Jewish Wisdom: Chapter 9

Arguing Ethically

第19回講座


第9章 道徳的に議論をすること このページ最後へ
How To Argue Ethically
どのように道徳的に議論をするか

from The Talmud

 シャマイ学派とヒレル学派との間で3年間の論争があった。
 「法律は我々の観点に従っている」と、シャマイ派は主張した。
 そして、「法律は我々の観点に従っている」と、シャマイ派は主張した。
 その時、天からの声が発っせられた、
 「両方の教えは生きた神の言葉である、しかし法律はヒレル派の議論に従っている」

 しかし、両方の教えは生きた神の言葉である、と答えられた後に、
 法律がヒレル派の議論に従っている、という権利が与えられたのは何の理由だろうか?
 ヒレル派は親切でつつましいために、彼ら自身の判決とシャマイ派の判決を勉強した、
 彼ら自身の教えの前にシャマイ派の教えを述べることさえもしたからである。
                     [ --- Babylonian Talmud, Eruvine 13b  ]


ヒレル派が論争中に彼ら自身を管理したその独特な道徳的な作法は、
彼らの反対側が真実の結論に達する以上なことを為した。
まず一つは、彼らが「親切でつつましい」ために、反対者によって述べられた時に、
真実を認めることを彼らの自我が妨たげなかった。
第二に、彼らがすでに同意した見地ではなく、彼らの反対側の位置を勉強した。
このことは、一つの争点の全ての側の検査を通して後でのみ、
彼らが一つの結論に達したことを保証している。

シャマイ派は一方の側しか学ばなかった、とタルムードは暗示している。
それゆえ、彼らが誤った時には、彼らは自身を修正することはなかったようだ、
なぜならば彼らは反対の観点に彼らを危険にさらすことをしなかったからである。
このようにヒレル派の議論の方法は、ただ「親切でつつましい」だけではなく、
それはまた偉大な正確さと真実に導いた。


その文献と同じく何からでも真実にオープンなことは、
紀元1世紀の Rabbi Joshua ben Hananiah(彼はヒレル派の後継者)、を特性づけた。

Rabbi Joshuaは彼の生涯でただ3回だけ議論で負かされたと主張した:
不完全な作法のために彼を非難した女性によって1回、
そして他は「少年と少女」によるもの。

 (彼が問われた)その少女の場合に何が起きたのか?
 昔、私が道を歩いていた、そして(私有の)畑を横切る道があった。
 私はその道を使った。
 その時に一人の少女が私に叫んだ、
 「御主人さま、これは畑ではありませんか?
  (そしてそれ故に許し無しであなたが使うことが禁止されている)」
 「いいえ」、私は答えた、「それは明らかによく踏まれた道です」
 彼女が私に言った、「あなたのような盗人がそんなにしたのですよ」

その少女が注意したように、
正直でない行動が広く実践されているという事実が、その行動を許すことにはならない。
私が思いつく現代的な例では、
製品を買う代わりに複製禁止のソフトウェアを複製してしまうことがそれである。

 そして、その少年の場合に何が起きたのか?
 また昔、私が旅をしていた、そして十字路に座っている少年を見つけた。
 彼に聞いた、「その町へ、どちらの道をとったらよいか?」
 彼は答えた、「こっちの道は短い、しかし長い。そしてあっちの道は長い、しかし短い」
 私は、彼が「短い、しかし長い」と表現した道をとった。
 しかしその町へ近づいた時、その町が庭園と果樹園に囲まれていた
 (そして人はわまり道をしてのみ町につける)、ことを発見した。
 それゆえに私はもとの十字路に戻った。
 私がその少年を見た時に彼に言った、「わが息子よ、この道が短いと私に告げなかったか?」
 彼は答えた、「そしてまた『しかし長い』と告げなかったですか?」
 そのとき私は彼の額に接吻して叫んだ、
 「あなたは幸福だ、おおイスラエルよ!あなたは賢いゆえに、若者は老人と同じだ」
                     [ --- Babylonian Talmud, Eruvine 53b  ]


忠告は、特に簡潔に述べられた時は、注意深く分析すべきであることを
Rabbi Joshuaはその少年から学んだ。



この少年の含蓄のある忠告は、
私が最近のエレサレム派で作家Rabbi Pinchas Peli から聞いた特性を示すようなイスラエルの物語
を私に思い起こさせる。

 一人の男が丘を登りは始めようとしていた、彼は近くにいる老人を見つけた。
 彼は老人に聞いた、
 「この丘を私が登るのにどれほどかかるでしょうか?」
 老人は何も言わなかった。
 彼は再びもっと大きな声で質問した。
 再び、老人は何も言わなかった。
 その老人は「つんぼ」あるいは「おし」だと推定したので、彼は丘を登りは始めた。
 彼が数十段進んだ時、突然その老人は叫んだ、
 「およそ20分だよ」
 その男は振り向いた、
 「私が聞いた時に、あなたはなぜ何も言わなかったのですか?」
 その老人は答えた、
 「なぜならば、あなたが進むスピードを見るまでは、
  あなたがその丘を登るのにどれほどかかるかを、どうして私が知ることができようか?」


from the Fathers

 天のためであるあらゆる論争は、結局は持続するであろう。
                [ --- Ethics of the Fathers 5:17  ]

すぐに忘れられてしまうつまらない口論と違って、
「天のためである」論争は「結局は持続する」であろう、そして何世代にも学ばれるであろう。
しかし、19世紀の Rabbi Israel Salanter はこの格言をまったく違って理解した:
 
 最も偉大な危険は、あなたの論争が天のためであると信じることである --- 
 なぜならば、その時その論争は持続し続けるであろう。
                [ --- Saul Weiss, Insight, page 204 ]
 
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The Rabbis "Best" God
ラビたちが神を言い負かす

from The Talmud

 ある日、ラビ・エリエゼル(Rabbi Eliezer )は世界中の全ての議論を取り出した、
 しかし賢者たちはそれらを受け入れなかった。
 ついに、彼は彼らに言った、
 「もし法律が私に従うならば、あのいなごまめの木にそれを証明させよう」
 彼が近くのいなごまめの木を指差した、その時その木はその位置から100キュービック動いた、
 ある人は400キュービックだと言う。
 彼らは彼に言った、
 「いなごまめの木が動いたことから、人はある証明をすることなどできない」

 ラビ・エリエゼルは言った、
 「もし法律が私に従うならば、あの水の流れがそれを証明するように」
 その時、その水の流れが変わり反対方向に流れた。 
 彼らは彼に言った、
 「水の流れの振る舞いから、人はある証明をすることなどできない」

 ラビ・エリエゼルは言った、
 「もし法律が私に従うならば、この学びの家の壁がそれを証明するように」
 学びの家の壁が内側に曲がり始めた。 
 その時、ラビ・ヨシュア(Rabbi Joshua )立ち上がって学びの家の壁を非難した。
 彼は言った、「もし賢い学生たちがユダヤの法律のことについて互いに議論するならば、
 あなたが妨げる何の権利があるのですか?」
 ラビ・ヨシュアの名誉においてその壁は内側に曲がるのを止めた、
 しかしラビ・エリエゼルの名誉においてその壁はまっすぐに立たたずに、
 この日に曲がったままである。

 ラビ・エリエゼルは賢者たちに言った、
 「もし法律が私に従うならば、天から証明が来るように」
 その時、天の声がやってきて言った、
 「あなたがたはラビ・エリエゼルと何の関係があるのか?
  法律はあらゆる場所で彼に従っている」
 その時、ラビ・ヨシュアは両足で立ち上がって言った、
 「それは天にあるのではない(申命記30:12)」

 ラビ・ヨシュアはこの引用によって何を意味しているのか?
 ラビ・エレミア(Rabbi Jeremiah )が言った、
 「彼が意味したのはこうだ。
  トーラはシナイ山ですでに与えられているゆえに、
  我々は天の声に注意を払ってはいない。
  なぜならば神ご自身がトーラの中に書いている、
  ”多数に従って決定し(出エジプト記23:2)”」

 ラビ・ナタン(Rabbi Nathan)が預言者エリヤ(Elijah)に会った。
 彼はエリヤに聞いた、
 「聖なるお方である神は、その時に何をしていたのですか?」
 エリヤは言った、
 「神は笑っていた、そしてこう言っていた、
  ”私の子供たちが私を負かした、私の子供たちが私を負かした”」

                   [ --- Babylonian Talmud, Bava Mezia 59b  ]


Haym Maccoby は、彼の奇妙な名文集の中でこの物語を翻訳した。
「The Day God Laughed: Sayings, Fables and Entertainments of Jewish Sages (pages 141-142) 」
この物語は中世のクリスチャン神学者たちを激怒させたと彼は主張している。
「the 1240 Disputation of Paris」の間に、
タルムードが裁判にかけられ、焼き捨てるように判決が下された時、
タルムードの「痴愚(imbecillity)」の一例としてこの物語が引用された。
トーラが与えられて以来、ユダヤ民族は疑いもなく天からのどんな新しい声にも耳を傾けるべきでない
というその主張は、実際、イエスに対する挑戦として理解された。
Maccoby は主張している:

 この物語はタルムードの要旨を打ち出している。
 神は良い父であり、父は子供たちが成長して、そして独立を成し遂げて欲しいと願う。
 神は彼らにトーラを与えた、しかし今は彼ら自身の方法でそれを発展させるように欲している。
 このように、神と奇跡の真実を認める一方で、ラビたちは主張している。
 双方(神と奇跡の真実)が人間の議論と理性的行動の要求に道を与えなければならない。
                    [ --- The Day God Laughed、pages 142 ]


Maccoby の最後の点「奇跡」は、
極めて重要な、そしていつも現代の異宗教間での議論の争点を起こしている。
宗教の弁解者たちは、もちろん彼らの尊敬する聖典に記録されている奇跡を引用することによって、
彼らの信仰の真実を証明しようと努力する。
熱心なキリスト教の改宗者たちは、いかに私がイエスの神性を信じないのかを何度も不思議がった。
(新約聖書は、イエスが十字架にかけられた日の3日後に、イエスが起き上がり、
そして多くの目撃者が見たと記録している)
そんな議論は他の信仰の固守をめったに納得させることはない、なぜならば
これらの人々はすでに、彼ら自身の信仰のシステムによって主張された奇跡を信じている、
そして通常、他によって主張された奇跡を拒否するからである。
このように、どの宗教も奇跡を主張するために、現存する価値ある議論とは、
理性と合理性の普遍的な標準を訴えている議論だけである。

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A Malicious Arguer Gets His Comeuppance
悪意のある議論者は当然の報いを得る

from The Talmud

 昔、シーザが Rabbi Tanchum に言った:
 「来なさい、我々は全て一つの民になろうではないか」
 ラビは答えた:
 「それは良いことです。
  しかし割礼されている我々はあなたのようになることは出来ない故に、
  それでは、あなたが割礼されて我々のようになるべきです」
 シーザは言った:
 「よく言った。
  しかし議論で皇帝を打ち負かす者はだれでも、
  ライオンどもに投げ込まればければならない(野獣の闘技場に)」
 彼らはラビを闘技場に投げ込んだ、しかしライオンたちは彼を食べなかった。
 (近くに立っていた)ある一人の異教徒が言った:
 「ライオンたちが彼を食べなかったその理由は、ただ彼らが空腹でなかったためなのだ」
 彼らはその異教徒を闘技場に投げ込んだ、するとライオンたちが彼をむさぼり食べた」

                    [ --- Babylonian Talmud, Sanhedrin 39a  ]

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