from Erich Fromm 19世紀に、問題は神が死ぬいうことであった; 20世紀に、問題は人が死ぬということである。 [ --- Erich Fromm, The Sane Society ] 宗教に対抗して人気のある議論は、 その宗教の名のもとで多くの悪事が行なわれてきていることである。 しかし歴史上で二つの最も殺人的な社会、ナチスとソヴィエト共産主義者、 は攻撃的な無心論者であった、ということはめったに説明されていない。 ヒトラーは、「ユダヤ人の専制的な神」の破壊を自分の生涯の使命と宣言した、 一方でソヴィエト連邦は73年の歴史の間、神の信仰を弁護することを犯罪とした。 フロム(Fromm)が引用している「神の死」とは、 19世紀後半の哲学者ニーチェ(Friedrich Nietzsche)によって最初に明確に言われた観念である。 およそ同じ時代に、ドストエフスキー(Feodor Dostoevsky)が「カラマゾフの兄弟」の中で、 「もし神がいないのであれば、全てが許される」、と書いた。 ユダヤ教の視野からは、ドストエフスキーのコメントは一つの論理的な結論である: もし神がいないのであれば、何事かが禁止されるべきであるとは誰が言えるのであろうか? 今日において、「ヒトラーがなぜ悪かったのか?」という質問に対して、 哲学的に強要する答えは全く存在していない、「神がそう言うからである」ということ を離れては。 今世紀の最も著名な非宗教的な哲学者ラッセル(Bertrand Russell)は、 彼自身、神のない主観的な道徳の危険を明確に言った: 「道徳的な価値の主観性に対する議論をいかにして論破するか、私には分からない。 しかし、残酷ないたずらをもった誤ちの全てのことは、私が好まないことである、 ということを自分が信じることができないと私は分かっている」 ラッセルは彼の90才代まで良心的に生きたけれども、彼が好まない以上に、 残酷ないたずらに対抗してより強要する議論を作りだすことは決してなかった。 不幸にして、相当な数の人々がそういうことを好んでいる。
from The Tosefta ある哲学者が Rabbi Reuven に聞いた、「世界で誰が最も嫌いな人ですか?」 Rabbi Reuven は答えた、「自分の創造者を否定する人」 「それはなぜですか?」 そのラビは答えた: 「あなたの父と母を尊敬しなさい....。 あなたは殺してはならない....。 あなたは盗んではならない....。 あなたは隣人に対して嘘の証言を支持してはならない....。 さぁ聞け、人は彼らの創造者(神)を拒否するまでは、 これらの法律のどれも拒否することはない」 [ --- Tosefta Shevuot 3:6 ]
from Will Herberg 最近の数十年に、非宗教的な思想家たちは、 彼らの(聖書に基づいた)宗教的な文脈から(西洋文明の道徳的な原理を)分離するために、 「人類愛」の道徳として彼ら自身の生活をすることができるということに確信にもって、 行った試みは、ある作家が「切り花文化(cut-flower culture)」と呼んだ結果となった。 切り花はそれらのオリジナルな美と香を保持している、 しかし今それらの根から供給されている生命力を保持している間だけである; それが使い果たされた後には、切り花は枯れて死んでしまう。 自由、兄弟関係、正義、そして個人の尊厳 --- 我々文明の道徳的な土台を形成している 価値 --- も同じである。 それらがわき出てくる信仰の元気つける力を無くしては、 それらは意味をもたないし生命力もない。 神に根拠がない道徳は、実際に砂の上に建てられた家であり、 衝動からの気まぐれや、権力と私利私欲の野蛮な圧力に対抗して耐えることができない。 [ --- Will Herberg, Judaism and Modern Man, page 91-92 ] from Irving Kristol (西洋世界で非宗教家である我々人々は) ニーチェの挑戦によって我々自身が悩まされたと見ていた: もし神が本当に死んだのであれば、 どの特別な実行が禁止されている、あるいは許されている、 ということを我々は何の権威によって言うことができるのか? 近親相姦(incest)が悪いことである、 ということを純粋な理由だけで我々に告げることはできない。 獣的欲望(bestiality)が悪いことである、 ということを純粋な理由だけで我々に告げることはできない。 実際に、今日、獣的欲望に対抗する唯一の議論はこうである: 動物たちがそれを楽しむのかどうかを、我々が知ることはできないために、 それは「動物の権利」に違反している。 [ --- Irving Kristol, "Afterword," in David Dalin, ed., American Jews and the Separationist Faith, page 161 ] from J.David Bleich 古いイーデッシュの格言、私が偉大な祖母から子供の時に最初に聞いた: 「あなたが荷馬車に乗って、そして教会の門を通過する時に、 もし運転手が彼自身で十字を切らないならば、ただちに降りなさい」 [ --- J.David Bleich in David Dalin, ed., American Jews and the Separationist Faith, page 29 ] Bleich は説明している: 「その警告は神学と関係しているものではない、 安全と生き残りと関係しているあらゆるものを持っている。 ユダヤ人は理解した:彼自身の安全は非ユダヤ人が一つの宗教を自称することを要求する、 そんな目的のために、どんな宗教でも無いよりは良いことであると。 ボルテア(Voltaire )、彼自身が純粋な理論家の無神論者の彼は、 無神論は知識人に対してのみ安全であると信じた。 彼はこう言ったと報告されている: 『私の弁護士、洋服屋、ボーイたち、さらに私の妻でさえも神を信じて欲しい。 もし彼らがそうするならば、私が盗まれることが少なく、また騙されることが少ない、 と私は考えている』」 フロイト(Sigmond Freud )はボルテアの確信を分担した: 知的な傾向の無神論者は、神を信じること無しにさえも道徳的であると信頼されることができる。 フロイトは1927年ウイーンでの書物で議論した: 低い知的な成就の人々は彼らの道徳を保護するために宗教を必要としているかもしれないけれども、 「文明は教育された人々から恐れることはほとんどない.....。 彼らの中では、他人によって洗練された振る舞いのために宗教的な動機の代用、 非宗教的な動機が謙虚に進行する(であろう)」 (The Future of an Illusion, page 39) 人間の性質についてのフロイト学派の楽天主義のこのまれな例の10年以内に、 フロイト自身が立証した: 文明は、教育されていない人々からと同様に、 教育された人々から恐れるに大きいものを持っている。 彼の仲間のオーストリア人およびドイツ人の知識人たちが、彼らの仲間の市民の 他のグループ以上により偉大な道徳的な洞察、力あるいは勇気を全く表さなかった; 実際に、彼らの多くは医者や教授たちであるが、ナチの残酷さの中に参加した。 例えば、第二次世界対戦後に、24人の "Einsatzgruppen" の指導者たちが、 彼らの大規模なユダヤ人刈り集めをして、ソビエトユダヤ人の百万人以上を殺人した ということで裁判にかけられた。 これらの中には9人の法律家、2人の経済学者、1人の建築家、教授、銀行家、高校の先生、 そして歯医者を含んでいた。 (参照:Irving Greenberg's article in Eva Fleischner, ed., Auschwitz: Beginning of a New Era?, page 442, footnote 16 )back to this page top
by BokerTov この章には学者の名前が多く引用されています。 辞書(小学館RandomHouse)から、学者の出生順にリストアップしました、参考までに: Voltaire (1694-1778) フランスの啓蒙思想家、哲学者、歴史家、風刺詩文作家、劇作家 Fyodor Mikhailovich Dostoevsky (1821-1881) ロシアの小説家 Friedrich Willhelm Nietzsche (1844-1900) ドイツの哲学者 Bertrand Russell (1872-1970) 英国の哲学者、数学者、平和運動家、(1950ノーベル文学賞) Sigmund Freud (1895-1982) オーストリアの神経学者、精神医学者、精神分析の創始者 Erich Fromm (1900-1980) ドイツ生まれの米国の精神分析学者back to this page top