。
ユダヤ人の史料は、この議論をいかに扱っているであろうか?

from the Talmud

 ラビ・ハニナは貧しい人を知っていた。
 毎回きちんと、安息日の前に、彼に4ズジームの金銭を送っていた。
 ある日、ラビ・ハニナが妻を介してその金額を送った。
 彼女は帰ってきた、そしてその男はそれをもらう必要はないとラビ・ハニナに言った。

 (ラビ・ハニナは妻に尋ねた)お前は何を見たのか?
 (彼女は答えた)私は、彼がこう質問されていたのを聞いたのです:
  「あなたの安息日の食事は、銀色の食卓ですか、あるいは金色の食卓ですか?」
 (ラビ・ハニナは彼女に答えた)
  Rabbi Elazar ben Pedat が言ったのはそんな場合のためである:
  「我々は、貧乏人の中に不正直な者たちがいるのをありがたく思うべきである。
   もし彼らがそうでなければ、(あらゆる乞食の現われに応答していない)我々は
   毎日罪を犯していることになるのだから。」
                   [ --- Babylonian Talmud, Ketubot 68a ]


このアプローチは、あるハシディックなラビによって補強されている。
Rabbi Chaim of Sanz (d. 1786) は言った:

 慈善の長所は偉大なので、私は百人の乞食に喜んで慈善を与える、
 たとえ実際に必要としているのがその中のたった一人であっても。
 しかし何人かの人々は、一人がにせものだという事実をもって、
 百人の乞食に慈善を与えることを拒むように行動している。

Rabbi Chaim の誇大な声明にもかかわらず、ラビたちは、裕福なごまかしの乞食を、
彼らの盗癖のゆえに、そしてある人々に慈善を与えることを遠ざけているゆえに、軽蔑した。
命令によって大ぼら吹きな乞食たちを消し去ることは不可能であったので、
ラビたちは彼らの嘘を真実に変えるために天国に熱望した:

 我々のラビは教えた。
 もし人がめくら、膨れた腹、あるいは縮んだ足を持っているふりをしているならば、
 彼は、実際にそんな状態になる前にこの世を去ることはないであろう。
 慈善を受け取る人が、それを必要としない人ならば、彼の終わりはこうなる:
 「実際にそんな状態(慈善を受け取る必要のある人)になる前にこの世を去ることはない」
                   [ --- Babylonian Talmud, Ketubot 68a ]


from the Talmud

タルムードは教えている、
 人は一人の乞食に多額を与える必要はないけれども、
 少なくとも少額を与える努力をすべきである。

マイモニデスは規定した、
 人が全く何も与えないならば、
 人は少なくとも楽しい挨拶を広げるべきである。

これは重要な与えられたガイドラインのように見える。
我々の多くが、大きな都市に溢れている乞食たちに冷たく向っている。

 ある貧乏人が、「私に着物を与えてくれ」と言う時、
 彼は調査されるべきである(彼にだまされないように)。
 ある貧乏人が、「私に食べものを与えてくれ」と言う時は、
 彼は調査されるべきではない(すぐに食事を与えなさい、調査中に餓え死にしないように)。

                    [ --- Babylonian Talmud, Bava Bathra 9a ]

 昔、Kovno の町に一人の乞食がやって来た、そして住民から多額の金を集めた。
 その町の人々はすぐに彼が詐欺師であることを発見した。
 彼は実際に裕福な男であった。
 町の評議会は、Kovno の町に乞食がお金を集めにやってくるのを禁じる条例を作りたかった。
 Kovno のラビ、Rabbi Yitzchak Elchanan Specter (1817-1896) 、が
 その提案された条例について聞いた時、彼は評議会の前に来て話す許しを求めた。
 彼は言った、
 「誰があなた方をだましたのですか。
  金を必要としている人ですか、裕福な人ですか?
  それは貧乏のふりをした裕福な人であったのです。
  もしあなた方が条例を作りたいならば、義援金を集めるのを禁ずるのは、
  金を必要としている乞食ではなく、裕福な人たちを禁じるべきです。」

              [ --- Irving Bunim, Ethics from Sinai, Vol.3, page 121 ]

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Isn't It God's Will That The Poor Be Poor ?
貧乏人が貧しいのは神の意志なのか?

from the Talmud

タルムード時代のラビは、貧乏人の苦しみは神の意志であるに違いない、
という今ではめったに引用されない議論をしばしばさせられた。
事実、ある有名なローマの高官によって、タルムードの偉大な賢者に提出された議論がある。

 Rabbi Meir は言ったものだ。
 あるユダヤ教への批判家が、あなたに対して議論をしかけてくるかもしれない、
 「もしあなたの神が貧乏人たちを愛しているならば、なぜ神は彼らを支援しないのか?」
 彼に言いなさい、
 「貧乏人たちを通して、我々が死んだ後に我々が罪から救われるためである。」

 実際に Turnusrufus(ユダの地のローマの高官)によって、ラビ・アキバに出された質問。
 「もしあなたの神が貧乏人たちを愛しているならば、なぜ神は彼らを支援しないのか?」
 ラビ・アキバは答えた、
 「貧乏人たちを通して、我々が死んだ後に我々が罪から救われるためである。」

 Turnusrufusは言った、
 「いや、ちょうど反対に、これゆえに、あなたが死んだ後にあなたは罪を追求される。
  私はたとえ話を通してあなたにそれを証明しよう。
  これを想像しなさい。
  ある意地の悪い王様が、彼の召し使いに怒って、彼をろうやに閉じ込めた。
  そして彼に食べ物も飲み物も与えないように命令した。
  そしてある男がやって来て、彼に食べ物と飲み物を与えた。
  もしその王様が聞いたならば、はたして彼はその男を怒らないであろうか?」
 
 ラビ・アキバは彼に答えた、
 「私はたとえ話を通してあなたに答えよう。
  これを想像しなさい。
  ある意地の悪い王様が彼の息子に怒って、彼をろうやに閉じ込めた。
  そして彼に食べ物も飲み物も与えないように命令した。
  そしてある男がやって来て、彼に食べ物と飲み物を与えた。
  もしその王様が聞いたならば、はたして彼はその男に褒美をあげないであろうか?」

                     [ --- Babylonian Talmud, Bava 10a ]

ラビ・アキバは、 Turnusrufus がいう貧乏は神からの罰であるという議論を受け入れたように
見えるけれども、貧乏の人々は神の子供たちであり、そしてそれに従って扱われる権利を与える、
と彼は主張し続けている。
最も重要なことは、貧乏人への我々の助けを神が喜ぶと主張していることである。
加えて、神の子供たちであることは、貧しい人々を食べ物、飲み物、お金だけでなく、
同様に、恥をかかせないですませる権利を与える。

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Guarding The Dignity Of The Poor
貧しい人の自尊心は幾つかの方法で安全に守られる。

1. 貧乏のある数量は避けられない、
ということをあらゆる人に思い起こすことによって、自尊心は守られる。

 私が命令したあなた方の土地に、貧乏人が絶えることは決してないであろう、
 だから、貧乏人に対してあなた方の手を開きなさい。
                     [ 申命記 15:7-8 ]


2. 金持ちの人々が、慈善を通して神の命令を果たすために、
個人的な「必要」を持っている、ということを教えることによって、自尊心は守られる。

 Rabbi Joshua ben Hananiah は言った:
 金持ちが(慈善を与えることによって)、貧乏人のためにするよりも、
 貧乏人が(慈善を受け取ることによって)、金持ちのために多くする。
                    [ --- Leviticus Rabbah 34:11 ]


Rabbi Joshua の教えは、ユダヤの民間伝承である「shnorrer(乞食)」のイメージを創造
することを助けた。
(Sigmunt Freud が引用した Jokes and Their Relationship to the Uncinscious )、
多くのジョークの中で、「shnorrer(乞食)」は恥じるべきで服従的であるよりも、
むしろ誇るべきそして肯定的である。
乞食は寄付する人の金に「権利がある」と感じている、なぜならば、
彼は寄付する人に「戒律」を実行するための機会を与えることで大きな好意をしている。
一つの意味深い話ある:

 「shnorrer(乞食)」が毎週ある男から決まった寄付を受け取る習慣があった。
 ある日、彼は金を求めてやって来る時、その男は彼に何も与えることができないと言う。
 「私は最近恐ろしく出費をしてしまった。
  私の妻がたいへんな病気になり、そして私は彼女をCarlsbadの健康保養地に送った。
  そこはとても寒かったので、私は彼女に新しい衣服と毛皮のコートを買ってしまったのだ。」
 「何と!」、その乞食は叫んだ。「私の金で?」


3. 裕福な人々の現在の経済状態が劇的に変化する、
ということを彼らに印象付けることによって、自尊心は守られる。

 Rabbi Hiyya は彼の妻に忠告した、
 「貧しい人が玄関に来るならば、素早く彼に食べ物を与えなさい、
  その同じことがあなたの子供たちになされるように」
 彼女は絶叫した、
 「あなたは子供たちを呪うのですか(彼らが乞食なるように暗示して)」
 しかしRabbi Hiyya は答えた、
 「この世界は回転している車輪である」
                    [ --- Babylonian Talmud, Shabbat 151b ]


 人は、生活は回転している車輪のようであり、
 最後には彼あるいは彼の子供あるいは彼の孫たちが慈善をもらうように変えられるかもしれない、
 という事実を深く考えるべきである。
 それゆえ彼は
 「貧乏人に与えることによって、いったい私がどれほど私の富を減らすことになるのか?」
 と考えるべきではない。
 そうでなく、彼の富が彼自身のものではなく、預金者(神)の意志としての信用として
 彼に預金されただけであるのだ、と理解すべきである。
                [ --- Abridged Code of Jewish Law, 
                         by Rabbi Solomon Ganzfried (1804-1886), 34:1 ]

 ある正直な男 Reuben が Shimon に金を貸してくれるように求めた。
 ためらいもなく、Shimon はローンを与えた、しかしこう言った、
 「私は実際にこれを贈り物としてあなたに与える」
 Reuben はたいへん恥じて、そして当惑させられた。
 それで彼は決してShimon に再びローンを求めることはなかった。
 明らかに、この場合は、Reuben にその種の贈り物を与えないほうが良かったであろう。
          [ --- Judah the Pious, Sefer Hasidim 
             (the thirteenth-century Book of the Pious), paragraph 1691 ]

疑いもなく善意であるけれども、Shimon の振る舞いは受け取り手に屈辱を与えた、
彼がもはや平等でなく、より低い社会レベルの乞食であるという感じを与えることによって。

このエピソードは私にこうした評論を思い起こす:
 昔、ラビがある大博愛主義者を論評をした、
 「彼は、本当に良い人間であるように、あまりにも多くの慈善を与えるのが好きである」
 すなわち、彼は与えることで慈善を受けている他の人々から、あまりにも多くの満足を
 引き出している。

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Subtlety In Giving
与えるときの敏感さ

 著名な20世紀の正当派の賢者、Rabbi Aharin Kotler、彼は自分の振る舞いが
 注意深い調査にさらされたのを知っていた。
 昔、彼がシナゴーグに入ってゆき、そして再び出てきた時に、
 彼が同じ乞食にお金を与えているのを観察された。
 なぜ彼が同じ男に二度与えたのかと質問された時に、
 Kotlerは答えた、
 「自分がその貧乏人を見過ごしている、と誰かが見ていて、
  その男が援助される価値がないと判断するかもしれないことを恐れた」

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If All Else Fails: Pragmatic Reasons For Giving Charity
慈善を与えるための実用本位な理由

 慈善は死から救う。     [ --- 箴言 10:2 ]

ほとんどのユダヤの文献はこのことを、慈善は寄付する人を早い死から救うという意味である
と理解している。
多分この句は文字どおりに、慈善は受取人を救う、と翻訳されるべきである。

 ある人が、
 「私はこのコインを慈善に与えている、私の子供が生きるように」、
 あるいは
 「次の世界の中に私がそれを作るように」、と言うならば、
 彼は完全に正当であると認められる(彼の自己本位な動機であるにもかかわらず)。

               [ --- Babylonian Talmud, Pesachim 8a-b ]

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Something Greater Than Charity: Gemilut Chesed, Acts Of Loving-kindness
慈善よりも偉大なこと:Gemilut Chesed、愛のある親切な行動

from the Talmud

 我々のラビは教えた:
 「愛のある親切な行動(Gemilut Chesed)」は3つの方法で慈善よりも偉大である。
 慈善は、人の金でなされる、
 一方、「愛のある親切な行動」は、人の金でなされるか、あるいは、人自身でなされる。
 (例えば、病人に時間を費やすこと)
 慈善は、貧乏人のみに与えられる、
 一方、「愛のある親切な行動」は、貧乏人と金持ちの両方に与えられる。
 (例えば、喪中あるいは気のふさがった人を慰めること)
 慈善は、生きている人にのみ与えられる、
 一方、「愛のある親切な行動」は、生きている人と死んだ人の両方に与えられる。
 (例えば、貧しく死んだ人に対して正しい埋葬を整えることによって)

                    [ --- Babylonian Talmud, Sukkot 49b ]

ラビは、神を、愛のある親切な行動の原形の模範であると考えた。

 トーラ自体が、人々に主の道を歩くように命令している。(申命記13:5)

 神が裸の人に衣服を着せた----それゆえ、あなたもまた裸の人に衣服を着せるべきである。
 「そして主はアダムと彼の妻のために皮の衣服を作った、そして彼らに着せた」(創世記3:21)

 神が病人を訪問した----それゆえ、あなたもまた病人を訪問すべきである。
 「主はマムレのテレピンの木のそばで、(アブラハムに)現われた」
          (創世記18:1 これはアブラハムが90才で割礼をしてすぐ後であった)

 神が死人を埋葬した----それゆえ、あなたもまた病人を埋葬すべきである。
 「主はモアブの谷で(モーゼを)埋葬した」(申命記34:6)

 神が喪中の人を慰めた----それゆえ、あなたもまた喪中の人を慰めるべきである。
 「そしてアブラハムの死んだ後、主は彼の息子イサクを祝福した」(創世記25:11)

                    [ --- Babylonian Talmud, Sotah 14a]

そのラビは、卓越と同等に、死人の埋葬を「愛のある親切な行動」として見た、
なぜならば、「受取人」である死人に、必然的にその良い行動の見帰りを支払うどんな希望もない
からである。
実際、Haffetz Hayyim は「愛のある親切な行動(Gemilut Chesed)」を、
「人が見帰りとして何も得ないで、他人のために行なう良い行為」として定義した。

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A Final Thought
一つの最終的な思想

 人は、物質的なもの以上に精神的に関係を持つべきである、
 しかし他の人の物質的な繁栄は、その彼自身の精神的な関心事である。

   [ --- Rabbi Israel Salanter (1810-1883),  founder of the Mussar movement,
       a movement that put particular emphasis on ethical self-improvement ]


ロシアの宗教的 な理想主義者、Nikolai Berdyaev (1874-1948) 、は
より詩的に同じ考えを表した。

 私自身のためのパンの質問は、物質的な質問である。
 しかし私の隣人のためのパンの質問は、精神的な質問である。

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