When a Jew seeks wisdom 講座#5

第7章「The value of knowledge」

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第7章「The value of knowledge:知識の価値」

 我々の宗教的な知覚だけでは、我々の行動を案内するには十分ではない。
人々は時々宗教的な感情によって夢中にされることがある。
あなたは、人々がそんなことは宗教としてあるべきではない、と言うのを一度か
二度は聞いたことがあるかもしれない:彼らは言う、宗教が戦争を起こしていると。

本当に、それは戦争を起こす人々である。
しかし人々は戦争の言いわけの一つとして宗教を使う、何度もなんども。
一つの宗教的な戦争において、両方の側が、神が自分の方のみにあって敵の方には
いない、と真に信じている。
しかし歴史を学んで知っているどんな人にとっても、そんなことは有り得ないこと
が明らかである。
神は実際に両方の側にいる、ただ両方が神そして神の命令を忘れている。
両方の側が神の真の意味を忘れている、そして実際に彼らが良いことを破壊している
時に、良いことをしているのだと信じている。
それは宗教的な知覚の逃亡の場合である。


Gathering evidence

 この罠に落ちることを避けるために、我々が重大な行動を取る前に、注意深く
証拠を集めることを我々は学ばなければならない。
我々は、我々の宗教的な知覚の光の中で、我々の選択をしなければならないばかり
でなく、またその選択を理知的な選択にするよう我々は試みるべきである。
宗教の歴史において、選択(choice-making)をするための証拠を集める三つの
主要な方法が試みられた。
最も初期のもので、今日でもなお実行されているのが迷信(superstition)、
二番目の方法は固定した道徳のシステム(fixed Ethics)、
そして三番目の方法は勉強の過程(study)である。

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Superstition

 迷信は、おそらく証拠を集めの最も破壊的な方法であると立証されている。
これは、迷信が多くの場合に混乱した考えの結果であるからである。
それは普通、ある感じられるものとして出発する:

例えば、

工事現場のそばの人は、誰かがそのはしごの上で煉瓦を積んでいる時に、 はしごの下を通るべきではない。
なぜか?

なぜならば、彼は落ちてくる煉瓦で頭を打たれるかもしれないからだ!
それは工事現場では悪い規則ではない。
それは一般に悪い規則でもない。
はしごの上で、あなたの上方で誰かが仕事をしている時はいつでも、 その下を歩くことは避けるのが最善である。

しかし、はしごの下を歩く単なる「行動」があなたに不幸をもたらす、 と信じることはばかげている。
もちろん、これはいかに迷信が起こるかのかなり害のない例である。

 迷信はたいへん力をもつようになり、醜くそして卑劣になる可能性がある。
例えば、何百年間もカトリックの教会は、過ぎ越しの祭りの時期に、人々に
ユダヤ人たちを用心するように警告した。
彼らは、ユダヤ人がカトリックの子供たちを誘拐し、彼らを犠牲に捧げ、彼らの
血を使って「種なしのパン(matzah) 」を燒いている、と主張した。
そんな話を信じるのはほんの単純な人々である、とあなたは考えるかもしれない、
しかし今世紀でさえロシアのあるユダヤ人が「血の侮辱罪(blood libel) 」で
告発され、この証拠のない罪に法廷で審議した。
実際に、この特別なケースを離れて、その陪審員の各々が断言した:
ユダヤ人たちは本当にこれをする、と「信じた」。

このケースにおいては、暗い時代 (Dark Ages) から残されたそんな迷信が、この
近代に「事実」としてまだ考えられていることに対して、すべて立腹させたれた
世界広く知識階層の男や女によって、抗議の手紙が書かれた。
最終的に、この被告のユダヤ人は無罪と判決された --- その陪審が「血の侮辱罪」
の考えを見捨てたのではなく、少しも実在の証拠がなかったからである。

   *   *   *

 迷信が証拠を集める手段としていかに働くであろうか?
それはたいへん「科学的」に働くことに値する。
しかし迷信はしばしばその悪い原因を持った効果につながる。
あなたが以前に学校を一度も見たことがなかったとして、ある日大きな学校の
建物の外の隅に立って、何が起こるかをながめているとしよう。

 朝、人々が外に集まってくる、
 ベルが鳴る、人々は学校の中に移動して静まる。
 一日中、ベルが鳴った時には、人々が騒がしく移動し、その後には静まる。
 その日の終わりに、ベルが鳴り、そして人々は学校を離れる。

さて、もしあなたが迷信深ければ、見事にこんな結論をするかもしれない:
ベルがまさに人々を動かしている原因である!
そのベルの神が人々の行動を支配している、そして「学校」はその命令で動く
ことによって、人々が一つのベルを礼拝する場所である。

迷信は、たいへん美しい信念と同様に、たいへん醜い信念を引き起こしてきている。
美しい信念は我々が「神話」と呼んでいるものであり、そして幾つかの神話は、
たいへん現実の人間の真実を含んでいるとても感動する物語である。
他の神話は、そんなに称賛に値するものでなく、虐待や偏見を反映しもたらす。
「血の侮辱罪 」や魔女狩りは、いかに行動するかを判断するための基礎として、
なぜ我々が迷信を信頼すべきではないかを見せている。

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Fixed Ethics

 証拠を集めるもっとずっと良いシステムは、固定した道徳、ほとんどの部分が
変わっていない、あるいはたいへん変えるのが困難である法律、に頼ることである。
固定した道徳によって生きている人は、それを記憶し、そして毎日毎日それに従う、
おそらく考えることなしに。
固定した道徳の一つの良いシステムはアメリカ合衆国の法律である。
古代ローマの法律もまた固定した道徳の一つのシステムであった。

宗教や哲学の中で、最も有名な固定した道徳のシステムは、偉大な中国の哲学者
そして先生であった孔子(Confucius 551-479 B.C.E.)の道徳である。
ここに、孔子の偉業で記録されている幾つかの道徳的な道義がある、
論語(Analects):

 先生は言った、
 「一風変わった教義で働くことは害となる」(Analects 3:16)

 先生は言った、
 「優しい人間は何が正しいことかを考える、
  下品な人間は何が利益があるかを考える」(Analects 4:16)


 メンギ・イ(Meng Yi)は息子の義務を質問した。
 先生は言った、
 「従属」
 ファン・チイ(Fan Chi'ih)が彼を車に乗せていた時に、
 先生は言った、
 「メンギ・イが息子の義務を私に質問した。私は従属であると答えた。」
 ファン・チイは言った、
 「それは何の意味があったのですか?」
 先生は言った、
 「我々の両親が生きている間は彼らに奉仕しなさい、彼らが死んだ時はすべて
  礼儀正しく埋葬しなさい、そしてすべて礼儀正しく彼らを礼拝しなさい。」
                           (Analects 3:5)

 先生は釣りをした、しかし網を使って魚を捕獲したのではない。
 先生は射った、しかしbirds sitting ではなかった。(Analects 7:26)

 先生は言った、「勉強しなさい、時間があたかも短いかのように、
 失うのを恐れる人のように。」(Analects 8:17)

 孔子は言った、
 「最善の人たちは賢く生まれてくる。
  次に、学ぶことによって賢くなる人々が来る。
  それから、学んだ、狭い心の人々が。
  学ばない狭い心の人々は、これら人々の中で最も低い。」(Analects 16:9)

孔子の思想の幾つかは、我々が Judaism の中で見つけることができる幾つかと
非常によく似ている、とあなたは見るにちがいない。
我々は孔子が教えているほどは我々の先祖を崇拝しないけれど、我々は彼らを
尊敬し、そして十戒の一つとして我々の両親を尊敬している。

 ローマの法律あるいは孔子の道義のような固定した道徳のシステムは良いことに
なり得る。それはまた邪悪にもなり得る。
なぜならばそれは人に対して質問する心を許していないからである。
それは心の広さと変化を許していない。
それはリーダに盲目的に従い、考えなしに権威に服従するという習慣に容易に導く。

そんなケースがヒットラーやドイツナチスであった、Jewish とクリスチャンの
道徳の両方の全てが倒されて、「良くなるはずだ」という邪悪のシステムがそれに
代わって公式に樹立された。
戦争の後、数えきれないドイツの軍人や働いていた人たちが、温和に公言した:
隣人に対して犯罪を犯した時、ただ「命令に従った」のだ。
もし彼らが広い心で考え選択する訓練をしてきていたならば、彼らは盲目の服従
というこの罠に落ちることは困難であると、発見できたであろう。

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Judaism and ethics

 固定した道徳と迷信はそれ自身に必然的な邪悪があるのではない、しかし
それらは容易に力で邪悪を贈る。これら二つの証拠を集めるシステムの問題は
同じである、それらは広い心を維持するための学ぶ人を要求していない。
迷信は恐れの上に休まり、
そして固定した道徳はしばしば偏見の上に非常に重く頼る 
--- つまり、全ての事実がある以前に判決している。

Judaismは、判断を形成するために、証拠を集めるすべての三つの方法を使う 
--- そのうちの二つはすでに議論した迷信と固定した道徳、同様に勉強。
自然に、迷信は最も少なく使われる。
それは最も少ない信頼性であり、そして最も容易に誤る。
ここに、アボットからの事実集めの迷信の例がある:

 4つの時期に疫病が流行する:
 第4年目の年に、第7年目の年に、第7年目の年の結末の時に、年ごとの
 神殿の祭りの最後の時に。

 第4年、これは3年目にくる貧しい人々のための慈善(十分の一税)に
 正しい量を与えない人々がいるからである。
 第7年、これは6年目にくる貧しい人々のための慈善(十分の一税)に
 正しい量を与えない人々がいるからである。
 第7年目の終わり、これは第7年目の産物を納める法律に従わない人々が
 いるからである。
 年ごとの祭りの終わりに、これは貧しい人々に与えられる分を強奪する人々
 がいるからである。  [Avot 5:9]

貧しい人を傷つけることが、全体として共同社会に邪悪と疫病をもたらす、
というこの信念に我々は楽しくて笑ってしまうかもしれない、
そしてその有罪として無実の苦しみを与えるほど神はそんなに残酷ではないであろう、
と我々は信じるかもしれない。

しかし、ある点では、その背景の理由を理解することができる、
それはちょうど先生がクラス全体に罰を与えた時の瞬間を理解できるように 
--- たとえば、学校の後に彼らを10分間留めることによって --- 
それは一人か二人のクラスのメンバーが授業を分裂させたためである。
ある点では、クラス全体が責任が「ある」。

同じ種類の理由を使って、貧しい人を助ける重荷の公平な分担に耐えない人々
に対して、神が全体の共同社会の責任を保持している、とラビたちは信じた。
なお、このような迷信は実際のデータに基づいた信念ほどに信頼はできない。
それは、重要な問題に関して、真に理知的な決断を作る方法に向かわせる。
それで Judaism は、もはやどの重要な程度においても迷信に頼ることはない。

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Judaism and fixed ethics

 同様に、我々を導くために、我々は固定した道徳に頼ることはない。
ユダヤ人として我々は、体系化された道徳は全ての人々に正しくなり得る、
となおも信じている一方で、各々の人の宗教的な知覚に偉大な価値を置いている。
それで我々は、ガイドラインを準備する固定した道徳のシステムを持っている。

これら道徳の最も有名なものは十戒である、これは一般に受け入れられているので、
西側の世界で法律の真に道徳的なシステムの基礎となっている。
この戒律の各々は、また、ユダヤ人の価値の全体システムによって支えられている。

 例えば、「殺人をするな」は、その短い強要するメッセージの中に、ユダヤ人の
考えと信念を多量に含む一つの戒律である。その中には、我々の各々は土や泥以上
のものである、各人は神聖である、というユダヤ人の考えがある。
この戒律の基礎にあるものは、生命そのものは神聖であり、生命は偶然によって
造られたのではない、ということを支持しているユダヤ人の価値である。
殺人するな、というこの戒律は、そのメンバーのたった一人を殺すことから、
その共同社会の破壊が結果として起こる、と事実上言っている。
それは我々に、各々の人は唯一であり、彼自身の上に一つの世界がある、
ということを思い起こす。
「殺人をするな」は、固定した道徳であると考えられる:
人は、殺人を犯した人を殺すこと、さえ許されてはいない。

 7年に一回、一人を死刑にしたサンヘドリン(裁判所)は、破壊的であると
 呼ばれた。
 ラビ・エリエゼル・ベン・アザリア( Rabbi Eleazar ben Azariah) は言った、
 70年に一回。
 ラビ・タルファン(Rabbi Tarphon) とラビ・アキバ(Rabbi Akiba) は言った、
 もし我々がサンヘドリンのメンバーであったならば、決して人を死刑には
 しなかったであろう。  [ Makkot 1:10 ]

もしあなたの前に人が立ってあなたを殺そうとしている場合に限って、あなたは
殺すことを許される、そしてその時あなたを殺すその人の殺意をあなたは確信して
いなければならない。あなたが確信し、そして他に方法がないと分かった時は、
あなたが先に打たねければならない!

「殺人をするな」という戒律は、絶対的で不変であると考えられている三つの
うちの一つである。
他の二つは、姦通の禁止、偶像崇拝の禁止。
これらは Judaism の中にある「固定した道徳」であると考えられる。
しかし、我々がちょうど注意したように、
他人を殺すことが許される一つの環境がある。
それゆえに、 Judaismは固定した道徳にそれだけに頼ることはせず、
またそれを第一の主要なもしていない、そのことをあなたは見ることができる。

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 coffee break

「十戒」について、出エジプト記の第20章からの引用です。

 20:3  わたしをおいてほかに神があってはならない.
 20:4  いなかる像も造ってはならない.(偶像崇拝の禁止)
 20:7  神の名をみだりに唱えてはならない.
 20:8  安息日を心にとめ、これを聖別せよ.
 20:12 あなたの父母を敬え.
 20:13 殺してはならない.
 20:14 姦淫してはならない.
 20:15 盗んではならない.
 20:16 隣人に関して偽証してはならない.
 20:17 隣人のものを欲っしてはならない.

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Judaism and study

 ラビたちは三番目の方法を提出した、それはすべて三つの方法を含むと
彼らが考えているもの:勉強。

 ベン・ゾーマ(Ben Zoma)は言った、
 「誰が賢いか? 全ての人から学ぶ人である。すなわち、
  わたしに教えた全ての先生から、わたしは理解する人になったのだ。」
                            [ Avot 4:1 ]

「全てから学ぶ」というのはユダヤ人の価値である。
ラビたちはしばしば、いかに単純な人々が行動で賢い教えをしたか、
という物語を話した。

ラビ・ヨシュア(Rabbi Joshua)は昔、畑を通っている近道を見た時 その側の道を歩いていた。
その近道は他の旅人たちによって踏みならされた一つの小さな道であった。
彼がその畑を横切る道に入り始めた、しかし道の中央で彼は少女に会った。
「あなたはどこに行うと考えているのですか?」、と少女は言った。
「わたしはこの畑を横切って向こう側に行くのです」、と彼は答えた。
「これはわたしの父の畑です」、と彼女は彼に言った。
ラビは言った、
「わたしはすでに出来ている一本の道に従っているだけです。」
「そうです」、少女は言った、
「しかしその道は、作物をすでに害させてきたあなたのような他の人々 によって、作らてたのです。あなたは、彼らの足跡に従って、 邪悪をしようとするのですか?」  [ Erubin 53b ]

 少女がラビ・ヨシュア・ベン・ハナニア(Rabbi Joshua ben Hananiah)に
教訓を教えたのに驚かされるばなりでなく、この物語がずっと記録され
我々に引き継いでいる!、このことに驚かされる。
言い換えれば、ラビたちは我々に二つのことを見せるために、
この物語を勉強させたかった:
(1)人は他人に従って邪悪なことをすべきではない。
(2)人は(最も偉大なラビですら)誰からでも学ぶことができる。
ユダヤ人の勉強の目的は、もちろん、実行である 
--- ユダヤ人的に選択する芸術の中で。

 ラビ・イシマエル(Rabbi Ishmael)は言った、
 教えるために学ぶ者には、
 天が彼に学ぶためと教えるための機会を許可するであろう。
 しかし実行するために学ぶ者には、
 天が彼に学ぶためと教えるためと、そして観察し実行するための機会を
 許可するであろう。 [ Avot 4:6 ]

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Having a preference

 Judaism は、我々が勉強を「すべき」であると教えているのであって、
それは我々が勉強しなければ「ならない」という意味ではない、
とあなたは議論できよう。それは真である。
他方で、選択することの部分は好みを持っている。
あなたには好みの色があり、好みのアイスクリーム、週の中で好きな日、
好みの先生、などなど。
そんな好みは、あなたが判断する時に、あなたを助ける。
毎日の選択の問題の多くは、あなたがすでに好みを持っている時に、
解かれる。

ユダヤ人として、我々は伝統的にそして不変に勉強のための好みを表現して
きている。----
勉強が、全ての証拠を集め、迷信や固定した道徳を取り除く、いかにそんな
我々の助けとなるかを理解することは簡単である。
おそらく、勉強が恐れを取り除く我々の助けとなることが可能である、
と理解することはもっと難しい。

ユダヤ人として我々にとって、勉強は全世界とその楽しみへの鍵のような
ものである。
あなたが読み書きを学んだ時に、あなたに開かれた世界を思い出してみなさい。
文字が、はるか遠い人をあなたに接近させる。
読書が見たこともない世界をあなたにもって来る。
百人の作家の想像力があなたの想像力に会う、
あなたを悲しませたり驚かせたりする、
あなたに楽しみを作り、あなたに深く考えさせる。

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The Jewish preference

 ラビたちは最も力強い言葉で彼らの勉強のための好みを述べた。
良い生活を営むために勉強がいかに重要であるか、これを彼らの生徒たちに
分かって欲しかった。
ラビたちにとって、創造の偉大な神秘を解明するための機会を勉強が準備した。
そしてこのように勉強は各々そして全てのユダヤ人の義務となっていた。
ラビ・ヨナ(Rabbi Jonah)は言った:

 少しも勉強しなかった者は動物のようである、なぜならば彼はトーラを
 学び勉強する目的のために一人として創造されたからである、
 その方法は楽しい方法である。
 さて、もし人が少しも勉強しないで、そしてそんな邪悪に固執するならば
 彼は一日でさえ、一時間でさえ、生きる価値はない。   [ Commrntary ]

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No excuse

 人は言い訳を持っていない、ラビたちは我々に教えた --- あなたは
勉強しなければならない。あなたが金持ちであろうが貧乏人であろうが、
そして若者であろうが老人であろうが。

 一人の貧乏人と一人の金持ちがほぼ同じ時間に死んだ、
 そして天の法廷の前に現われた。
 貧乏人は質問された、
 「なぜあなたは勉強する時間をもっと使わなかったのか?」
 彼は答えた、
 「わたしは非常に貧乏であった、そしてわたしの身体を維持するのに
  さえ十分な稼ぎがないことを心配であったのです。」
 その時、法廷はヒレルを指差した。

 なぜならば、ヒレルは毎日の仕事でローマ金銭のたった半ディナリを稼だ。
 さらに彼はその半分のみで自分の生計を立て、残り半分を学問の家にいる
 門番に渡した。彼は入場料を支払った後で、学問の家に入って、賢人で
 あるシャマヤ(Shemayah)とアブタリオン(Avtalion)の言葉を聞いた
 ものであった。
 ある日、彼は少しも仕事を見つけられなかった、そして門番は彼に料金を
 支払わないで学問の家に入ることを拒んだ。
 それでヒレルは、その日のレッスンを聞くために、屋根の上に登って光とり
 の窓の外に座った。
 さてこの日はたまたま真冬の安息日の前夜で雪が重く降りてきた。
 その次の朝、シャマヤはアブタリオンに言った、
 「友よ、いつもは部屋が明るいのに、しかし今日は暗いね。
  おそらく雲っているのかな?」
 しかし彼らが見上げると、光とりの窓に一人の男の影を見た。
 ただちに彼らは出てゆき、屋根の上で凍ってほとんど死んでいるヒレルを
 発見した。
 彼らはヒレルをマッサージして乾かし、そして暖炉に火をくべて言った、
 「この人は安息日の規則を破っても彼の命を救うことに値する。」

 伝説は我々に教えている、それ以来ヒレルは料金を支払うことなしに学問の
 家に入ることが許された。  [ Yoma 35b ]


しかし金持ちの男についてはどうなのか?


 金持ちは質問された、
 「なぜあなたは勉強する時間をもっと使わなかったのか?」 
 彼は答えた、
 「わたしはわたしの全ての所有物と財産について心配であった、そして
  その全てを世話するのにわたしの時間を使ったのです」
 その時、法廷は言った、
 「あなたはエリアザル、彼の父は千の町と千の船の艦隊を彼に約束した、
  以上の富豪であったのか?」
 なおも毎日、彼は小麦粉の袋を肩にかついで、トーラを勉強するために、
 町から町に、地方から地方に行った。
 彼のレッスンの支払として小麦粉を使い、彼に教えてくれる人から学んだ。
                         [ Yoma 35b ]
 
金持ちであろうが貧乏人であろうが、あらゆるユダヤ人は勉強することを
要求される。若者であろうが老人であろうが同じく勉強しなければならない。

 ラビ・アキバは言っている:
 もしあなたが若いときにトーラを勉強したならば、
 老人になってもトーラを勉強しなさい。
 こう言ってはいけない、「わたしは老人になったらトーラを勉強しない」、
 なぜならば、あなたが若者をより良く理解するかどうか、
 あるいは老人をより良く理解するかどうか、
 あなたは知らないからである。  [ Avot de Rabbi Natan 3 ]

アキバ自身は、彼が40才まではトーラを勉強し始めなかった!

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Reflection

 宗教的な知覚だけでは十分ではない。
宗教的な知覚は、我々がそうなって欲しい世界を我々に見せてくれるが、
しかしそれは我々が直面する当面の問題に答えを与えてはくれない。
これらの答えは証拠を集めることを要求する。

宗教の歴史において、いかに行動するかの理知的な判断をするために、
我々が必要とする事実を見つけて集めるために、
三つの主要なシステムが使われてきている。

最初のシステムである迷信は、恐れの上のとても重い信頼を置いている。
そしてある嘘が誤っていると証明された後に長く、人々にその嘘を信じること
を許すという醜い能力を持っている。

二番目のシステムである固定した道徳は、幾分か良くなっている。
それはしばしばそれに従う人々の良いことのために使われる、
しかしそれは極端に使われる時に害となり得る。
なぜならば、それは個人に彼自身が考え、オープンにそして正直に考え、
そして疑うことを要求しないからである。

三番目のシステムは勉強である。
Judaism は三つの全てのシステムを使う。
ユダヤ人は若者あるいは老人、金持ちあるいは貧乏人であろうが、
勉強は心を開きそして自由に選択することを彼に許す。
勉強は我々が必要とする証拠を集めるための、
そして従うべき正しい量の固定した道徳を見つけるための、
そして迷信から真実を分類して選ぶための、優れた手段である。

あなた自身の勉強は、あなたを成長させ、建設的な方法を発展させる
のに役立つ。
それは、あなたの世界にそしてあなたが接触する全ての人々の世界に、
利益があるであろうところの選択をあなたにさせることを助ける。
特に、
あなたが追求したい職業の種類を、
あなたが作りたい友達の種類を、
あなたが生活したい共同社会の種類を、
あなたの子供のために、あるいはあなたの子供の子供のために、
あなたが望む世界の種類を、
あなたが選択する時に、勉強はあなたに理知的な選択をするのに助けとなり得る。

一緒になって、勉強と宗教的な知覚は、あなたがどんな種類の人になるか、
あなたが全ての人類にいかに利益があるか、を見つけるためにあなたに助けとなる。
ただ勉強を通してのみ、神のイメージの中で成長することは何を意味するのか、
これを人は学ぶことができる。

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