Jewish Wisdom: Chapter 7

Truth, Lies, and Permissible Lies

第17回講座


第7章「真実、うそ、そして許されるうそ」 このページ最後へ
The Bible and Talmud favor truthfulness
聖書やタルムードが、真実を好むことは何の驚くべきことでもない。

from The Bible

 偽りの発言からずっと離れていなさい。 
                   [ --- Exodus 23:7 ]

 盗んではいけない、だましてはいけない、そして互いに嘘をついてはいけない。 
                          [ --- Leviticus 19:11 ]


from The Talmud

 あなたの舌に、「私は知らない」と言うことを教えなさい、あなたに嘘をつかせないように。
                             [ --- Babylonian Talmud, Berakhot 4a ]

 人は、子供に何かを与えると約束して、それから彼にそれを与えないということをすべきではない。
 なぜならば、結果として、その子供は嘘をつくことを学ぶであろうから。
                               [ --- Babylonian Talmud, Sukkah 46a ]

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When Half-Truths and White Lies are Allowed
半分の真実と罪のない嘘が許される時

from The Talmud

 偉大なことは平和である、そのためには神でさえも真実を変更したことが分かる。
                          [ --- Babylonian Talmud, Yevamot 65b ]

このタルムードは、創世記の中のある出来事からの教えを基本にしている。
3人の天使がアブラハムとサラを訪れに来た、アブラハムとサラは夫々99才と90才であった。
彼らは、一年以内に彼の妻が子を生むであろう、とこの族長に言った。
サラは、これを近くで聞いていた、そして
「今や私はしおれている、そんなに老けた夫と共に、私は楽しみを持つことができようか?」
と言って、一人で笑った。
次の句で、神はアブラハムに言う、
「なぜサラは笑ったのか?、『私はそんなに老いているのに、本当に子を産むことができようか』
と言って」(創世記18:12-13)。
神は、アブラハムが彼女を妊娠できないほどあまり老いている、と言ったサラの引用文を省略している。
これは明らかにアブラハムが彼の妻を怒るようになることを恐れてのことである。

この出来事から、ラビたちは結論した。
人間の感情が危機にある時に、全体の真実よりも少なく言及することが許される、
それがたとえ嘘の印象を運ぶことになろうとも。


タルムードの最も有名な議論の一つが、それをもう一歩先に進めている:

 我々のラビたちは教えた:
 花嫁の前で、人はいかにダンスをするか、(そして人は何と言うか)?
 シャマイ派は言う、「その花嫁は、彼女のありのままに(述べられる)」
 ヒレル派は言う、「美しくて優雅な花嫁(であると、あらゆる花嫁は述べられる)」
 シャマイ派がヒレル派に言った、
 「もし彼女が、びっこあるいはめくらであっても、彼女に『美しくて優雅な花嫁』だと言うのですか?
  トーラは、『偽りの発言からずっと離れていなさい』と命じてはいませんか?」(Exodus 23:7 )
 しかしヒレル派はシャマイ派に答えた、
 「あなた方の言葉に従うと、もしある人が市場で悪い買い物をしたならば、
  人は彼にそれを称賛すべきか、あるいはそれを非難すべきか?
  確かに、人は彼にそれを称賛すべきである」
 それゆえに、ラビたちは教えている、
 「いつでも人の意向は、人々と共に楽しみであるべきである」
                      [ --- Babylonian Talmud, Ketubot 16b-17a]

ある人の買い物を称賛することに対して、あなたがそれに本当に感銘しない時に、
その買い物がなされる前か後であるかで、きわどい意見の相違がある。
もし前であるならば、ラビたちはあなたに真実を言うように助言したであろう。
もし後であるならば、その人の感じを良くするよう助けた方が良い。

同様に、もし誰かが不適当な格好でパーティに行こうとしているならば、
あなたは彼/彼女にあなたの真実の感じを告げるべきである
(あなたがその人を当惑から救うかもしれないから)。
しかし、もしあなたがパーティで不適当な衣装の誰かに会うならば、
あなたはその人に、彼/彼女は立派に見えると告げるべきである、
なぜならば真実はその人をたいへん不愉快にするだけであろうから。


社会的な環境の中で、ユダヤ教は真実に対して実践的な態度を持っている。
より良いことを獲得すること無しに害を与える真実は禁止される、
そのことがすなわち、ヒレル派の立場が受け入れられてきている理由である。

シャマイ派についての一つの最後の考え:
「シャマイが人に花嫁の身体の欠点を叫ぶように意図した」、と信じることは困難である。
このことは、人に他人を恥じさせることを禁じているタルムードの法律に違反しているであろう。
もっとありそうなことは、一つのタルムードの注解(Tosafot)が提案しているように、
シャマイはただこう意図しただけである:
人は、その花嫁の彼の称賛を、真に魅力的なところに限定すること、
「彼女の目や手、もしそれらが可愛いければ」。
もしこの注解が正しければ、しかし、ヒレルの異議はさらにもっと理解できなくなる。
なぜならば、もし花嫁の全体の美を称賛する代わりに、
人が彼の称賛を彼女の姿のただ一部(例えば目とか)に制限するならば、
これはただ、述べられないで残った魅力のない姿をあらゆる人に思いださせるだけである。
それゆえに、シャマイのタイプの称賛は、侮辱になるというリスクを担う。


ラビたちに従うと、
最も高貴な「罪のない嘘(white lie)」を告げる人はモーゼの兄であるアロンであった。
トーラは彼の個人的な生活についてほとんど物語っていないけれども、ラビの書物は、
アロンが、言い争っているグループ間に平和をもたらすことに夢中であった者として叙述している。
彼は人々を和解させる助けとして何かを言ったものである:

 二人の男が口論していた時に、アロンは彼らの一方に行って座り、そして言った、
 「私の息子よ、あなたの友人が何をしているか見なさい!
  彼は自分の胸を叩き、自分の衣を裂き、そして悲しみうめいている、
  『悲しいかな!私はいかに目を上げて、私の仲間の顔を見つめるることができようか?
   私は彼の前で恥じている、なぜならば彼を不正に扱ったのは、それは私だからだ』」
 アロンは彼と共に座った、彼が全ての怒り(文字どおりには、嫉妬)を彼の心から取り除くまで。
 それから、アロンはもう一方の男の方に行き、そして同じように言った、
 「私の息子よ、あなたの友人が何をしているか見なさい!
  彼は自分の胸を叩き、自分の衣を裂き、そして悲しみうめいている、
  『悲しいかな!私はいかに目を上げて、私の仲間の顔を見つめるることができようか?
   私は彼の前で恥じている、なぜならば彼の感情を悪くしたのは、それは私だからだ』」
 アロンはまた彼と共に座った、彼が全ての怒りを彼の心から取り除くまで。
 後に、その二人が会った時に、彼らは互いに抱きしめてキスをした。
             [ --- The Fathers According to Rabbi Nathan, chapter 12:3 ]


あるラビの同僚が私にこう打ち明けた、彼は昔アロンの戦略を使用して論争を解決しようと試みた。
不幸なことに、この場合は、その技法は向かえ火となった。
その二つの憤慨した仲間が会った時に、お互いに、
相手の人が以前の振る舞いを今は後悔したことを、いかに幸福であるかと感謝した。
その真実はすぐに現われて、そして彼らの口論はさらに新しい熱烈さをもって再び始まった。

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Speaking Truth To God
神に真実を述べること

from The Talmud

 神の印章(文字どおりには、サイン)は真実である。
            [ ---Babylonian Talmud, Shabbat 55a ]

神が許さないと宣言している十戒の中の一つは、その三番目、すなわち神の名で嘘をしゃべることである。
そうすることは、人が「主の印章を偽造する」罪となる、とRabbi Abraham Twersky が注解した。
神の歓喜が基準である祈りにおいてさえも、
彼ら自身の神の経験に反抗した賛美で、神をほめたたえることを拒む人々に対して、
ラビたちは著しい忍耐を見せた:

 その偉大な集会(紀元前3世紀にユダヤ人の生活の先導的な母体)の中に(仕えていた)人々は、
 なぜその名前で呼ばれたのか?
 なぜならば彼らは、その古代の完全に神の賛美を復元したからである。
 モーゼは言った、(申命記10:17)、
 「偉大で、力強く、そして畏敬な神(The great, the mighty and the awesome God)」

 しかしエレミアが来て言った、
 「外国人が主の神殿を壊している。その時、主の『畏れ』の行為はどこにあるのか?」
 ここで(エレミアが神を書き表した時)、彼は付きものである『畏れ』を省略した。
 彼は神を書き表した、(エレミア記32:18)、
 「偉大で、力強い神(O great and the mighty God)」

 ダニエルが来て言った、
 「外国人が主の息子たちを奴隷にしている。主の『力強い』行為はどこにあるのか?」 
 ここで(ダニエルが神の話をした時)、彼は言葉『力強い』を省略した。
 彼は神の話をした、(ダニエル記9:4)、
 「偉大で、畏敬な神(O Lord, great and the awesome God)」

  しかしその偉大な集会の人たちが来て言った、
 「ちょうど反対に!.....その中に主の畏敬の力が横たわっている。
  なぜならばもし主の恐れがなかったなら、人が(深く嫌った)国が、
  いかにして多くの国々の中から生き残ることができたのであろうか?」

 しかし初期のラビたち(エレミア、ダニエル)は、
 モーゼによって築かれた表現をいかにして廃止したのであろうか?
 Rabbi Elazar が言った:
 「彼らは、主、(ほめたたえられるべきかな)、主が真実を主張しているのを知っていたので、
  彼らは嘘の事を神に帰することをしなかった。
 (そしてエレミアの生涯には、神が自ら畏敬を現わさなかった、
  そしてダニエルの生涯には、神が力強さを現わさなかったために、
  彼らはそんな表現を使うことによって嘘をつかなかったのだ)」

                       [ ---Babylonian Talmud, Yoma 69b ]


私がこの一節を共に学んだ幾人かは、エレミアとダニエルがこの単語「畏れ」あるいは「力強い」
を省略したのは反抗ではなく偶然であったと主張した。
しかし、おそらく、そうでもなさそうである!
神についてのモーゼの表現はとてもよく知られていたゆえに、
その部分を省略した人々は多分意図的にそうしたのだ。
アメリカ大統領が公衆で、憲法の権利「生活と幸福の追求」を話すことを想像してみなさい。
我々は、「自由(liberty)」の省略が、意図的であるとみなさないであろうか?


真実の神の愛に関して、
Francine Klagsbrun が、ある18世紀のラビについて次のような話を物語っている。

 ハシディックのラビ Elimelekh of Lyzhansk(d. 1786)が言った:
 私が死んで正義の法廷に立つときに、
 彼らは、私があるべくように公正であったか、と質問するであろう。
 私は、いいえと答えるであろう。
 その時、私があるべくように慈悲深かったか、と質問するであろう。
 私は、いいえと答えるであろう。
 私がすべくように多く(トーラを)勉強したか?
 再び、私は、いいえと答えるであろう。
 私がすべくように多く祈祷したか?
 そしてこの時も、また、私は同じ答えをせざるを得ないであろう。
 その時、最高の裁判官は笑って言うであろう:
 「Elimelekh 、あなたは真実を話した。
  これだけの故に、あなたは来たるべき世界に分け前を持つであろう」

           [ --- Francine Klagsburn, Voices of Wisdom, page 524 ]

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Should One Tell The Truth To A Person Who Is Dying?
人は、死にそうな人に真実を告げるべきであろうか?

from the Shulkhan Arukh

最高のラビの権威者たちに従うと、
人は、ある重大な病気の人には、彼/彼女の希望を奪うであろうどんな最終的な公告を発することなしに、
彼/彼女の病気を知らせることである。

 ある男が死にそうである時に、我々は彼に「罪の告白(viduii)」を朗唱するように告げる。
 我々は彼に言う、
 「多の人が告白を言った、その時は死ななかった。
  そして多くが告白をしなかった、その時は死んだ。」
                    [ --- Shulkhan Arukh, Yoreh Deah 338:1 ]


 Rabbi Abraham Danzig の書、19世紀初期のユダヤの法律の法典であるHokhmat  he-Adam、
 が報告している:
 ベルリンの Hevra Kadishaの将校たちと多くの他の共同体の人たちが、
 全ての病人を彼らの病気の第三日目に訪問していた。 
 彼らの病状の重さに関わりなく、「全て」の病人が平等に扱われた。
 そのような訪問を確信することによって、彼らはその時に、共同体の方策の問題として、
 最終の準備と死に関する事柄を議論をすることができたのだ」
         [ --- Basil Herring, Jewish Ethics and Halakhah for Our Time, page 62 ]


Rabbi J. David Bleich、近代の法律の学者が、
ベルリンの共同体のこの慣習を「今の時代の医者たちに対する見本」として見ている。

 医者は、おそらく重大な病癖であろうもので苦しんでいる病人を扱う時には、
 彼の病人たちの全てに同一の助言を与えていること、
 そして彼が、最悪を恐れる時だけではなくて日常に行なっていること、
 それを、その病人に明らかにすべきである。
 このように、病人は安全のうその意味でなだめられることもなく、
 また過渡の警告の理由に気がつくこともないであろう
                         [ Judaism and Healing page 32 ]

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Final Reflections On Liars And Truth Tellerss
嘘つきと正直者

ハシデジックのラビ、Naftali of Rotchitz(d. 1827)が、
よく知られたある嘘つきの男を論評した、
「彼が言うことはただ真実ではないばかりではなく、彼が言うことの反対でさえ真実ではない」
     [ --- Shmuel Avidor Ha-Cohen, Touching Heaven, Touching Earth, page 78 ]


from the Talmud

 嘘つきの罰は、彼が真実を告げる時でさえ彼は信じてもらえない。
                    [ --- Babylonian Talmud, Sanhedrin 89b ]


Yiddish proverb

 半分の真実は、全体の嘘である。
               [ --- Yiddish proverb ]

 真実は決して死なない、しかしそれは不幸な生活を生きる。
                  [ --- Yiddish proverb ]


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