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   玄侑宗久:もう一つの知の在り方 [2007年2月]
                                  -講演会聴講レポート in 慶応MCC夕学五十講
一連の講演会の中で,今回はもっとも参加者が多かったです.
それもそのはず,芥川賞作家でかつ僧侶の玄侑宗久氏が講演者だから.


わからないという状態を平穏に受け止める.
どうもこれが今回の講演のキーでした.


知性とは,外界からある物事を感受して概念化し,自分の世界観の中で位置づけを行うこと.
この作業が上手な人のことを「頭のいい人」という.

しかし,ヒトの脳というものはとかく,思いこみの激しいものである.
その典型が,結果には必ず原因があるとはずだと考えるというヒトのクセで,とくにヒトは単純な原因を求めがちである.
これを因果律といい,これにヒトは絡め取られているという.

そう例えば,某「○る○る」番組の○豆のように,某霊能者E氏のいう前世説のように.


原因はわからないけれども,ある事柄が確かに起こってしまうことは,この世の中にたくさんある.
とくにある事柄と同時に何かが起こってしまうとき,ユング好きの人はこれを「シンクロニシティ」というが,中国ではこれを「気」と表現するのだという.

この辺から少し,話が怪しい雰囲気を醸し出します.
本人もそれを承知のようで,「この辺りから話が怪しい方向に行きますから,ついてきてくださいよ」って言ってました(笑)

仏教ではこの状態を「命」と表す.
起こった物事の原因をその内側にも外側にも探さない・作らない.

この辺りがいわゆる霊能者や某スピリチュアルのE氏とは違うんですと玄侑氏は言います.
悪い事柄の原因を何代前だかよくわからないけれども,とにかく先祖や前世での悪い行いが招いたものだとしてしまえば,今を生きる人に責任を負わせず,手っ取り早く納得した気にさせることができる.それこそ因果律に絡めたとられた人の考え方以外の何者でもない.

人は考えはじめると,直ぐに因果にとらわれ,原因を求めるクセがある.
そのクセから逃れるために,仏教では「行」を行う.この「行」では,念仏を唱えたり体を動かしたりすることを間断なく要求することで,脳に考える 暇を与えない状態を作り出す.その状態に体を慣れさせ,簡単にその状態へ入れることができるようにする.「行」とは考えない境地へと至りやすくする訓練で あると.

その後,そういう状態になったときに起こる現象の例をいくつか紹介していましたが・・・
正直言ってこのくだりは「怪しい」と思わざるを得ないなっと感じてしまいました.それこそ因果律に絡められてるのでは?と.

しかしながら,「わからない」という状態に不安を覚えがちな人々の心を落ち着かせるといいう意味で,宗教としての「仏教」もまたありだなっと今回の講演を聴いて感じました.


玄侑氏は断言することを避け,慎重に言葉を選びながらしゃべる姿がとても印象的でしたね.
でも,今回の内容はかなり深いところへ分け入る物でしたので,聴講者にとっては理解することが難しかったように感じます.

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