すかぶらの話



−岩波新書「地の底の笑い話」上野英信著よりすかぶらの話−黒い顔の寝太郎

1.白い手拭の心意気


 貧乏神にとりつかれて 日夜あくせくと 働かなければならぬ人間にとって、ごろりと寝ころんでみたいという欲望にまさる切実な要求はない。 寝ころんで足をのばすひまもない人間の 住んでいるところ、そこにはかならず、いつの時代にも、花田清輝のいうように「大衆のあこがれの    象徴」 として、愛すべき寝太郎が ごろりと寝そべっている。そして、寝るひまもなく追いまくられて働く人間の多いところほど、寝太郎の人口も増加する。寝太郎がたくさん生まれる時代は、けっして人間が幸福に生きている時代ではないのだ。
 奥州の大工の庄五郎、 出羽荘内のせやみ太郎兵衛、信濃のものぐさ太郎、 長州厚狭の寝太郎、 沖縄の睡虫、などなど、大小無数、色とりどりの怠け者を  私たちは先祖に持っているが、 これはかならずしも喜ぶべきことではあるまい。 先祖代々、 いかに不幸な生活を くり返してきたかという証拠だからである。  たとえそれが、 柳田国男のいうように 「実世界に不満の多い凡人たちを 楽しませるための空想」であったとしても、その空想の背後にある不幸な現実はどうしようもない。 私たちは夜もろくに眠れないような人間ばかりを先祖に持ってきたわけであり、私たちはいわば先祖代々の不眠のかたまりのようなものではないのだろうか。  過去と現在は致しかたないとしても、 ほんとうは寝太郎やものぐさ太郎が主人公でなく、夜も満足に寝ずに汗水たらして働きつづける  「寝ず太郎」 なり  「まじめ太郎」 なりが、新しい民話や笑い話の最大の主人公としての地位を 占める時代が、一日も早くこなければいけないのである。  ごろりと寝ころぼうと思っても 寝ころぶひまのない人間など、 お伽話の世界の空想人物としてしか存在しない時代こそ、人類の理想社会だからである。もっとも、そのためには私たちが、それこそ夜も寝ずにたたかわなければならないけれども。それはともかくとして、現実に寝そべるひまのない大衆にしてみれば、寝太郎の空想の後に寝ているわけにはいかない。いやがおうでも実際に寝てみせるという人間が 出てくるのはきわめて当然のことだろう。  もちろん、炭鉱もその例外ではない。
 地の底の寝太郎を筑豊の炭鉱労働者は  「スカブラ」  と呼んでいる。  あるいはまた、親愛の情をこめて 「スカちゃん」 とも呼びならわしている。  そしてこの名を口にする時、坑夫たちの顔はなにか奇妙にくすぐったそうな微笑にゆがむのがつねだ。  誰もその名を忘れることはできない。  しかし不思議なことに、誰一人としてそのなつかしい名の由来を知らない。 「仕事がスカんで、いつもブラブラしちょるけんたい」  そんな博多にわかのようなこじつけばかりである。  私はついに思案にあまって、筑豊鞍手の山奥の 廃鉱に住む伝八老人をたずねた。  彼は闘鶏の名人であり、炭鉱の生字引きのような知恵者である。  彼ならきっとスカブラの語原を 知っているにちがいないと、 私は期待に胸をおどらせて山を登っていた。
 「じいさん、スカブラのことだがね」 
  「ああ、わしのげなやつのことたいな」 と伝八じいさんは微笑んだ。
  「いったいどういう意味だろう」
 「へえ、 あんたはそげなことも知らんとかいな。 こりゃたまげた。大学までいったちゅうことじゃったが、 なんにも勉強はしとらんとみえるなあ。  まあよか。 楫が教えてあげよう。 学校と違うて銭は取らん。心配せんとききなれ。スカブラというのは、まあ簡単にいうなら、仕事好かずの怠け者のことたい」
 「いや、それは知っておるが、どういうわけで怠け者のことをスカブラというのか、そこが知りたいんだよ」
  「ああ、それな。それならはっきりしちょる。スカッとしてブラブラしちょるところからきたとたい。つまりその、スカッブラ、これがいつとのう縮まって、スカブラになったとたい」
 伝八じいさんは、それこそスカッと、なんのためらいもなくこう断言した。 私は恐れいってひきさがるほかなかった。ところが驚いたことに、彼の独創的にして明快なる 「スカッブラ」理論は、これまでの俗流的な 「仕事スカズノブラブラ」理論に不満を感じていた 若きプチスカブラ党員を、完全に魅了してしまった。「うーん、博士ばい!」と、彼らは狂喜して伝八おじいさんの英知を称えた。 むろん、伝八じいさんの学説も例によって スカブラ一流のこじつけにすぎないことは明らかだ。 しかし語呂あわせという末節に拘泥しさえしなければ、 やはり見事にスカブラ本来の面目を 喝破していることは否定しがたい。 スカッとしていること、つまり生きのよさは、なんといってもスカブラのスカブラたる主要条件である。 彼はもともと あの不精者のもつインポテンシャルな怠惰や弛緩、救いがたき陰湿さや不潔さとはおよそ無縁の、いきいきと緊張し躍動する陽性そのものだ。 伝八じいさんが博士号の対象とされたのも、一にもってこの 「スカッブラ」理論の展開によって、従来のドグマの不毛を 打ち破り、スカブラの名誉回復のために貢献するところ 大であったからであろう。
 話は脇道にばかりそれるが、私がはじめてスカブラという言葉を教わったのは、生まれてはじめて坑夫として海老津炭鉱で働きだして間もなくのこと。頭につけたキャップランプの光に照らしだされるもののすべてが、ただむしょうに珍らしく怪しく思われてならないさかりであったが、そのなかでもとりわけ奇怪の印象を受けたものの一つは、それこそ全身に墨を塗ったように 真っ黒い色をした人間たちの姿であった。誰もみなおなじように 炭塵の渦まく採炭キリハで働いているのに、どうしてそんなふうに一点のむらもなく こってりと炭塵の厚化粧をした黒人種と、薄汚いまだらの人種とに分かれるのか、私にはさっぱり見当がつなかった。
 「あれか、あれはスカブラたい」 と私の先山は笑って答えた。スカブラは仕事をさぼって 遊んでばかりいるので、炭塵がふんわりと皮膚につもる。 汗もかかないから、洗い流されもせず、拭きとることもない。 それであんなふうにまんべんなく真っ黒になるのだ、と彼は私に説明してくれた。 私はなるほどと感心せずにはいられなかった。
 所変れば品変るというが、ここ炭鉱においては、真っ黒になって働くという言葉は かならずしもつねに真実を表現しているとはいえないのかもしれない。 スカブラに関するかぎりは、むしろ真っ黒になって怠けるというべきだろうか。私のように 汗水たらして働く以外に能のない新参坑夫は、しょせん、いたずらに醜くまだらに汚れるばかりで、とうていスカブラのごとく ほれぼれするような炭塵化粧はできないのである。 ただし、これはもっと後になって教わったことだが、その当時の私は 彼らの見事な肌の色にばかり眼を奪われて、もう一つの重要な特色を見落していたようだ。 愛すべきスカブラの名誉のために、ここで補足しておかなければならね。 それは彼らが首に掛けた手拭の色のことである。
 炭鉱の労働者は入坑するさい、かならず洗濯のきいた手拭を 折り畳んで首に掛けるのが習慣となっている。汗を拭いたり、鉢巻きにしたり、まさかのさいには貴重な救急用具の役を果たしたりなど、片時も肌身から離せない必需品だ。しかしそのような実用だけが手拭いの用途のすべてではない。ほとんど裸同然の姿で働く坑夫たちにとっては、それはまた一方できわめて貴重な装身具としての役割をつとめる。坑夫の身嗜みは、今も昔も、この手拭一本につきるといってよかろう。身につけているものが、およそ色彩のない粗末な作業着であるうえに、職場そのものが暗黒の地底であるだけに、一層手拭の果たす効果は強い。首にかけた、さっぱりと洗濯のきいた清潔な純白の手拭ほど、坑夫の心意気を鮮やかに示しているものはあるまい。殊にいなせの若い坑夫たちにとっては、かけがえのないネクタイであり、カラ−であり、マフラ−である。 彼らは地上の若者たちがネクタイやマフラ−に凝るがごとく、坑内に掛けてさがる一本の手拭に憂き身をやつす。少しでもしゃれた個性的な趣味をだそうとして、折りかたから掛けかたまで、細かく神経をくばる。
 しかし、大多数の坑夫たちにとって、それはほんの束の間のはかない伊達であるにすぎない。ふきだす汗がまたたく間に 真っ白な手拭を真っ黒に染めかえてしまう。 しぼっては拭き、拭いてはまたしぼる。ぴ−んと張った白い手拭は、こうして四分の一時間もたたないうちに、一年間も使い古した雑巾のようになってしまう。それはまったく、炭鉱労働者のみじめな姿そのままであり、運命そのままだ。ただ、最後の最後まで、雪のような白さをけがさない手拭きがある。 ほかでもない、スカブラの手拭きである。 ときどき両端をつまんで、軽くはたきさえすれば、たちまち炭塵は飛び散ってしまう。 真っ黒な体と、その首に掛けられた真っ白な手拭、この黒と白とのくっきりしたコントラストによって、はじめてスカブラの肖像画は完成する。
 もちろん、これは伝八じいさんの 「スカッブラ」理論とおなじく、スカブラ一流の デフォルメの美学であるから、果たしてどの程度の信用が置けるか、保証のかぎりではない。 ただ、彼らが地底におけるスカブラ党独特の抵抗と自由の精神を、真っ黒い顔にホワイトカラ−で示そうとする心意気だけは、やはりなんといってもそれなりに高く買ってやらなければなるまい。
 ホワイトカラ−といえば、すぐに小頭、つまり現場係員の白い手拭と白い手袋が思いだされる。彼らはそれをあたかも権力の象徴であるかのごとく誇示して のさばり歩く。「俺もなりたや小頭さんに、いつも笹部屋で寝てござる」という坑内歌のとおり、現場詰所で寝ているか、そうでなければ 「くるくる廻るのが現場員ならば、行燈車も現場員」のように、あちこち監督して廻るだけが仕事だ。 もとより手拭が汚れることもない。 しかし、ホワイトカラ−はけっして現場係員だけの特権でないことを、スカブラ党員は黒い顔と 白い手拭によって颯爽と宣言しているのだ。
 しかしもとより、この地獄の釜の底に寝ころんで、公然とサボタ−ジュを 楽しむためには、襲いかかってくる大鬼小鬼の鼻の頭や臍のあたりを撫でてくすぐる狡知が必要とされる。 蛮勇だけでは駄目だ。 相手の怒りを笑いに転じてしまう能力が要求される。それができてはじめて、彼は悠然と寝ころぶ自由を獲得する。 黒い顔の寝太郎がそのひまのない者たちの 「あこがれの象徴」であるのも、単に寝ころんでいるという状態によってではなくて、一つにはその自由を獲得するだけの頓知や滑稽な努力によってであるといわなければなるまい。そしてまた、彼が 「スカちゃん」 として仲間たちから愛されるのも、その道化じみた抵抗の巻きおこす笑いが、息のつまるそうな暗黒の世界に、たえず新鮮な風と光を吹きこむからである。 このことは黒い寝太郎自身が誰よりもよく心得ており、少しでも仲間たちの腹の皮をよじらせてやろうとして、わざと道化役者としてどたばた喜劇を演じたりなどする。
 そんな人間が、あたかも天の配剤であるかのように、どこの職場にもかならず一人はいるものだ。 もしいないとすれば、それは能力のある人間がいないからではなく、むしろその職場がばらばらの寄り合い世帯で、一つにかたまった仲間意識の広場がないからだ。

 2 咄の衆の抵抗 
  黒い顔の寝太郎たちは、例外なく地底のお伽衆であり、咄の衆である。さまざまの笑い話が 今日の私たちに伝えられているのも、じつはもっぱら彼らの存在と尽力のたまものであるが、それこそ話をするためにこの世に生まれてきたのではあるまいかと疑いたくなるほど、話好きの人間がいる。そして彼らは職場の仲間たちから暗黙のうちに選びだされた咄の衆として、皆の者を笑わせることに没頭する。 彼らは地下労働という極度の特殊条件の生み出した特殊技能者だ。地上の職場であれば、いかに苦しい労働であっても、時には眼を窓外に向けて青空を仰ぐことができ、草の上に腰をおろして煙草の一服もできる。昼休みにはキャッチボ−ルやソフトボ−ルを楽しむこともできる。しかし、地の底の暗い狭い職場では、たとえどれほど長い休憩時間があったところで、なに一つリクリエ−ションになる娯楽もスポ−ツもない。昔の炭鉱には火番所があって、そこで刻み煙草を吸うことができたが、今はよほどの小ヤマでもないかぎり、煙草どころではない。
 明治時代の鉄製のごつい安全燈をなつかしそうに愛撫しながら、ある老人がこう語ってくれたことがある。 「昔はよう炭車待ちの時なんかに、これを珍宝で何個ぶらさげらるるか、競争して遊びよったもんですたい。 若うして元気のよかとは、一遍に七個ぶらさげたとのありましたばい。 ばってん、これも、女の坑夫のいっぱい見物してにぎわいよったころの話ですたい。 野郎ばっかりになったら、そげな威勢はなか。 こっそり蓋を開けて裸火にし、それを誰が一番に屁で吹き消すかちゅう、そげな辛気くさか遊びだけになってしまいましたや・・・」と。 
 今も昔も坑内を蓋う辛気くささに変りはないのだ。 そして唯一最大の救いは、黒い顔の咄の衆がもたらしてくれる笑いであった。 彼らが地底で果たしてきた功績は、いかに評価しても過大評価に陥ることはないだろう。 
 しかし、これはあくまで彼らの仕事の半分であり、半面であったことを忘れてはなるまい。労働者を笑わせることにも劣らず重要な仕事があったからである。 それはほかでもない、地獄の底の鬼どもを笑わせる任務だ。たとえば採掘を禁止されている場所の石炭を こっそり掘って積みこんだり、労働量の計算の基準になる測量標識をひそかに塗りかえたりなど、現場係員たちに発見されては 都合の悪い仕事にとりかかろうとするとき、彼らは選ばれた笑いの狙撃手として途中に待ち伏せ、一休みしている風を装いながら、「髭をはやして鉄の杖ついて」やってくる敵を呼びとめる。 あるいは用件にかこつけてみずから現場詰所まで押しかける。そしておもむろに話の中へ引きこむ。いつのまにか鬼どもは時のたつのも忘れて笑いころげ、「それからどうした」「それからどうなった」と膝をのりだして聴き入る。古老たちの話によれば、まだ坑内で女が働いている当時は、このような特別重要な任務を巧みに果たすのは、むしろ女坑夫のほうに多かったという。これは女のほうが話がうまかったということより、生活が掛かっているだけに、一層真剣だったからであろう。もっとも、それゆえ話のほうも男以上に達者になったのかもしれないが。
 もちろん、この場合は、敵を欺き、その足を釘づけにするのが目的だから、話題はなるべく 身近な炭鉱生活の出来事、それもかなりきわどい男女関係の暴露に傾斜するのは当然であるが、いかにもこの眼で見たようにつくり話をする技術は、こうした陽動作戦によって鍛えられたのであろう。 しかし、いずれにせよ、黒い顔の寝太郎たちが咄の衆として地底の抵抗の一翼を担ってきたことは、きわめて興味深いことではあるまいか。 
3.時を刻む楽天主義者
 ここで、文字どおり時を稼いだ寝太郎の話を一つ聞いてみることにしよう。−あるヤマに久ちゃんという大スカブラがおった。仕事にだけは休まずに出るが、要するに出るというだけのことで、全然働こうとしない。昇るが昇るまで、それこそツルバシの柄も握らなければ、ボタ一つ動かそうとしない。それでは、いったいなにをしておるのか。係員詰所へ時間を聞きにゆくこと、ただそれだけであった。朝、入坑して仕事現場に着き、皆が仕事に掛かろうとするとたん、彼はこう大きな声でいう。
 「もう何時になるやろうかな。いっちょ、時間をみにいってやろう」 
 そしてすたすたと詰所のあるほうへ昇ってゆく。いったら当分は帰ってこない。詰所で係員を相手にだぼらを吹きまくる。 そのうちやっと腰をあげて、のこのこ現場へ戻ってくると、今度はこういう。
 「おい、もう八時を過ぎちょるぞ。 なんばぐずぐずしよるな。 憩うて一服せんな」 
 皆がカキイタやガンヅメを投げだして腰をおろすと、久ちゃんは彼らを相手にだぼらを吹きまくる。やがて皆が腰をあげてふたたび仕事にとり掛かろうとすると、彼もふたたびこういう。「もう何時になりよるやろうかな。いっちょ、みにいってやろう」
一日中がそのくり返しだ。ほかにはなに一つしない。そして戻ってくるたびに大きな声でいう。
  「おい、もう十時になりよるぞ。もうすぐ飯にせえよ」
 「おい、もう十一時ぞう。 はよ、飯ばくらわんか。働くばっかりが能やなかぞ」
  「おい、もう一時を廻っちょるぞ。そろそろ終わる段取りにせんか」 
 「おいこら、もう何時になったと思うか。二時を過ぎちょるぞ。ばたばた片付けて、はよ昇らんか」
 とにかくこんな調子で、柱時計の振子のように 現場と詰所の間をいったりきたりして時計を知らせるだけで、さっぱり働かない。なにしろ十人たらずの掘進の組だから、こんな男が一人でもおったら、たちまち外の者が「ボタをかぶる」ことになる。彼の分まで働いてやって、彼の分だけ損をすることになる。嫌がられるのが当然だろう。 ところが不思議なことに、この男にかぎって、誰一人として嫌がる者はなかった。それどころか、久ちゃん久ちゃん、と心から可愛がられた。なに一つ働かないのに、彼がいる日はどんどん仕事がはかどり、彼が休んだ日にはさっぱり能率があがらなかった。そして彼のいない日の職場は、八時間が倍にも三倍にも感じられた。それにしても、彼も御苦労なことだ。 詰所が近くにあるときにはそれほど苦労はないが、いつもそうとばかりはかぎらない。 急な坂道やら、天井の低いところも、ふうふういいながら昇ったり下ったりしなければならんことも多い。それでもやっぱりこの男は、苦にもせず、毎日毎日、朝から晩まで、ひっきりなしに往復しておった。
 しかし、たった一度だけ、彼が時間をみにゆくのも忘れて、気違いのように働いたことがある。 それは断層掘進中のマオロシ坑道が大落磐して、彼を除いて全員がその奥に閉じこめられたときのことだ。 なぜ彼だけは閉じこめられなかったのか。例によって詰所へ時間をききに昇っていたからだ。さいわい、一名の負傷者もなく、無事に救出されたが、そのときの一番の働き手が、この大スカブラだったのである。坑道いっぱいにぎっしりつまったボタをはねのけて、皆を救い出すまでというもの、彼は一度も休まず、一度も交替せず、崩れ落ちた牛のような大岩を、ボンコシで叩き割ったり、押しのけたりした。 救援隊をまるで自分の手足のように動かしたのも彼だ。 鉱長も課長もなかった。 どんな偉いやつも彼にどなられて、きりきり舞いして働かされた。 おかげで、やっと皆が救出されたとき、この男のいうた言葉は、「このアホタン! きさまどんのおかげで、俺は時間をみにいくひまもなかったぞ!」 これだった。
 薩摩大口出身の鹿子木半兵衛という労働者から聞いた話であるが、いかにもスカブラの面目をいきいきと現わしたものといえるだろう。 日ごろは縦のものを横にするのさえ面倒がる寝太郎が、ある非常事態に直面するやいなや、まるで人間が変ったように獅子奮迅の大活躍をし、あっというような 手柄をたてるという筋書きであるが、これは一見なんとよく昔話の主人公たちの致富譚に類似していることか。 ただし、これは炭鉱のスカブラ話に共通した実在の人物の口承記録であるから、彼は富も積まなければ、長者の娘聟になるわけでもない。 炭鉱と事故が悪縁の夫婦のごとく結びついて離れないのと同様に、地底の寝太郎の活動もまた、炭鉱事故の犠牲者の救援作業と宿命的に結びついている。 彼はただせいぜい予想外の大奮闘をしたことを笑い話の種にされるだけのことで、社長にもならず、鉱長にもならず、後はふたたび元の木阿弥のスカブラに戻ってゆくばかりだ。 そもそも彼は最初からそんな者になりたくて奮闘したわけではない。 彼はむしろ寝る時間や、時刻を確かめにゆく時間を、そのために奪われたことを恨めしく思うだけである。 しかし、私がここにこのようなスカブラ話を紹介してみたのは、とりたてて彼らの奇蹟的にして超人的なる英雄的闘争を強調せんがためではない。 むろん、それはそれで見落すことのできない特長にちがいないが、その程度の英雄なら、アメリカ西部劇の 「リオ・ブラボ−」 のアルコ−ル中毒の保安官と大差あるまい。 要するに皆殺しのラッパの響きと同時に ぴたりと手の震えがとまって、後はもう百発百中、撃って撃って撃ちまくったという武勇談にすぎない。 しかし、私の興味の中心はそこにはない。 私にとってなにより意味深く思われるのは、彼がたえず時を知らせつづけたということである。
 彼はけっして単にラジオの時報をつとめたのではない。 彼はみずから地獄の柱時計の振子となって ゆれ動くことによって、みずからを時そのものと化したのではあるまいか。 そして既存の物理的な時刻とはまったく異質の秒を刻みつづけたのではないのか。 彼が休んだ日は、それこそ時間の流れが凍結してしまったように感じられるのも、けだし当然というほかない。 堪えがたい時をみずからの運動としての時と化してゆく者、それこそが寝太郎であり、スカブラであろう。 スカブラとは、もっとも絶望的な秒読みの音に 肉体を刻まれつつ生きてゆく楽天主義の名でなければならぬ。 
 「ばってん、いまの炭鉱にはスカブラもおらんごとなってしもうた。 坑内に下っても、全然面白うなか。 スカブラのおらん炭鉱なんち、まったく意味なかよ」
 こう、やけっぱちに現在の炭鉱労働者たちは悔やみ、かつ呪う。 なるほど、もはやスカブラの生きてゆける状態ではなかろう。 合理化は、そのような非合理の存在を許そうとしないからである。 しかし、かならずや新たなスカブラがふたたび地底に発生するにちがいない。 なぜなら、もっとも虚妄なるものによって現実の仮面の皮をはぎとることこそ、スカブラの生命であり、存在理由であるからだ。 しかし、もとよりこれは労働者が真に極限状況における楽天主義者であるかぎりにおいてである。

 付記、スカブラのことは一名 「ウサギ坑夫」 とも呼ばれる。兎は後脚が長く前脚が短いため、坂を昇るときは早いが、下りは遅い。それと同じく、スカブラも坑内に下るときは誰より一番のろいくせに、逆に坑内から昇るときは一番早いところからの比喩である。 いや、兎はあっちへ跳ね、こっちへ跳ねするところからきたケツワリ坑夫の異名だという説もあるが、やはりもとはスカブラの比喩だったであろう。もっとも、スカブラはすぐケツワリスカブラへと発展してゆく傾向が強いから、ケツワリ坑夫の異名だといっても、かならずしも間違いということはできないだろうが。                  


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