PAESTUM
ペストゥム
<概要>

 パエストゥムは、紀元前720年にアカイア人とトロイゼン人によって建設された都市シバリス(Sibari)がティレニア海沿岸に影響力を強めるために紀元前7世紀末または6世紀初頭にポセイドニアとして建設。母市シバリスは紀元前510年にクロトン人との戦いに敗れて破壊された。紀元前4世紀にはイタリアのギリシャ人、ルカーニア人、ブレンターニ人の間に戦争が起こり、前332年にはギリシャ側を援助するエピロスの王アレクサンダーがルカーニア人を駆逐するが、翌年の王の死後再びルカーニア人がポセイドニアを取り戻す。前282年から270年にかけてローマとエピロスの王ピュロスとの戦いを経てローマは前273年にポセイドニアをローマの市パエストゥムとした。パエストゥムはその後のポエニ戦争時代にもローマに忠誠を尽くし、その結果自分たちの銅貨を鋳造する権利をティベリウス帝の時代まで有する。このローマ都市の時代に闘技場、フォロ、体育場などの公共施設が作られた。

 その後サルソ川の氾濫による湿地化、アドリア海から直接ローマに向う道路が出来たため、パエストゥムは通商路の要の地位を維持することができなくなり、ケレス神殿周辺の小村と化していった。9世紀にはマラリアの発生とサラセン人の襲撃により残っていた住民もこの地を去って行き忘れ去られた。1752年ブルボン家のカルロス三世王の命による道路建設中にパエストゥムは再発見され、世界の注目を浴びるようになった。

<見所>

 ここではギリシア時代からイタリキーの支配時代を経てローマ時代にいたる各時代の遺構が混在するのを見ることができる。それらの中で、先ず目をひくのは紀元前6・5世紀のギリシア時代に建てられた3つの神殿の威容だ。それらは北から「ケレス神殿」、「ポセイドン神殿」、「バシリカ」と呼ばれるているが、実際には「ケレス神殿」はアテナ女神、「ポセイドン神殿」と「バシリカ」はヘラ女神をまつるものであったとの説が有力であるようだ。これらの3神殿は雄渾なドーリス式の列柱を備えている。

  「ケレス神殿」と「ポセイドン神殿」の中間には中央広場(フォールム)があり、その周辺に体育場などの公的施設やラテン語の碑文を刻んだ個人の記念碑が幾つものこっている。なかでも、「評議会場」(ブウレウテリオン)と呼ばれる集会場や円形闘技場の跡は、いかにも古代ギリシア・ローマの都市らしい遺構だ。またフォールムの西側には、石畳の路、「聖なる道」(ウィア・サクラ)が残っている。

 遺跡の公開されている地区と道を挟んで、考古学博物館(Museo Archeologico Nazionale)がある。そこでは、パエストゥムの北12kmに位置する女神ヘラの聖域(ヘライオン)やパエストゥムの市壁の外の墓域(ネクロポリス)から発見された遺物などが展示されている。ネクロポリスでは、壁面や天井をフレスコ画で装飾した墓所がいくつも発掘され、それらのフレスコ画が博物館で展示されている。最も有名なのは、ある墓室の天井に描かれていた「飛び込む男」のフレスコ画。


Foroの闘技場


ポセイドン神殿(Temple of Poseidon)


バジリカ


ケレス神殿


ケレス神殿

ローマ時代のForo

ローマ時代のComitium

考古学博物館(Museo Archeologico Nazionale

例の二本セットの笛

石棺内部のフレスコ画

有名な飛び込み台の絵

水牛がいますね

博物館の外観