Jewish Wisdom: Chapter 3

Helping The Helpless

What are our obligations to society's
most vulnerable members?

第13回講座


第3章「援助のない人を助けること」
社会で最も傷つけられやすいメンバーへの我々の義務は何か? このページ最後へ
The Poor, The Weak, and The Vulnerable
貧乏人、弱者、傷つけられやすい人

from The Bible

 寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。
 あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。
 どんな寡婦や孤児も苦しめてはならない。
                  [ --- 出エジプト記22:20-21 ]


人々が、社会で最も弱い者、最も重要でない者にいかに有利な立場にあるか、と
トーラは認識している。
そして同情だけの表現では、感受性の強い動機づけのある人々にとっては不十分である、と
トーラは気づかっている。
このように、トーラはこれらの戒律の2番目に「kicker」を加えて、
寡婦や孤児を虐待する人々を警告している:

 あなたたち自身の妻が寡婦となり、
 そして、あなたたちの子供が孤児となる。
                  [ --- 出エジプト記22:23 ]

寄留者に対しては、神が愛するものとして識別された人々のカテゴリにある、と
トーラは主張している:

 そして神は、寄留者を愛する。
          [ --- 申命記10:18 ]

ドイツ系ユダヤ人の哲学者Hermann Cohen(1842-1918)は信じていた、
寄留者を保護している聖書の戒律は、真の宗教の始まりを表わしている:

 寄留者は保護されるべきであった。
 彼は家族のメンバーではないし、一族、宗教、共同体、民族でもないけれども。
 単に、彼は人間であったゆえに。
 それゆえに、寄留者で、人は人間性の理想を発見した。
    [ --- cited in Richard Schwartz, Judaism and Global Survival, page 13 ]


by Mimonides

 人は寡婦や孤児に向けて、特別に用心深く振る舞わなければならない、
 なぜならば、彼らの精神は深く落ち込んでいて、彼らの気運は低いからである。
 たとえ彼らが裕福であっても、彼らが王様の寡婦や孤児であっても、
 我々は、彼らに関して警告されている:どんな寡婦や孤児も苦しめてはならない。
 
 我々は、彼らに対していかに振る舞うべきか?
 人は、彼らに対して、いつも優しく話さなければならない。
 人は、彼らに揺れない礼儀正しさを見せなければならない;
 物理的につらい仕事で傷つけてはならない、残酷な言葉で感情を傷つけてはならない。
 人は、彼らの財産や金を、自分のもの以上に大きな世話をしなければならない。
 彼らを、いらいらさせる、怒らせる、苦しませる、虐げる、あるいは金を失わせる、
 そいうことは罪である。
     [ --- Moses Maimonides, Mishneh Torah,
        "Laws of Character Development and Ethical Conduct," 6:10 ]


マイモニデスが明白にしているように、非常な貧困はいつも財産への同情だけではなく、
それは感情的な、そして心理的な貧困にある人々にも引用される。このように、
たとえ王様の寡婦や孤児であっても傷つけられやすく、感情的な支援を必要としている。

 腹のへった(hungry)全ての者を招き入れて食事を与えよう、
 非常な貧困の(needy)全ての者を招き入れて過ぎ越しの食事を与えよう。
   [ --- Traditional prayer recited near the beginning of the Passover Seder ]


イスラエル人のノーベル賞受賞者、Shmuel Yosef Agnon は
小説「The Passover Celebrants」を書いた。
その全体のポイントは、「hungry」と「needy」との違いを強調したことであった。

 小さな東ヨーロッパの町に、一人の「shammas(シナゴークの守衛)」が住んでいた。
 彼はたいそう貧乏であったので、過ぎ越しの時期がやって来たときに、
 セデルの食事の食べ物を買う金がなかった。
 彼は腹ぺこで一人で町を歩き回った。
 その同じ町で、一人の裕福な婦人が住んでいた。
 彼女の夫は最近死んでしまった。
 これは、夫なしの最初おの過ぎ越しのセデルであった。
 これまでの習慣から、彼女は美しいセデルの食卓を準備したが、
 一人であったゆえに、彼女は落ち込んでいた。
 
 しかし、その寡婦は貧困の「shammas(シナゴークの守衛)」に会い、
 そして彼らはそのセデルを一緒に祝う。
 その夜の終わりまで、彼らは力のある関係を形成する。
 そこには希望のある理由がある:
 彼はもはや「hungry」ではなくなり、彼女はもはや「needy」ではなくなる。

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The Physically, and otherwise, Disadvantaged
身体障害者、その他、貧困者

from The Torah

 目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。
 あなたは神を畏れなさい。
             [ ---レビ記19:14 ]


身体的な盲に残酷ないたずらをしないように命令することに加えて、
すぐ近くのことに「めくら」であるどんな人にも有利な立場になることを禁ずるものとして、
ラビは、この句を大ぴらに翻訳した。
誰かの知らないことに有利な立場で、不適切な忠告を与える人は、
この聖書の法律に違反していると考えられている。
あるラビが、このレビ記についての注解を教えている:

 人があなたのアドバイスを求めているならば、彼にとって悪い助言を与えてはならない。
 盗賊が彼を襲うように、「朝早く出発しなさい」と彼に言ってはいけない。
 暑さで彼が倒れるように、「昼間に出発しなさい」と彼に言ってはいけない。
 あなたが彼を出し抜いて、彼から畑を取り去るために、
 「あばたの畑を売って、ロバを買いなさい」と彼に言ってはいけない。
                    [ --- Sifra Leviticus on 19:14 ]

この最後の例が明らかにしているように、誰かがあなたのアドバイスを求めている時に、
あなたがすぐ近くのことに個人的な興味を持っているかどうかを、公表しなければならない。

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Visiting and Helping The Sick
病人を訪問し助けること

from The Talmud

 ラビ・アキバの門下の学生の一人がたまたま病気になったが、
 賢者の誰もが彼を訪問しなかった。
 しかしラビ・アキバは彼を訪問した。
 彼は、その学生のために部屋を掃除し清潔にしたので、その学生は回復した。
 その学生は彼に言った、
 「ラビ、あなたはわたしに生命を与えてくれた!」
 ラビ・アキバは出ていって、そして教えた、
 「病気の人を訪問しない人々は、その病人の血をこぼしたのとまさに同じことである」
                    [ --- Babylonian Talmud, Nedarim 40a ]

 
 「我々はメシアを、(我々の賢者が尋ねた)、どこで探したらよいのでしょうか?
  メシアは栄光の雲の上で、威厳の衣を着て、光の冠を被って、我々に来るであろうか?」
 タルムード(The Babylonian Talmud Sanhedrin 98a)は報告している:
 Rabbi Joshua ben Levi が、預言者エリヤ自身に劣らず権威のある者にこの質問をした。

 Rabbi Joshua は質問した、
 「わたしはメシアをどこで見つけたらよいのでしょうか?」
 「町の門のところで」、エリヤは答えた。
 「いかにして私は彼を認識したらよいのでしょうか?」
 「彼はライ病患者の中に座っている」
 「ライ病患者の中?」、Rabbi Joshua は叫んだ。
 「彼はそこで何をしているのですか?」
 「彼は自分の幾つもの包帯を変えている」、エリヤは答えた。
 「彼は一つずつ包帯を変えている」
 それはメシアが行うようなことにはとうてい見えないかもしれない。
 しかし明らかに、神の目には、それが力強いことなのである。
     [ --- Rabbi Robert Kirschner, sermon on AIDS,
                       quoted in Albert Vorspan and David Saperstein, 
                       Tough Choices: Jewish Perspectives on Social Justice, page 236-237 ]

これは、1985 ヨムキプールの Rabbi Kirschner の説教の結論であった。
彼のサン・フランシスコの議会が AIDS患者に手を差し出すように主張している。
Kirschner が、メシアはライ病患者の中に座っているという Rabbi Joshua の教えを引用した。
それは、ライ病で苦しんでいる古代の世界の多くの人々の応答は、
AIDSで苦しんでいる現代の多くの人々の応答と匹敵しているからである。

Kirschner は説明している、
我々の賢者の時代には、ライ病であることは病気で苦しまされるばかりでなく、
軽蔑されることであった。
それは恐ろしい死に至るばかりでなく、それにふさわしく非難されるべきことであった。
このように、メシアがライ病患者の中に住むことを選んだと発表することによって、
Rabbi Joshua は、ライ病に対抗した大衆的な偏見を打ち破ったばかりでなく、
ライ病患者は両手で押し出されるべきである、
と信じていた彼の同僚たちラビの多くを打ち破った。
あるミドラッシュのテキストは、Rabbi Yochanan がこう言っていたと報告している。

 ライ病患者に4キユービット(約6フィート)以上近寄ることは禁止されている。
 Rabbi Ammi と Rabbi Assai は、ライ病患者たちが生活していると知られた場所には
 決して近寄ろうとしなかった。
 これは Resh Laskish の教えであった。
 彼は、町でライ病患者を見た時に、
 「我々を汚染することを止めなさい、そしてあなたが来た場所に戻りなさい」、
 と叫びながら、彼に石を投げたものだ。
                       [ --- Leviticus Rabbah 16:3 ]

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Political Asylum
政治的な非難所

from The Bible

 逃れてきた奴隷を、その主人に引き渡してはならない。
 あなたのどこかの町の彼が選ぶ場所に、望むがままに住まわせなさい。
 彼を虐げてはならない。
               [ --- 申命記23:16-17 ]

1857年、Dred Scott の場合、
それはかって残されてルール化された最も不道徳で不運な最高裁法廷であった。
その主人によって自由な州に連れて来られた黒人の奴隷は、
強制的に南部の奴隷として戻されることができる、とその裁判はルール化した。
この三千年前の古い聖書の法律では、奴隷を含む全ての人々は、
確かに奪うことができない権利を与えられているが、
これと対比して、この裁判長の Roger Taney は、
白人が尊敬される義務を負っているような権利を黒人は持たない、と書いた。

この聖書の法律に違反したこの最高裁法廷は、大荒れに働いた。
今日、歴史家たちは、Dred Scott の決定と、それが奮い立たせた革命を、
市民戦争の主要な原因としてみなしている。
最高裁法廷の Felix Frankfurter は、
後の裁判では決してこの決定を述べることはなかったと観察した、
一人の息子がロープで絞首刑と述べられた一つの家族を除いて。
(cited in John Garraty, ed., Quarrels That Have the Constitution, page 88-89)

一般に、聖書の法律は発展的であるが、革命的ではないことに注意すべきである。
実際、そのために、奴隷制度が一様に実施されていた世界の中で、
トーラは奴隷制度を禁止しなかった理由であるようだ。
それでもなお、この法律は聖書の奴隷制度での不快さを示している、
なぜならば、人から彼または彼女の財産を傲慢にも奪うことを許しているところは、
トーラの中でここを除いて他のどこにもないからである。
しかし、奴隷は人間である、そしてそれゆえ、また、神の姿で創造されているのであるから、
彼または彼女の状態は単なる物質にまで落されるべきではない。

そして聖書は、人間の望まれるべき状態を自由として見ている、
-- 結局、それが、出エジプト記の最初の半分のメッセージである --
もし奴隷が、逃げることによって主人の激怒のリスクを負うならば、
聖書の支持は排他的に一方の側、つまり奴隷の側にある。

この聖書の句の現代での結論は、
独裁者や全体主義の政権から逃れてきた人々に、政治的な非難場所を与えることに、
民主主義が一般化されるべきである、ということ。
最も不道徳な行いは、「逃亡してきた奴隷を、その主人に」返すことである。

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Balancing Ritual Observance with Sensitivity
感受性でバランスした儀式の遵守

by Rabbi Zelig Pliskin 

 Rabbi Israel Salender が、あるとき、昔の学生によって安息日を彼と過ごすために
 招待された。
 その学生は、先生が食事の戒律をいかに厳格に遵守するか知られていたので、
 自分がユダヤ教の戒律の全てにいかに注意深いかを詳細に供述した。
 金曜の夜の食事のコースの間には、彼の家の中で、
 トーラとタルムードの議論をする参加者が加わって、そして安息日の歌を歌う、
 ということを加えて言った。

 Rabbi Salender は言った、
 「いつもよりも短い食事の状態で招待を受けたい」
 その学生は驚いた、しかし同意した。
 そして食事は素早く進んだ。
 その終わりに、彼はそのラビに尋ねた、
 「食事を行う自分の普通の方法について、何があなたを悩ましているのですか?」

 「あなたに示そう」、そのラビは答えた。
 彼は、未亡人であるお手伝いさんを呼び寄せた、
 そして彼女にいつもより早く仕事をしてくれたことに感謝した。
 彼女は答えた、
 「いいえ、そんなことはありませんよ。
  私はあなたに感謝しています。
  金曜の夜の食事はいつもたいへん遅く終わります、
  そして、その週全体の仕事から私は疲れ切ってしまうのです。
  今夜は、私は眠る時間を取り戻すことができます。」

 彼女が去った後に、そのラビはここの主人に言った、
 「あなたの習慣的な安息日の食事は、実にすばらしく聞こえる、
  しかし、たいへんい疲れているお手伝いさんを犠牲にすべきではない。」

    [ --- Based on Rabbi Zelig Pliskin, Love your Neighbor, pages 219-220 ]
 

同様な物語が告げている:
Rabbi Israel Salender が、もう一人の家で食事を食べている。
パンを祝福する前に、両手を儀式的に洗うときに、
最も少ない量の水を使っていることにみんなが驚いている。
伸ばした両手に、惜しげもなく水を注いでいる人たちは、
彼の普通でない振る舞いに説明を求めた。
「お手伝いさんが、井戸からバケツに水を汲んで家に持ってくることを知っている。
 これらのバケツはとて重い、
 そして私は、私の戒律を彼女の両肩の上で演じたいとは思わない。」
 
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