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鳥取大学 伊藤みか
感想



 は今回が初めての参加で、最初から最後まで受身な姿勢で過ごしてしまったが、随分とためになる時間を与えられたように思う。それはひとえに集まって来られた方々、準備段階から私をも巻き込んでセミナー造りに心を配っておられた上級生や同級生の面々のお陰である。テーマに関しても、自分がどう考えるべきかだけでなく参加者にどう考えてもらうか、と言う事にまで思いを巡らせられたのは、京都の準備会にまで参加させていただけたからだろう。その割に当日の質疑応答や討論でちゃんとした意見も言えずにいたのは自分の考えをまとめる能力の低すぎるせいで、情け無い限りだ。
 回のテーマである「農業土木と開発」に関して、セミナー前はあまり明るい視点をもてなかったが、セミナーの3日間を経て、気付けばかなり明るい展望を持てるようになっていた。というのは、赤木先生、守山先生、それから越山さんと鈴木さんのお話によって「開発」のイメージが変えられたからだ。「開発」は人類存続のための絶対必要条件ではない。が、しかし避けて通るべき最後の選択肢というわけでもない。そしてもちろん必要悪などではありえない。ただ、今の日本は河川改修工事にしろダム建設にしろ農地整備にしろ、「これをしておかないと地域住民、地域の農民の生活が困窮する。」というような事業は、ほぼやりつくしたと言ってもいいような特別な状態だ。それなのに過去の「地域住民の助けとなった」実績を理由にあたかもカネになる産業のひとつでもあるかのように行政から無軌道、無計画な手段として活用されることの多い状態が問題なのだ。環境改善の手段でしかないものが、目的をはっきり持たずに一人歩きしてしまうために、「必要悪」、否、時には「不必要悪」でさえある、というイメージを持たれやすいのだと思う。守山先生は講演の中で魚道を例に取られて「いくらでも、ばかな土地利用を改善して賢い土地利用にする余地はあります」とおっしゃっていた。この言葉はこれからの農業土木および開発の在り方を定めるひとつの指針になるかと思う。ことごとく、農地農村だけでなく用排水設備から浄化施設にいたるまで現在の農業に関わるものは過去の開発を礎として成り立っているのだから、それら過去の開発が賢いものだったかどうか、そうであれば今後のために学ぶべき点はどこにあるのか、あるいはばかなやりかたであれば改善点はどこにあるのか、を問うのがこれからの開発の在り方ではないだろうか。それらを問う中で、生態系は豊かさを保ち地域住民の生活も農作物の生産も安定し景観も美しいという「賢くやっている」農村の貴重さも日本中にアピールできれば、と思う。開発は確かに破壊を含む行為ではあるけれど、やりようによって、または継続の仕方によっては自然も人も両方を豊かにすることの出来るものなのだと日本中に知ってもらいたい。そこに農業従事者の苦労や智恵やプライドが存在することも。
 し今後「開発か現状維持か」の選択を迫られる立場に立たされたなら、今回のセミナーで考えた論理や教えられた選択条件(生態系をどれだけ破壊しどれだけの復元を可能とするのか、水源の汚染や土地基盤の崩壊など副次的な環境悪化はないのか、本当に地域住民に永続的な恩恵をもたらすものなのか、その恩恵はすべてのデメリットに見合うものなのか、等など)についての知識と責任感を総動員してあたろうと思う。そして、豊かになるためには、或いは豊かであるためには開発は絶対の手段でも否定すべきものでもなく、他のことがらと同じようにメリットデメリットをはっきりさせた上で検討すべき選択肢のひとつなのだと、また実施するからには賢く自然と関わりつづけるものなのだと、肝に銘じておきたい。


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