第3章「The struggle within us」
The forces within us 選択をする時に、われわれの中で2つの力が働いていると、ラビは信じている。 一つは善をしようとする我々の欲求、他方は悪をしようとする我々の欲求である。 善をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer Tov」とラビは名づけた。 Yetzerはヘブライ語で衝動(impulse)を意味し、Tovは善(good)を意味する。 他方、悪をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer HaRa」名づけた。 Raはヘブライ語で(evil)を意味する。 /*以下では、「善の衝動」、「悪の衝動」とも訳す*/ われわれの各々の人は、これら2つの衝動をいかに操作するかに関わる。 「Yetzer Tov」は正義の人をコントロールし、 他方「Yetzer HaRa」は邪悪をコントロールする。 しかしタルムードでは、 両方の衝動が平均的な人をコントロールすると言う(Berachot 61a)。 我々のほとんどはこの3番目のカテゴリーにあり、全体に正義でもなければ、 また全体に邪悪であるわけでもない。 このページ先頭へ Needing impulses for both right and wrong しかし、何が正しいことで、何が悪いことか、われわれはいかにして判断するのであろうか。 どうやって一方の衝動から他方を識別するのか。 選択はいつも明瞭であるというものではない。 いつでも邪悪な一つの選択があり、いつでも正義の一つの選択がある、 ということをラビが暗示している時、単純化しすぎてはいないのか。 ラビの理解というのは実際にはもっとずっと複雑であったのだ。 彼らは「Yetzer HaRa」が邪悪だとは信じていなかった。 それはちょうど邪悪に向かった傾斜であるのだ。 彼らは、「Yetzer HaRa」が多くの局面で有用になりえる、 ということまでも理解している。 このことを示すために、彼らはこんなたとえ話を言っている。 昔、われらの賢者たちは「Yetzer HaRa」を捕まえて、それを金の鎖で縛り上げた。 最初彼らは自分たちでたいへん喜んでいた。 盗みは止り、殺人は無くなった。 人々は友好的になり、互いを愛するようになった。 嫉妬は無くなり、イスラエルの 全地においてイスラエル人と隣人との間の論争も無くなった。 死ぬ者はいなくなった。 しかし突然、彼らは奇妙な出来事を見るようになり始めた。 人々はとても満足したので精を出して働く心配がなくなった。 競争が無くなったので人々は働くことを止めてしまった。 新しい家はもう作られなくなった。 人々はもはや、結婚もしないで、子供を欲しがらなくなった。 ラビでさえ不精になり始めた。 その時、ラビは「Yetzer HaRa」が世界において如何に必要であったかを理解した。 それで彼らは縛ってあった鎖を壊し、それを自由にした。 (Genesisi Rabbah 9:7) このページ先頭へ Selfishness 「Yetzer HaRa」を理解する最も簡単な方法は、 極端な利己主義としてそれを見てみることである。 それは我々の一部でもあり、それは「私のもの」とか「私は欲しい」 あるいは「私にくれ」とか言って要求することがそれである。 「Yetzer HaRa」が危険であるのは何かというと、 もし我々がそれをバランスしコントロールしないと、 それが我々をコントロールするようになる、ということである。 「Yetzer HaRa」は、本を取り上げて返さない、 といった小さなことをするように我々に問いかけてくることで、我々をつかみ始める。 そしてやがて、もっと悪い事をするように我々に要求する。 それは我々にこう言うかもしれない: 「この一回だけやってごらん、 あなたがただの一回だけやっても誰も傷つくことはないから」 それからやがて、毎回に悪い事をするように要求してくる: 「さあ来てこれを傷つけてごらん。 彼がいかに弱いか見てみなさい。 彼はあなたに仕返しなんか出来ないよ」 最初は、「Yetzer HaRa」はくもの巣のようであるが、 しかし最後には重いロープのようになる。 最初は、「Yetzer HaRa」は通行人のようであり、お客のようであるが、 最後にはその家の主人になる。 最初は、「Yetzer HaRa」は甘いが、最後にはにがくなる。 (Sukkot 52a, 52b, Jerusalem Talmud Shabbat 14c) このページ先頭へ A formula 利己主義をコントロールすることはいつも簡単というわけではない。 我々が自分たちに利己主義を許せば許すほど、我々が利己主義になる。 その時、 選択するという我々の能力を実際に失って行き、 我々だけのためにいつも行動し始める。 我々の自由、我々の自由意志を放棄し、 それに代わって何でも瞬間に行動することが好きになる、 これは自由の錯覚にすぎないのであるが。 このことは、もし我々が他の人々と一緒に生活する必要がなかったならば、 全て正しいかもしれない。 しかし、あなたがこの本の第2章の始めでリストアップしたものを思い出してみれば、 あなたはすぐに分かるがあなたの生活のほとんどは他人の周りに、 そしてあなたが属している人々の周りに作られている。 そこで我々はバランスについてのある種類を探すために勉強しなければならない。 利己主義になることはいつでも悪い、というわけではない。 しかしまたいつでも正しい、というわけでもない。 全てのものを皆で分けることがいつも良いわけではないが、 いつも悪いはずがない。 間のどこかに行くべき価値のある道がある。 ここで、ミシュナ時代の偉大な先生であるヒレルから、われわれは学習しよう。 ヒレルは、自分の生活と繰り返しの教えを通して、知的な選択をする公式を探した。 ヒレルは「アボット」に彼の公式をまとめた: " If I am not for myself, who will be for me? And if I am only for myself, what am I? And if not now, when? " このページ先頭へ " If I am not for myself, who will be for me? " もしあなたが住んでいる世界にアクティブに参加するのであれば、 何かのために耐えることが必要である。 次のことに理解を持つようにしなければいけない: あなたが持っているもの、 持ちたいもの、 自分がなりたい事、 喜んで働きたい事、 世話をしたい事。 言い換えれば、自分自身でスタートしなければならない。 自分自身のために欲しいものが全て利己主義だ、というわけではない。 しかし、自分自身のため「だけ」に欲しいものはほとんどが利己主義である。 あなたは知識を得たいかもしれない。 このこと自身は利己主義ではない。 知識のある人は、無知な者よりも世界にとって役に立つ。 しかしもしあなたが他人を傷つけるために、あるいはあなた自身のためにのみ、 あなたの知識を使うのなら、あなたが害ある利己主義なものになる。 あなたは人気を得たいかもしれない。 このこと自身は利己主義ではない。 人気のある人は、接近して連帯したり、議論や討論をしたり、 親切や理解を持たらしたりして、隣人を助けることができる。 しかし人気のある人が、悪の方向に人々を導くために彼の才能を使う時、 彼は「悪の衝動」への道にいるのである。 人々を戦争から戦争へと導くために、自分の人気を使った場合、 ナポレオンはフランス人民を助ける代わりに、彼らを傷つけ苦しめた。 あなたは財産を得たいかもしれない。 このこと自身は利己主義ではない。 財産のある人は他の人々を助けることができる。 必要としている人々に彼の富を慈善に使うことによって、 また貴重な仕事や行動のスポンサーなることで共同体への祝福となることで。 しかしもし人が他の人々の犠牲によって財産を欲しがるならば、 その時これは真の利己主義を通して「悪の衝動」の一つの例である。 ヒレル(Hillel)の最初の質問、 " If I am not for myself, who will be for me? " これは次のことを暗示している。 人は自分自身を助けるために努力すべきである。 あなたは自分がなりたい事になるために労働すべきであり、 より良くなるために労働すべきである。 なぜならば、もしあなたがあなた自身のために働かないのであれば、 いったい誰があなたのためにそれを行なってくれるのか。 このページ先頭へ " If I am only for myself, what am I ? " しかしもし全てのあなたの労働があなた自身だけのためであるならば、 あなたは何の善であるのか。 われわれはいつもここに戻ってくる: あなたの生活には、あなただけがいるのではない。 あなたの生活が本当の意味で始まるのは、 他人のことを考慮した仕事の方法を選択し始めた時からである。 もしあなた一人だけが生きているならば、 いかに振る舞っても誰かとの差ができるわけではない。 これがゆえに、ヒレル(Hillel)の第2の質問がとても重要なのである。 他の人々と生活することは、我々が自分たちのことを考えるの同様に、 彼らが必要あるいは要望していることを我々が考えなければいけない。 我々だけのためにある、というときはいつも「悪の衝動」が我々を狙っている。 これはヒレルの第1の質問を少しばかり変えて我々に問う: " If I don't get such and such for myself, who else will get it for me? " もし私がそんなに自分のために努力しなくても、 誰か他人が私のためにそれをやってくれのではないか。 しかしヒレルは問を続ける時に適切なバランスを持ってきている。 実際に第2の質問において " If I get such and such at someone else's expense or harm, am I not evil? " もし私がそれほど誰か他人を傷つけているとしたら、私は悪ではないのか。 ヒレルは「悪の衝動」が重要であることも分かっているが、 しかしその2つの衝動がバランスされなければならないことも分かっている。 このような場合にのみ、人は社会に、そして結局は自分に奉仕できる。 このページ先頭へ " If not now, when? "" ヒレルの第3の質問はまた重要である。 われわれは人間である。 我々の全ては、明日まで物事を延期するのが好きである。 さらに、もし我々が決して始めようとしない、 あるいは " I will let myself do evil just this one time " この一回だけは悪をやってみようと言うならば、これは我々が奴隷になることである。 我々は選択する自由を失っているのだ。 我々のうち誰かは、行き過ぎた利己主義で悩んでいる。 また誰かは、自分たち自身のことをほとんど考えない行き過ぎた非利己主義で悩んでいる。 もし我々が生活の中でのバランスを持つよう探し求めないのならば、 我々はただ怠け者になるしか期待出来ない: 変化や進歩への抵抗、 何か新しいことの試みへの恐れ、 我々をより良く、あるいはより豊かにする試みへの恐れ。 これに対する唯一の治療があるとヒレルは暗示している。 今行動せよ! 明日まで待つな、「私は明日始めよう」と言うな。 すぐに始めなさい! このページ先頭へ Reflection この本は、「アボット」にあるヒレルの3つの質問を軸にして構成されている。 「第1〜4章」は、行動に対する我々自身の準備について考えている。 「第5〜11章」は、 我々各々が、自分自身のために生活をする上で、 選択しなければならない事柄について語る。 (If I am not for myself, who will be for me? ) 「第12〜21章」は、 我々の共同体の中で一緒にうまく生活する場合に、 選択しなければならない事柄について語る。 (And if I am only for myself, what am I?) 「第22〜23章」は、 われわれの進路を設定しそれを正しく設定するために、 ただちにしなければならないことは何かについて語る。 (And if not now, when?) いつでも、我々の学習では、このような考えに戻ってくる: ・我々の各々は、複合した複雑な人間であり、しかも唯一で一人である ということ。 ・我々の誰もが、心の内で、良いことと悪いこととの間で苦闘している。 そして同様に、我々自身のために正しいことと我々が住んでいる世界の ために正しいこととの間で苦闘しているということ。 ・この苦闘が我々の生活に、そして我々のまわりの世界に意味を与えている、 ということ。 ・そしてこの苦闘の成功は、我々自身の中でまた世界の中で、 何が最良で何が最悪かのバランスをいかにして我々がうまくをとるか、 最終的にこれにかかっているということ。 我々の苦闘に光を投げるために、そしてこの世界の複雑さの説明で我々を助けるために、 我々自身の伝統(ラビの観点)を引き出そう。 ラビの観点: 適切な行動と適切な考えを通して邪悪に打ち勝てるということ。 邪悪なことをしようとする衝動「Yetzer HaRa」は、 良いことに代わるかもしれないということ。 我々はラビ自身の行動、言葉および思考を調べよう。 そして彼らの原理がいかに現実となって行くかを見てみよう。 正しさと邪悪の間の選択をするのはいつでもあなたである、 ということを忘れずに記憶しなさい。 なぜならば、選択の自由はあなたがユダヤ人としての世襲財産であり、 また人間として生まれたあなたの権利だからである。 じょうずに選ぶことは最終的にあなたの個人的な責任である。このページ先頭へ