When a Jew seeks wisdom 講座#3

第5章「The value of life」

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第5章「The value of life : 生命の価値」

 一人の人間の生命の価値とはちょうど何なのか?
あなたは自分がどのくらいの価値だと思いますか?
ある科学者が、そんなに昔でなく、平均的な大人の体における全ての科学物質の価値
を合計した。それはおよそ4ドルの価値であった。


Our group and our values

 人間がどれだけの価値があるか判定することは、判定をするグループの程度により
大きく依存する。もちろん、人の体の中の科学物質の金銭的な価値よりも人はずっと
大きな価値がある、その科学者はきっとこう同意したであろう。
実際に、この世界の行動に参加し、未来を分け合う個人として、各々の人の重要性の
近代的な視点が、 Judaism の世襲財産の結果にたいへん多く存在している。
Judaism は我々に、各々そしてあらゆる人間の本質的な価値と重要性を教えている。
ラビたちは各々の人を、貴重なもの、全体として置き換えできないものとして見た:

 一人の人間は天地創造の全体に等しい。
               [ Avot de Rabbi Natan 31 ]

 この教訓を学ぶために、最初人間は一人として創造された:
 創造主は、一人の生命を滅すものは誰でも、全世界を滅したようにみなす、
 創造主は、一人の生命を救うものは誰でも、全世界を救ったようにみなす。
                    [ Mishnah, Sanhedrin 4:5 ]
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The image of God

 個人の価値のこの考えの中心にあるのは、人間は神のイメージで創造されている、
というユダヤ人の教えである。

 神は言われた。
 「我々にかたどり、我々に似せて、人を創ろう。そして海の魚、空の鳥、
 家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
 神は自分にかたどって人を創造された。
 神にかたどって創造された。
 男と女に創造された。       [ 創世記1:24-27 ]

ここでトーラはこう仮定している:時間のそもそもの最初から、各々の個人の中に主、
我々の創造者、に似ているところのある要素があった。
しかしこれは、地を歩きまわる動物も、空に住む鳥も、海を泳ぐ魚もまた真である。
それならば、人間が唯一なのは何の点においてか?
ラビ・アキバ(Rabbi Akiba)はアボットの中で、まさにこの質問を彼自身話かけた。

 人間は愛されている。なぜならば、神のイメージで創造されたからである。
 神のイメージで創造されたことを彼自身に知らされていることは、さらに
 豊かな愛である。 [ Avot 3:14 ]

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The spark within

 あなたはこう問うかもしれない:
トーラの意味は、我々が神の物理的なイメージに創造されているのか?
イメージという言葉が引用しているのは我々の身体のことなのか?
その答えは二つの部分からなる。

最初に、人間は決して全てが同じようではないと我々は観察する:
我々は物理的に全てが同じというわけではない。
サイズにおいて我々はこびとから巨人までいる。
色において、黒から赤や黄色を通して白子の白までの範囲がある。
そして我々はまた、性、姿、力、そしていろいろな能力が違う。
我々が記憶しなければならない記憶力でさえ、基本的にはまた物理的な特徴で
あり、非常に大きく異なる。

そしてトーラは、我々に人間性の創造の第二の描写を与えるために先に進む:
最初の描写、「神のイメージ」このより高められた概念、よりも人間の言葉で
容易に理解できる描写である。

 主なる神は、土で塵の人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れた。
 人はこうして生きる者となった。 [ 創世記2:7 ] 

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Man the mixture

 この描写において、新しい要素が加わってきている。
我々の各々は「生きる魂」である。
動物の王国の残りから我々を離しているのは、この魂である。
魂についてのユダヤ人の考えは、魂は体から分離されているものではない。
魂と体は一緒でもって生命の印である、と我々は理解している。
人間が神のイメージに創造されている、と理解しているのは魂である。
静かで小さな良心の声が聞かれる用意をしているのは我々の中の魂である。

 天で形成された全ての生き物は、魂も体も天のものである。
 そして、地で形成された全ての生き物は、魂も体も地のものである。
 しかし人間の場合は例外であり、魂は天から、体は地からできている。
 それゆえ、もし人がトーラに従い、天にいる主の意志を行なうならば、
 見よ、彼は上の生き物のようである。
 こう書かれているように:「私は言った、おまえたちは神であり、おまえ
 たち全ては主なる神の息子たちである」
 しかし、もし人がトーラに従わずに、天にいる主の意志を行なわないならば、
 彼は下の生き物のようである。
 こう書かれているように:「さもなければ、おまえたちは人間のように死ぬ」
                  [ Sifre Deuteronomy 306:132a ]

神に関連した人間性の位置というこの特別な Jewish の観点は、我々に特別な
態度を与えている。神は多くでき我々ができることは少ないと自分自身を見る
必要はない。
我々は、各々の個人を重要な者、全世界への生命として見ることができる、
しかしなお神は光栄がありすべての上の最上である。
人間として神は我々に尊厳を与えることを許可した、おそらくこの最も偉大な
表現は詩編の中に見られる。

 あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます。
 月も、星も、あなたが配置なさったもの。
 そのあなたが御心に留めてくださるとは、
 人間は何ものなのでしょう。
 人の子は何ものなのでしょう、
 あなたが顧みてくださるとは。
 神に僅かに劣るものとして人を造り、
 なお栄光と威光を冠としていただかせ、
 御手によって造られたものをすべて治めるように、
 その足もとに置かれました。    [ 詩編8:4 - 8:7 ]
               
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As yourself

 Jewishの道徳のたいへん多くがこの考え、各々の人間の尊厳そしてそれを尊重
するために我々を必要とするというこの考え、に基づいているので、どんな本性
が言われているかを正確に理解するために、我々はそれを注意深く調べるべきで
ある。タルムードに有名な話がある:

 ある不信仰な者がヒレルに挑戦して言った、
 「片足で立っている間にトーラを説明してくれ」
 ヒレルは答えた、「全体のトーラの本質は、”あなたが嫌うことをあなたの
 仲間にしてはいけない”、残りはその注釈である」
 そして、彼はその不信仰者に「行って学びなさい」と導いた。

ヒレルの訓戒にはもう一つの言い方がある、

 「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」

そして彼は指摘した、もしあなたがまずあなた自身を愛すことを学ばないと、
あなたが真にあなたの隣人を愛すことはできない。なぜならば、もしあなたが
あなた自身を最初に愛さないと、いかにしてあなたがあなた自身のようにあなた
の隣人を愛すことができるのか?

 全世界での我々自身の重要さ、時間と空間の計画の中において彼または彼女の
個人的な価値、を我々の各々が理解しさえすれば、我々は真に隣人を愛し始める。
これはいかににて働くのか?
あなたが道を歩いている時に、あなたが脇道で横たわっている一人の人を見て
いると想像してみなさい。
彼は体を折り重ねて胃を抑えている、そして彼の体はもだえ苦しんでいる。
あなたがこれを見たとき何を考えますか?
彼が蛇としての未来を訓練している、とあなたは想像しますか?
彼は自分が落とした硬貨を探している、とあなたは想像しますか?
彼は脇道で冗談を試している、とあなたは想像しますか?
もちろん違う。
彼は苦しんでいることをあなたは知っている。
あなたは、彼の胃がそんなに痛いことを、知覚しさえする。
しかし、これが真であることをいかにしてあなたは知るのか?
起こっていることについて、なぜそのようにあなたは確信するのか?
あなた自身が痛い胃で苦しんだことがあるからではないのですか?
そして、あなたの胃がほとんどいつも健康であってさえも、あなた自身に
こう質問するからではないのか、「私がそんな立場にはどうするであろうか?」

心理学者は、これを「評価基準(point of reference)」を使うと言う。
我々が、他人の経験、過去の感じ、考え、感動を理解するための「評価基準」
として、我々の経験、過去の感じ、考え、感動を使う。
それゆえ、あなた自身をより理解するようになる時、あなたは他人をより理解
する。(また、他人を学ぶことによってより良くあなた自身を理解する)
あなたが他人を真に愛すことができる前に、あなた自身を愛さなければならない、
と言う場合に、愛が「評価基準」を持たなければならないとラビは言っていた。
それは、あなたが他人と分け合う経験の中に基礎をおいていなければならない。

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 coffee break

 スピルズバーグ監督の映画で、ユダヤ人たちが主人公シンドラーに、自分たちの
金歯を集めて指輪を作り、これを贈呈する印象深いシーンがあります。
この映画の原作者の本「シンドラーズ・リスト」1982年からの引用(558ページ目):

 リヒトはそれを溶かして地金にし、.... リングの内側にヘブライ語の銘を
 刻り上げていた。それは ... 「タルムード」のなかの詩句だった。
 いわく、「一人の人間の命を救う者は全世界を救う」

これは今回の講座#3の「Our group and our values」の節で説明されている
Mishnah(Sanhedrin 4:5)からの引用でしょう。
ヘブライ語の原文は、Davka社の「CD-ROM版Soncino Talmud」からを調べると

実際に指輪に刻印したのは、この文章の一部だと思います。  このページ先頭へ Me first こういう立場を想像してみなさい。  二人の男が砂漠を旅していた。  男Aは水筒を持っていたが、男Bは持っていなかった。  二人の男はのどが渇いて死にそうであった。  もし男Aが彼の水筒の水を飲めば、彼は砂漠の端の町に着くことができるかも  しれなかった。  一方、男たちが水を分け合って飲めば、どちらもその町に着けないで二人とも  死んでしまうであろう。  男Aは水を飲むべきか?  それとも彼は男Bと水を分け合うべきか?  あなたの意見は何ですか?                 [ Sifra Leviticus 25:36 ]   我々の伝統は、この物語が賢者の一人であるベン・ペトラ(Ben Petura) によって 与えられたことを記録している。 こう質問している、「ただ一人のみが救われる時、どの命が最初に来るか?」 二つの答えが記録されている、一つはベン・ペトラ自身によって、他方はアキバに よって与えられた。  ベン・ペトラは言った、その二人の男は水筒の水を分け合うべきである。 彼が議論した主要な質問は、実際に「誰が生きるか?」ではなく、 「一般に行なうためには何が正しいことか?」である。 そして、一般に、我々は誰もが他人と水を分け合うことであると彼は言った。 この議論についてたいへん興味深いことは、二人の男が水を分け合うべきである と言ったベン・ペトラが、男Aが男Bに水を与えるべきであるとは言わなかった ことである。 なぜか?  その理由は実際に単純である。 ユダヤ人の法律は全てに対して等しく扱うよう要求している。 もし法律が男Bに水を与えるよう男Aに要求しているならば、男Bは見返りとして 男Aに水を返すことが要求されるであろう。そのように、彼らは水筒の水を互いに 与え返すやりとりするうちに、彼らは砂漠で死んでしまうであろう。  しかしラビ・アキバは水を分け与えることに関して同意しなかった。 アキバは、二人が死ぬよりは一人が死ぬほうがより良い、と主張した。 それゆえ、水を所有しているその男が一人でその水を飲まなければならない。 後のユダヤ人の考え方はアキバのこの判断に従っている。 我々は、まず最初に我々自身を考えること --- 最初に我々自身を尊敬し、最初に我々自身を愛すこと --- が要求される。  このページ先頭へ Common sense  このことの多くは共通の分別である。 たとえ、我々自身を最初に救済することが、ユダヤ人の道でなかったとしても、 なおも、危機においてほとんどの人間が行なうことである。 その多くは、ラビたちと我々の間の共通な下地、共通な「評価基準(point of reference)」である。  しかし、他人を救助するために偉大な努力をして、彼ら自身を危険にしている 人々のことを、我々は繰り返し聞いている。 これは行なうべきユダヤ人の道ではないのであろうか? 再び、その答えは共通な分別と共通な「評価基準」に基づく: それは行なうべきユダヤ人の道であり、これがその十分な戒律の本質である。 「あなた自身と同じようにあなたの隣人を愛しなさい」   すなわち、 あなたが燃えているビルからあなた自身を救うために逃れようとする、あるいは 難破した船からあなた自身を救うために海岸に泳ごうとする、ちょうどその時の ように、自分たちを救おうとしている同じような立場にいる他人を、あなたは また助けることを要求される。 しかしこの要求はずっと遠くで手が届かないわけではない。 我々はいつも真ん中の立場を探すべきである。 たとえば、 もしあなたが、稼いだすべてを慈善に与え続けて、その結果として貧乏になり、 あなた自身が慈善を必要とするようになったとしたら、それは誰にも良いこと ではないのだ。  このページ先頭へ Self-interest or selfishness このことは、純粋な利己主義(我々が「Yetzer HaRa」として見てきたところ の邪悪であることをしようとする衝動)と、しばしば高潔で良いことになる 私欲との間の違いに我々を導く。 あるハシディック(Hassidic) な話が一つの高潔な私欲を説明している:  ある男がラビのところにきて、そして彼のために祈ってくれるように頼んだ。  (これは東ヨーロッパのハシディムの中で共通な習慣であった。これらの単純  でしかし信心深い人たちは、ラビの言葉が神によって準備よく受け入れられる  であろうと感じていた。なぜならば、ラビはたいへん神に接近していると見え  ていたからである。)  「よろしい」、ラビは言った、「そして私が何を神に祈るのですか?」  「私の息子が学のある人になるように祈って下さい」、と男は言った。  「いいや」、ラビは答えた、「代わりに、あなたが学のある人になるように  祈りなさい。そうすれば、あなたは息子を教育するであろう、そして祈る者は  あなたに対して真となり、そしてあなたの息子に対して真になるであろう。」 高潔な私欲はそんな伝統的なユダヤ人の価値になる、我々は常にその例を、毎日 の祈りの祈祷書の中に見ている。 例えば、アミダ(Amidah) の中で我々はこう祈っている:  主、あなたは知識をもった人間が好きで、そして道徳を理解することを教え、  あなたから知識と理解力と洞察力をもらった我々が好きなので。  我々はあなた、おお主よ、知識を与えてくれる栄光のお方を賛美します。                            [ Siddur ] その祈りからも、我々が求めて知識というのは神と我々との関係をより良く理解 することであるということが分かる: すなわち我々が、「あなたから知識と理解力と洞察力」、と言うように。 生命の深い意味は、神が知識の贈り物(神のみが我々に与えることができる)を 我々に認めている時のみに、発見されることができる。  このページ先頭へ Why? そしてそれは、最終的に全ての中で最も本質的な質問に我々を連れてゆく:  魂を持った生き物、  物事がより良くなることを熱望する生き物、  想像力と意志を持った生き物、  探求する生き物、  質問をする生き物、  そんなものがなぜ存在すべきなのか?  なぜ人間の存在があるべきなのか? 我々が人間と呼んでいるこの特別な高貴な生き物の存在に対して、 ラビは我々に二重の理由を与えた:  まず第一に、人間の仕事は神を大いに喜ばすことである、  そして第二に我々の仕事は正義の布を織るためである。  このページ先頭へ To delight the Lord 「神は物語を愛するゆえに人間を創造した」、という言う言葉がある。 そしてまたアボットの最後の文は、神の創造における神の大いなる喜びの この考えについて力説している:  聖なるお方、賛えられるべき主が彼の世界を創造したものはみな、  ただ神の栄光のために創造された。                   [ Avot 6:11 ] ラビ・アイブ(Rabbi Aibu) は次のようなたとえ話で引用されている:  神は人間を創造した時、神は偉大な関心を持っていた。  最初、神は人間の食べ物を創造し、その後にのみ神は人間を創造した。  それにもかかわらず、天使たちは詩編(8:5)の言葉を使って不平を言った。  「そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。   人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みて下さるとは。」                          神は答えた、  「私は宮殿を設計した、そしてそれを良いもので満たした。   しかし良いもので満たしたこの宮殿の中に客たちがいなくては、   いったい私は何を楽しみにすしてゆくのか?」  その時、天使たちは答えた、  「全世界の元首!あなたの楽しむことをして下さい。」                       [ Gensis Rabbah 8:6 ]  このページ先頭へ The way of the world  もちろん、神が世界の中で持っている大いなるこの喜びは、人間に対して 神の愛を基本とされるものであると、ラビたちは理解していた。 同じように、我々は生命の良いものに大いに喜ぶよう努力すべきである:  一人の人間は、彼の目が見て、彼が味わうことをしなかったあらゆる良い  ものに対して、審判の日に説明を与えなければならないでしょう。                   [ Jerusalem Talmud, Kiddushin 4 ] どんな場合にも、我々の全生活を、所有のために働くことに費やすのは、 ほとんど価値のあるものとして見られることはない。 コヘレトの言葉(旧約聖書:Ecclesiastes)にこう書かれているように、  「人はこの世を離れる時に、彼の手で夢中になった労働に対して何一つ   持ってゆくことができない」    [ コヘレトの言葉 5:15 ] この観点から世界を見たとき、世界は実際に希望のない場所に見える。 子供は物を欲しがって生まれてくる ---- 最初は、愛、そして食べ物、すぐに所有物、そして楽しみ。 そして人が死ぬときは、彼が働いたところのものを全て残して去る。  紀元1年のこと、アデアベネ(adiabene) にある王様が住んでいた。  この王モノバズス(Monobazus) がユダヤ教に改宗をした。  彼の地が大いなる飢饉の最中、貧乏人たちが食料を買えるように、  彼は彼の全ての財産を彼らに与えた。  彼の親戚の者たちがやって来て、彼をばかものよばわりした。  しかし彼は答えた、  「私の先祖は下に対して宝を蓄えてくれた、私は宝を上に対して蓄えた。   彼らは力でそれらを奪える場所に蓄えた、私は力で害せない所に蓄えた。   彼らは実を生じない宝を蓄えた、私の宝は生産力があろう。   彼らは黄金の宝を蓄えた、私は魂の宝庫を。   彼らは他人のために蓄えた、私は自分自身の良いことのために。   彼らはこの世の宝を蓄えた、私は来るべき世界のために宝庫を蓄えた。」                      [ Tosefta, Peah 4:18 ]  このページ先頭へ The work of righteousness 我々はアボットの中で読む:  人間が死ぬときに、銀や金や宝石や真珠を携えて行くことはできない、  しかしただトーラと良い行いは(携えて行くことができる)。                         [ Avot 6:9 ] あなたの価値は、あなたがあなた自身を価値あるものに「させる」ところ のものに集中する。 あなたの価値は、あなたがあなたの行動を規則付けているその価値に従う。 ハシディムの人々は、ハニポル(Hanipol) のレブ・ズシュヤ(Reb Zusya) の 話を繰り返し告げるのを愛した。 レブ・ズシュヤは死ぬときに偉大なを教えを行なった:  レブ・ズシュヤの生徒たちは、彼らの先生が死にかけているのを聞いて、  最後の訪問にやって来た。しかし部屋に入ったときに、恐れでぶるぶる  震えている先生を見て、彼らは驚いた。  彼らはたずねた、  「あなたはなぜ死を恐れているのですか?」  「あなたの生活は、モーゼ自身と同じように正義であったではないですか?」  レブ・ズシュヤは答えた、  「私が審判の王座の前に立つとき、   『レブ・ズシュヤよ、なぜあなたはモーゼのようでなかったのか?』   私がこのようにたずねられることはなく、   『レブ・ズシュヤよ、なぜあなたはズシュヤのようでなかったのか?』   私がこのようにたずねられるでしょう。」  このページ先頭へ Reflection  明らかに、我々の各々は我々の生活の織機の中で正義の布を織るための努力を しなければならない。他の全てから離れて特別な生き物として我々各々作っている 唯一な方法で、所有や金もちの意味付けよりもずうっと偉大な意味付けを我々の 生活の各々に与えている方法で。 あなたの生命の価値を測るこのような方法は、あなたのユダヤ伝統の一部であり、 ユダヤ人が保持している価値の一部である。 我々の各々は、可能な最上の「わたし」にする努力をすべきである。 それこそが、ユダヤ人が生命の価値を測る方法なのである。

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