Jewish Wisdom: Chapter 11

When Life is At Stake

第6回講座


第11章「生命が脅かされる時」 このページ最後へ
You shall live by them, but ...

from The Talmud

 あなたがたはそれらによって生きよ、しかしそれらのために死んではいけない。
                  [ --- Babylonian Talmud, Yoma 85a ]

レビ記の中の句(レビ記18:5)
「私の法と掟を守りなさい。これらを行なう人は、それによって命を得ることができる」
に基づいて、トーラの法律は命を増すことを意図しており、死なせるためではない、
とラビたちは結論した。
そのように、法律の遵守が命を危険にする時にはいつでも、それの遵守の要求は中止される。


しかし、法律が命よりも優先する三つの場合がある。
 殺人、
 偶像崇拝、
 あるいは姦淫または近親相姦
によって、もし人が生き続けることができる唯一の方法は、死の準備だけである。

しかし、偶像崇拝と姦淫の方の場合は、
タルムードの規定の詳細な適用がいつも明白であるとは限らない。
例えば、既婚の女性は、普通の場合には夫以外の者との性的な関係は禁止されているが、
もし彼女の命が危険になるならば、強姦者へ抵抗することを求めてはいない。

しかし、殺人となると法律は例外を認めていない:
人は彼自身の命、あるいは彼の親愛なる誰かの命を救うことはできない、
もしそれが「無実」の人を殺すことを意味するならば。

 ある男が(4世紀のラビ)Rava のとことに来て言った、
 「私の町の統治者が私に誰かを殺すように命令した、もし私が拒めば彼は私を殺すと。
 (私は何をすべきでしょうか?)」
 Rava は言った、
 「殺されなさい、そして殺してはいけない。
  あなたはあなたの血が彼よりも赤いと思っていますか?
  おそらく彼の血はあなたより赤い」 
               [ --- Babylonian Talmud, Pesachim 25b ]


Rava が付け加えるのを怠ったことがある。
それは、その男はその統治者を殺すあらゆる権利を持っているということ、
なぜならば彼の命を危険にしているのはその男だからであり、彼が指名した被害者ではない。
そんな場合は、タルムードは命じている:

 「もし誰かがあなたを殺しに来るならば、最初に彼を殺しなさい」
               [ --- Babylonian Talmud, Sanhedrin 72a ]


しかし、統治者によって指名された男を殺すことは殺人になる。


しかし、無実の人を ”間接的”に殺すことによってのみ命が救われる場合には、
ユダヤ人の法律は何を規定しているであろうか?
タルムードはこの質問をおよそ2千年前に議論していた:

 一団の人達が道を歩いていた。
 異教徒たちが、彼らを止めた時に、彼らに言った、
 「お前たちの中から一人を与えよ、そして我々は彼を殺そう。
  もしそうしなければ、我々はお前たち全てを殺そう」

 彼らに全てを殺させなさい、
 そしてイスラエルから一人の魂も彼らに引き渡してはならない。
 しかし、もし異教徒たちがただ一人の名前を指定したならば、
 Sheba ben Bichri の場合はそうであったように、
 その人は彼らに引き渡され、そうして他の者たちは救われてよい。

 Rabbi Simeon ben Lakish は言った、
 「死刑を宣言された誰かに限ってのみ手渡してもよい、Sheba ben Bichri はそうであった」

 しかし Rabbi Johanan は言った、
 「死刑を宣言されていない誰かでさえも(名前を指定された誰かは手渡されてもよい)」

              [ --- Palestinian Talmud, Terumot 8:10 ]


サムエル記下 20:21-22 によると、Sheba ben Bichri は、
ダビデ王に対して反逆の反乱を扇動した、それで死刑を宣言された。
彼は小さな町に逃げ込んで、ダビデの軍隊がすぐに町を取り囲んだ。
もしダビデの軍隊が町の中に侵入したならば、多くの無実の人々が殺されたであろうと悟って、
その町のある著名な女がSheba を殺して、そして彼の首を町の壁の上から投げ出した。



Simeon ben Lakish に従うと、
殺されるために人を手渡すことはすでに死を宣言された人の場合に限って許される、
Sheba がそうであったように。
さもなければ、それは殺人の行為と同等である、そこで述べられているように、
ユダヤ人の法律は命が危険の時でさえ殺人を禁止している。

Rabbi Johanan は違っている。
殺されるために指名された人を手渡すことは殺人の罪で生存者を汚すものではない、
なぜならば、そうしないことが彼の命を救うことではないから。
すなわち、彼と共に全てが殺されることが保証されているときに限って。
(参照 Tosefta Terumot 7:20)

ユダヤ人の法律は、この争点に関して定義された規則に至ってはいない、
けれども中世のユダヤ人の法律の最も重要な法典化したマイモニデスは
Simeon ben Lakish に従って規則を作った:

 指名された人が死刑の罪人でないならば、
 ”彼を手渡すよりは彼らは全て死ぬべきである”
      [--- Mishneh Torah, "Laws of the Basic Principles of the Torah," 5:5 ]

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Unfortunately, The Nazis forced Jewish law to consider this ...

不幸にして、ナチはこの問題を再び新しく考えることをユダヤ人の法律に強要した。

Rabbi Zvi Hirsch Meisels はアウシュビッツに監禁された生き残りで、
「Mekadshe Ha-shem(神の名で清められた人々)」を編集した人、
この本は、ラビへの質問とその回答からなる「responsa」の書であり、
ある日にアウシュビッツの中で、彼に尋ねた人の質問を含んでいる。
ドイツ人たちが十代の少年たちを1,400人駆り集めて、彼らを一つの巨大な仕切りに閉じ込めた。
彼らは次の日の夕方に殺されるという言葉がすばやく広まった。

その日を通して、親類や友人たちは彼らの親愛なる者を解放することを試みて、
ユダヤ人の監視役「カポ(kapos)」との売買取引が行なわれた。
その監視役たちに賄賂をする手段を持っていた一人の父親が、
そんな「売買取引」の恐ろしい道徳的な板ばさみを実感した。
それは:

 Oberland から来た一人のユダヤ人が私に近づいてきて、そして言った、
 「ラビ、
  私のただ一人の息子、私の目のひとみ以上に私にとって愛しい子が
  焼かれてしまう運命にある少年たちの中にいます。
  私は彼を買い戻すための手段を持っています、しかし「カポ」が彼の代わりに
  他の人を取ることが私には疑いもなくはっきり分かります。
  ラビ、私はあなたに尋ねます、トーラに従った規則を私に与えて下さい:
  私の息子を救うことは許されますか?
  私がすることは何かを私に告げて下さい」

 私はこの質問を聞いた時、私は震え始め、そして彼に答えた、
 「私の親愛なる友よ、
  私がいかにしてそのような質問に明確な答えを与えることができるでしょうか?
  神殿が建てられていた時代でさえ、生と死の問題を扱った質問はサンヘドリン
  (ユダヤ人の高等裁判所)の前に持ち出されていました。
  そしてここはアウシュビッツの中です、
  ユダヤ人の法律のたった一冊の書すらないし、他のラビたちもいない、
  そしてここには恐ろしい苦痛と悲劇の故に心の平和もありません」
 
 それから、Meisels は彼の心の中で進んでゆく内部の論争記述している:
 もし「カポ」のシステムが、最初に一人の少年を自由にして、そしてその後に、
 他の代わりを取るならば、私には作戦行動の余地があったであろう。
 解放される各々の少年が他で置き換えられることが確実ではなかった、
 という理由をつけることが出来たかもしれない。
 結局、「カポ」はユダヤ人であり、そしてユダヤ人の法律は、
 他の一人を助けるために命を取ることを強く禁止している。
 おそらく私は議論したかもしれない、
 最後の瞬間に彼らのユダヤ人意識が呼び起こされて、
 そして彼らはこの重要な法律に違反しないであろうと.....

 不幸にして、「カポ」の方法はいつでも最初に代わりを捕まえてから、
 その後に犠牲の子供を解放する、ことであるのを知った。
 このように彼らは自分自身を保護し、そして人数を一定に保った。
 それで私には、その立場に添って得る方法はなかった。

 その男は私の後を追ってきて主張した、
 「ラビ、あなたは私のために決定をしなければなりません」
 再び、私は彼に弁護した、
 「私の親愛なる友よ、私に尋ねないで下さい、
  なぜならば私はあなたに答えを、いや答えの半分でさえも与えることができない、
  書を勉強することなしに、そしてこのような恐ろしい状況では....」

 ついに、彼は私が彼のためにこの問題を決定することができないのを知った時に、
 その男は非常な興奮で私に言った、
 「ラビ、
  私はトーラが私に命令しているとことのことを行なった。
  私はラビに決定を求めた、そしてそこには私が相談することができる他のラビ
  はいなかった。
  あなたが私に、行って息子を救出すべきであると告げることができないのであれば、
  それは法律に従ってあなたがそれを許す理由を見つけることができなかった、
  というしるしである。
  なぜならばもしそれが許されるならば、あなたは私にそうするように確実に言ったであろう。

  それで、私は承諾します、ユダヤ人の法律に従って私は息子を救ってはいけないのだ。
  それで十分です、私にとって。
  私のただ一人の子はトーラの義務を満たして焼き殺されるでしょう。
  私はこの決定を受け入れます.....」

    [ --- Rabbi Zvi Hirsch Meisels, Mekadashe Ha-Shem, Vol.1,page 8
       私は少し変えられた翻訳に従った:H.J.Zimmels , The Echo of 
       the Nazi Holocaust in Rabbinic Literature, page 112-114  ]

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Jewish law considers yet another case ...

from The Talmud

ユダヤ人の法律は、一人の男の死が他の人の受動的な共犯に貢献するかもしれない
もう一つの場合を考えている。
ここで、ラビたちの意見は分かれる:

 二人の男が一緒に(砂漠で)旅をしている、そして一方が水の入った水筒を持っている。
 もし両人がその水を飲むならば、二人とも死んでしまう、
 しかしもし一方だけが飲むならば、その人は町にたどり着き生き残れる。
 (その男はその水で何をすべきであろうか?)

 Ben Petura は教えた、
 ”両者が飲んで死んだほうがよい、彼らの一方が仲間の死を見るよりはむしろ”

 しかしラビ・アキバが来て教えた、
 ”(トーラの句、レビ記25:36)、
  『あなたの兄弟はあなたと共に生きる』が意味することは、
  (もし彼があなたと共に生きることができるのであれば、
   あなたはその水を分配しなければならない、
   しかし衝突する場合であるならば)あなたの命は彼のものより優先する”

             [ --- Babylonian Talmud, Bava Mezia 62a ]

 

このタルムードは、
Ben Petura の意見とラビ・アキバの意見との間での優先を表現していない。
しかしユダヤ人の法律の中でラビ・アキバの意見の卓越は、
ほとんどのラビの権威者たちに彼に従って法律を解釈することをうながしている。


Elie Wiesel は、ラビ・アキバについての講義の中で、上の議論を引用した、
その時彼は結論した、
 「ラビ・アキバはとても厳しかった、生き残り者に関してとても厳しい」

Elie Wiesel の簡潔な注解は、私が以前には決して理解できなかった事を明らかにした;
なぜホロコーストの生き残り者たちが、圧倒している罪の感じから苦しんでいるように
見えるのか、ということに。
論理的には、
強制収容所から生き残った人々は罪から苦しむべきで「ない」人々のグループであった:
ドイツ人が罪を感じるべきであり、ホロコーストに消極的に黙従したヨーロッパ人も同様、
そして亡命者の受け入れを拒否したアメリカ人、イギリス人そして他の国のリーダたちも同様。
その時、生き残り者の罪の源泉は何であったのか?
Elie Wiesel が暗示しているのは、強制収容所から生き残った人々は、
時々、ラビ・アキバの決定をしなければならなかったのだ、
彼らの貧弱な食料配給を瀕死の他の人々に分配しないという決定を。


新約聖書では

イエス(Jesus)、もちろん紀元一世紀のユダヤ人、彼は3つ目の意見を提案した:
水を持った人は殉教者として行動し、彼の仲間に水を与えるように------

 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」
                         (ヨハネによる福音書 15:13)

しかしユダヤ人の法律は、殉教者を英雄の行為として認識している一方で、
それを決して義務としていない。
なぜならば、もしBが非常にのどが乾いている時に、
AがBに彼の水を与えることを命令されるならば、
Aが同じ環境の時に、BがAに水を返すことを命令されるであろ、
そんなことを繰り返しているうちに、救助隊が砂漠で横たわった二つの遺体と
彼らの間の横に水がいっぱいの水筒を見つけることでしょう。

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The Shabbath is the only ritual law ...

from The Talmud

 命を救うことは安息日にとって代わる。
             [ --- Babylonian Talmud, Shabbat 132a ]

安息日は十戒の中で述べられている唯一の儀式的な法律である;
その聖別はとても偉大なので、昔は多くのユダヤ人がそれに違反することよりはむしろ
死ぬことを命じられているとみなしていた。
紀元前167年ころに、Maccabees の書が記録している、Antiochus に対抗して反乱した
信心深いユダヤ人のグループがシリア皇帝の軍隊によって安息日に攻撃された。
彼らは反撃することを拒んだ、そして全てが殺害された、「男も女も子供も、全部で千人以上」

その後、ただちに Maccabees の創設者である Mattathias が規定した:
 もし我々がみんな、兄弟たちが行なったように行動したならば、
 もし我々の法律と慣習のためと同様に、我々の命のために異邦人と戦うことを拒否するならば、
 その時は彼らがすぐに我々をこの地上から消し取るであろう。

Maccabees の書は結論している:
 その日に彼らは決定した、安息日に彼らに対して誰かが攻撃をかけてくるならば、
 彼らは応戦するであろう、彼らの兄弟たちがしたように全てが死んでしまうよりはむしろ。
                           (参照 Maccabees, 2:3-41)


その時以来、全てのユダヤ人の資料は、
人間の命を救うことは安息日を遵守することよりも優先すると規定した。
実際にマイモニデスは規定している:
 安息日が違反されなければならない場合は、大人や博学のユダヤ人、
 (未成年や非ユダヤ人ではなく)、にそうさせることがよい、
 ”トーラの法律の目的は....慈悲、親切の愛、世界の平和を持たらすことを教えること”
               (Mishneh Torah, "Laws of the Sabbath," 2:3)

マイモニデスの規則に従って、正統派ユダヤ人が「Hatzolah(救出)」と呼んだ組織、
広く学ばれている顕著な組織、がニユーヨークに創設された、
緊急の応急手当てを行うために、そして病人を病院に運ぶために。
「Hatzolah」は週に7日間そしてユダヤ人の祝日の全てにおいて運営されている。


命が危険の時にユダヤ人の法律の違反に関する質問は、
また、しばしばヨム・キプールの断食に集中している。
偉大な学者 Rabbie Hayyim Soloveichik of Brisk は、
とても病弱な人々がヨム・キプールの日に食べることを許すことに寛大であった、
として知られていた。
これについて挑戦された時に、彼は答えた、
「私は、病弱な人々がヨム・キプールの日に食べることを許すことに少しも寛大ではない:
 私は、命を危険にする問題にとても厳しいだけである」


ユダヤ人の法律はもっとずっと先にすら行っている、
そこに命を危険にする「可能性」がある時にのみ、
その最も神聖な儀式に違反することを許している。
これは1848年に Vilna にあった有名な出来事で説明される。

そこはコレラの伝染病が突然に起きたところであった。
地域の医者たちはその町の首席ラビ Israel Salanter に忠告した、
その神聖な日にすでに病弱な人々は食事をとるべきであるばかりではなく、
他の誰もが同様にすべきである、
なぜならば24時間の断食は人々の抵抗力を弱くする、
そして彼らに命を取る病気にもっとかかりやすくしてしまう。
Rabbi Salanter は公の声明を出した、
全てのユダヤ人はヨム・キプールの日に食事をとるべきである。
多くのユダヤ人たちがその神聖な日を恐れたゆえに彼が言う規則を無視いていることを、
彼が聞き及んだ時に、彼はVilna の偉大なシナゴーグで朝の祈りの奉仕を終えてから、
説教壇に登ってワインとパンは取り、適切な祝福を暗唱し、それから全会衆飲の前で飲み食べた。
Vilna で最も信心深い人物がヨム・キプールの日に食べていることを目撃することは、
他の人々に彼らの慣習からそうすることに解放した。
幾人かのラビたちは Rabbi Salanter の行為を批判したけれども、
彼は生涯を通して主張した、自分は多くの命を助けたという光栄を感じた。

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Endangerment of Life and its Political Implications

生命の危機とその政治的な暗示

 パレスチナのタルムードは規定している(Yoma 8:5)、
 もし人がラビに、命を救うために安息日とヨム・キプールの神聖を汚すことが
 許されるかどうかを尋ねることを止めているならば、この遅れは一種の殺人である。
 彼が質問をすることに忙しい間に、病人は死んでしまうかもしれない。
 命が危険な時には、迅速が要求される。

     [ --- Rabbi Ovadia Yosef, former Sephardic Chief Rabbi of Israel ]

Rabbi Ovadia Yosef の言葉は、
「もし譲歩がアラブとの平和をもたらすならば、
イスラエルが1967年の”六日戦争”の勝利で獲得した領土を譲渡する権利を持つ」、
ということを断言しているレスポンサム(ラビの質問回答)の文脈に書かれている。
一般にユダヤ人の法律はイスラエルの土地のどんな部分も断念することを禁止している、
しかしRabbi Ovadia Yosef が説明しているように、
「命を救うことはトーラの中にある全ての戒律に優先している、
メシアを連れてくる戒律や、あがないを達成する戒律でさえも ...... 」、
それゆえに、起こりえる戦争(確実に人々が死ぬであろう)を回避するために
領土を返還することに障壁はない。
(Rabbi Ovadia Yosef のレスポンサムの章は Arthur Herzberg によって翻訳され出版された、
ed., Judaism, pages 231-232 )


近代の Rabbi Joseph Soloveitchik、アメリカ正統派ユダヤ人の巨匠の一人、は 
Rabbi Ovadia Yosef と著しく同様な見解を擁護した、その一方で、
政治的な権利に関して幾人もの著名なラビたちは、
イスラエルにどんな土地も非ユダヤ人に譲渡することを禁止している法的な規則を発令した。
「命を危険にする」というRabbi Ovadia Yosef の議論に関しては、
彼らは単純にこう主張した:どんな土地の譲渡もイスラエルの安全を弱くする、そして
それゆえに命をずっと多く失うことに導くであろう。

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