When a Jew seeks wisdom 講座#4

第6章「The value of awareness」

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第6章「The value of awareness : 気づくことの価値」

 人間の各々の内側には、光景、音、手ざわり、味、臭いの基本的な感覚
と同じような一つの感覚がある。そしてこれらの感覚のように、この内側の
感覚は練習し使うことによって発達し強化されることができる。
この内側の感覚は我々の宗教的な知覚(religious awareness)である。
それは、我々のまわりの世界の中で、神聖なものは何かを発見するための
我々の能力である。
それは、すでに存在しているところの中に可能であるものを見つけるための
我々の能力であり、さらに我々のために決定している法律や戒律を発見する
ことができない時ですら、取るべき正しい行動を感知するための我々の能力
である。


Religous awareness and Zusya

 おそらく、我々の宗教的な知覚がいかに働くかを理解するための最も
簡単な方法は、具体的な例を使うことである。

前の章で話をした、ハニポル(Hanipol) のレブ・ズシュヤ(Reb Zusya) 
という人物は、彼の生活の終わりに向かって盲目の病気にかかった。
さて、悲劇が我々をあるいは我々の親愛する人を打つ時はいつでも、
そしてそれが我々のそばにただやって来た時でさえ、自然と我々の
「Yetzer HaRa (邪悪の衝動)」の側に傾き始める。
その衝動は我々にさぐり針を入れ、こう質問する:

 神がこれを起こさせたのではないのか?
 いかにして人はそんなに多く苦しむことができるのか?
 なぜ神は苦しみを終わりにしないのか?

悲劇に打ち勝つことは非常な力を要する、しかしそれはまた我々に宗教的
な知覚の感覚を使うことを必要とする。
レブ・ズシュヤは、ただのろいだけがあるように見えるところに、
神の祝福を見つける、という困難な仕事を彼自身に割り付けた。
彼自身が「Yetzer HaRa 」の力に打ち勝つために、彼の宗教的な知覚
を使うことによって、彼はこの祈りをささげた:

「感謝します、主よ、私が内側の光を見えるように私を盲目になされた
 ことに対して。」

神が我々を盲目にすることに対して感謝することを我々に命じている法律は
存在しない。それがあるとしたらのろいであり、にがい法律であろう。
そして怒り、失望あるいは落胆を無しに、起こったところのことを何でも
受け入れなさい、と我々に要求している戒律は存在しない。

しかし我々の中にある宗教的な知覚は、我々が次のことが分かるように
助けている:

 生命は神聖なので、
 我々が「Yetzer Tov (善の衝動)」と「Yetzer HaRa (邪悪の衝動)」
 との間の我々のバランスを保たなくてはならない、我々は決して生きること、
 信頼することをやめてはならない。

レブ・ズシュヤが彼の宗教的な知覚あるいは宗教的な想像力を通して発見
したことは、盲目というのは心の盲目ほどは破壊的であるはずがない、
ということである。

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Using religous awareness

 我々の他の感覚と同じように、宗教的な知覚という内側の感覚は、もし
それが必要な時々に我々に奉仕することであるならば、絶えず使われてい
なければならない。
ここに物語がある:

 ある農夫が、白い軍馬に乗った王子を見るために、毎日同じ時間に
 彼の畑の境界のさくに立っていた。
 ある日、その美しい馬の上には王子ではなく、王子の家来の一人が
 乗っていたことに、その農夫は気がついた。
 「へい!」、農夫は呼んだ、
 「王子自身の白い馬に乗ることを、王子があなたに許したのですか?」
 「ばかな!」、その家来は答えた、「王子がいない時は、それでも
 なおその馬は訓練されなくてはならないのだ。」

 

その白い軍馬の真実であるところのものは、また我々の宗教的な知覚の真実
である。たとえこの特別な感覚に対する緊急な必要がないところでさえ、
それはなお訓練されなければならない、それが申し分のない状態に保たれて
いるかどうか。
ラビたちはこの必要を実感し、我々の宗教的な知覚をより敏感にするための
開発方法で助けた。これをするために、ラビたちは特別な時間をはっきりと
我々に示した、普段の中に神聖さを探すために。

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Awareness in time and space

 これの明確な一つの例は、「バル・ミツバ」あるいは「バット・ミツバ」
というセレモニーである。
ほとんど全ての文化や宗教はそんな種類のセレモニーを持っている、それは
若者、彼あるいは彼女が、その集団で個人的な責任を取り始める時に、
その若者の生活における時間に印をつけるためのセレモニーである。

普通、我々はこの時点を「coming of age (来たるべき年齢)」と呼ぶ、
そして我々のセレモニーはまさにそれである。
しかし「バル・ミツバ」あるいは「バット・ミツバ」は、あなたにいかにして
あなたの宗教的な知覚を使うようにさせているのか?

そのセレモニー自体が一つの答えである。
各々の人は、「バル・ミツバ」あるいは「バット・ミツバ」の日に、
彼あるいは彼女だけである、というたいへん特別な種類の注意を感じる。
それはその集団の注意であり、戒律に対する責任を人前で受けることを通して
得られる感動である。

   *   *   *

 祝日はまた、我々の宗教的な知覚が訓練される時である。
例えば、「Passover(過ぎ越しの祭り)」では、我々はこう言うように
命じられている:

 我々は祝う、わたしがエジプトから出たとき、主がわたしのために
 行なわれたことのゆえである。(出エジプト記 13:8 からの引用)

我々は普通、自分が見るように我々自身のことを考える --- この場所で、
そしてこの時、現在に。
しかし聖書は我々に、我々が生まれる前の我々自身を見ることを要求する --- 
数千年前に起こったことの一部として。
最初それは不思議に見える、しかし我々がそれについて考えるにつれて
それがより現実的で真実になる。
我々の宗教的な知覚は、一民族としての我々の世襲財産の一部である、そして
一民族としての我々の世襲財産は確かにエジプトの奴隷の時代、そして
それ以前にさえ、我々を連れ戻す。「Passover」は、時間を理解するという
神聖な方法を発見することに、我々の宗教的な知覚を我々に使う機会を与える。

   *   *   *

 それらの全ての中で最もきらきら光る例、それは「Sabbath(安息日)」が
輝いている。週に一度、我々ユダヤ人は時間の中に間隔を切って離し、それを
神聖なものにしている。
「Sabbath」無しでは、我々は毎日のことを永久に追いかけるという傾向がある:
日は過ぎまたやってくる終わりがなく。

我々の身体を休めるという目的のために「Sabbath」を離して設定することは、
王子の白馬のように、我々の宗教的な知覚が訓練されることができる神聖な時間を
準備する。我々は、過去の一週間が我々にとっていかに過ぎてきたかを知り、
そしてその次にやって来る週がどのようなものになるかを考えることができる。
我々が行なうことにおいて何が良く、そして役にたつことかを知り、我々がいかに
それを改善したら良いかを考えることができる。
我々は、価値が無いものを分類し、変化させるための方法を発見することができる。

ほとんど全て、「Sabbath」は我々に気たるべき世界の予想を準備する。
「Sabbath」には、我々のまわりに確かで安らかな物理的な感じを、平和で
やすらいだ世界の感覚を、創りだそうと努力するために我々の宗教的な知覚を使う。

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 coffee break

 本文に出てきた「バル・ミツバ」は、少年13歳の誕生日に行なう儀式で、
独立心、社会への責任ある参加の意識を高めます。
なお「バット・ミツバ」の方は、女性の地位が向上してから作られた習慣で、
少女12歳の誕生日に行なう儀式。

 日本の成人式に相当しますが、大きな違いが二つあります。
一つは、社会が大人とみなすその年齢。
もう一つは、国民の行事か、個人の行事かの違いです。

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Prayer and religious awareness

 我々の宗教的な知覚あるいは感度はまた祈りによってきらめく。
祈りは我々のまわりの世界について我々の感動を表現する方法である。
美、苦悶、愛、絶望、願望、そして恐れは全て、祈りあるいは祈りの
サービスの儀式を通して表現される。
ラビたちは、毎日百回の祝福を言うための十分ば理由を見つけるための
彼らの探索の中に、宗教的な知覚のための訓練を創りだした。

 その日一日を通して祈るための機会を探索することは、我々に絶えず
神聖さ、生命自身の神聖な性質を知ることを与える。各々の祝福の祈りは、
世界における神の位置を、我々に思いださせる助けとなる。
神がモーゼに言ってるように:

 あなたの前に、すべてのわたしの善い賜物を通らせる。
               (出エジプト記 33:19)

ラビたちは、祈りのための特別な時間を設定した。
朝、昼そして晩、これらの時間は、我々の目標を少し高くする好機を、
我々の宗教的な知覚を使う機会を提供する。

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Awareness in our deeds

 しかし祈る人にとって、特別な時間や他の好機はほとんどない、もし我々
の行動において我々の宗教的な知覚を使わないならば。
トーラの戒律を基本にして、我々はそれ自身を変えるという生活の道を構築
した --- あらゆる宗教的な行動が、宗教的な知覚をもう一つ他の宗教的な
行動に動かす、そんな生活の道。
一つの良い行為が、もう一つ他を目覚めさせて、それを引き出す。

 ユダヤ人として、我々はこう信じている:神の創造には目的があること、
我々の各々はその目的に努力することに参加していることを。
ラビたちが質問した:
我々は今日いかに告げることができるか?
我々は明日いかに重要になるであろうか?

 人はだれも自分自身を傷つけ、自分自身を滅ぼし、自分自身を殺す
 権利はない。誰もが自分自身を物理的に保護する義務に耐えている。
 彼は自分自身を弱めることはない、なぜならば彼の世界がいかに彼を
 必要な位置に立たせるであろうかを、彼は知っていないからである。
                 [ Horeb, Samuel Raphael Hirsh ]

加えて我々は、我々の宗教的な知覚の準備を維持する義務に耐えている、
それによって、主が我々を必要とするところのものを、我々が発見するように。

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Awareness and vison

 宗教的な知覚の使用の最も偉大な例が、聖書時代の預言者たちによって
準備された。
例えば、イザヤは幸運な時代に生きていた。主として、国々の間は平和な
時代であった。しかしイザヤは断固とした預言的な警告を主張した。
なぜならば、たくさんの中央に貧困がある、たとえば非常に肥えた金持ちが
ある一方で他の者たちは益々貧乏になってゆく、と彼はこう見たからである。
これはユダヤ人の夢ではない、彼は考えた:
ユダヤ人の夢は違った種類の豊かさであり、違った種類の平和である。
イザヤは彼の世代の人々にたずねた(イザヤ書 1:11)、
「(主への)あなたたちのささげる多くのいけにえが何になろうか?」
                        
神殿における犠牲のいけにえは、人が毎日の行動で犯す不正を埋め合わせる
ことはできない。

 主は言われる、
 お前たちのささげる多くのいけにえが、わたしにとって何になろうか。
 わたしは ...... 雄牛、小羊、雄山羊の血を喜ばない。.....
 悪い行いをわたしの目の前から取り除け。
 悪を行うことをやめ、
 善を行うことを学び、
 裁きをどこまでも実行して、.....
 さぁ来て、論じ合おうではないか、と主は言われる。(イザヤ書 1:11-18)

イザヤの宗教的な知覚は、こんな未来を予告した:

 狼は小羊と共に宿り、ひょうは子山羊と共に伏す。(イザヤ書 11:6)

 主の教え(法律)はシオンから、主の言葉はエレサレムから出る。......
 彼らはつるぎ(剣)を打ち直してすき(鋤)とし、
 やり(槍)を打ち直してかま(鎌)とする。
 国は国に向かって剣を上げず、
 もはや戦うことを学ばない。(イザヤ書 2:3-4)

イザヤは、彼の宗教的な知覚を別の他の世界あるいは死後の世界ではなく、
この世界に向けた、そして我々が努力すればできることに向けた。
神は剣を打ち直してすき(鋤)に変えないであろう、もし我々がそう変える
ことを望むならば、我々が打ち直さなければならない。
もし我々が全ての戦争を終わらせたいならば、我々が戦争を「学ぶ」こと
を止めなければならない。
もし我々が、共同社会から貧困と餓えを取り除きたいならば、我々が
「正義を探し」、そして「圧迫を解放」しなければならない。

それからまた、宗教的な知覚は我々の無感動に打ち勝つ助けとなる。
人間はこう言う傾向がある:
 「その仕事はわたし一人にとってあまりにも大き過ぎます、それで
  私はそれを行なおうとする試みですらいたしません。」

我々の宗教的な知覚はこれに打ち勝つ助けとなる。それは拍子をとって
我々を立たせ、こう言わせる:
 「私は助けることができる、たとえほんの少しであろうと。」

あなたは、あなた自身、もう親しくなったこの質問をするだろう:
 「もし私が、私の部分をやらないならば、
  いったい誰が私のためにするであろうか?」

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Utopia

 多くの人々は「ユートピア」、あらゆることにおいて完全な社会を夢
見てきた。
あるものたちはユートピアを造りだそうと試みしさえした、
これには全てのメンバーが従わなければならない、というたいへん厳しい
規則のもとで、小さな共同体社会を形成することによって。
これらの幾つかの共同体社会は成功した。
その最も成功したものでさえ、全ての人々の気性や性格には適合しない
ようであり、そしてその意味ではそれらは現実的に完全ではないのである。

 一つの試みのユートピアが失敗するときは、その社会の構造に障害がある
のではなく、それはユートピアを失敗させる、あるいは失敗を許すその社会
のメンバーにあるのだ、とラビたちは理解していた。
あらゆるメンバーが神のイメージの生活に近づくならば、我々自身の世界で
さえ完全に接近することができる。
我々の各々が小模型のユートピア、一つの完全な社会になることに働かな
ければならない、とラビたちは教えた。
そういう方法で、我々の全体の社会はより良くなるのである。

これはまた、預言者たちの先見、全ての宗教的な知覚の基礎となる先見で
あった。そんな先見は、何がより良い未来になるか、何が良い方向に現在
向かっているか、を洞察する能力を含んでいる。

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Being aware of the future

 さて今や、盲になることのズシア(Zusya) の反応が、我々の宗教的な知覚
をいかに使うかの良い例であるか、ということをあなたは理解できる。

ズシアはより良い未来に向けて方向を設定した。ズシアにとっては、
「Yetzer HaRa」を許すことは、つらい現実と荒涼とした明日を意味した。
惨めなことに不平を言い告げる回ることは、ズシアの以前の人生の仕事の全て
を滅ぼすことであったであろう、彼の生徒や隣人に彼の誠実さを質問する良い
理由を与えてしまうことで(不平や苦しみは普通の人にはあるのだが)。

悲劇の中にでさえ神の祝福を見つけることで、ズシアは普通の上に登って、
我々の全てを造られたその神のイメージに近づいた。
彼の宗教的な知覚を通して、ズシアは彼自身のための新しい未来を築いた。

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Reflection

 我々が未来において楽しむことを期待できる、そんな種類の花は、いつも
我々が今日に喜んで植えようとしている種(たね)の種類に従属している。
しかし未来のために植えることは知覚、先見の明、想像力を必要とする:
何が可能であるかを見分け、そして何が最善であるかに従って我々の行動を
方向付ける能力。
預言者たちはちょうどそんな先見の明を持っていた、そして目的とする方向へ
未来を見えるように我々人々を助けた。
彼らの先見は我々のゴールとなり、我々自身の宗教的な想像力をよりよく
理解する助けを続けている。

 しかし、もし我々の宗教的な想像力が我々にとって何かの使用することに
あるならば、我々はそれを毎日練磨しなければならない、あの王子の馬が、
いざ王子が使用のために訓練されなければならなかったと同じように。
我々の宗教的な知覚が十分に準備される時、
それは深い個人的な悲劇でさえも打ち勝つことに我々の助けとなり、
我々の「Yetzer HaRa」を、破壊的な方法でなく建設的な方法に使う道案内
として我々に奉仕することができる。

我々の宗教的な知覚を、我々の行動における道案内として使う時、
我々自身のために、そして我々を通して我々の共同社会のために、同様に、
より良い未来の種を我々が植えているのである。
ベン・ヘ・ヘ(Ben Hai Hai)がこう言っている:

 その仕事に応じて報いがある。(Avot 5:23)

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