When a Jew seeks wisdom 講座#7

第9章「The value of courage」

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    第9章「The value of courage:勇気の価値」

     我々が学んできた価値(value)の幾つかを一緒に置くならば、それらは
    我々を一つの興味深い質問に導く。
     我々の各々は神のイメージで創造されている、
     我々の各々の中に、利己主義に向かった我々の衝動「Yetzer Hara」と
     神聖に向かった我々の衝動「Yetzer Tov」との間に葛藤がある、
     我々の各々は自由な意思を与えられている
    このように、我々は教えられている。
     Judaismは、宗教的な知覚を発展させ、
     そして勉強を通して証拠を集める訓練をする助けとなる
    このことを、我々は知っている。
    
    それでは、なぜ我々は完全であることを要求されていないのか?
    
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    The Nazirite
    
     聖書の時代に、いつの時代も同様だが、精神の完全の中に生きることを欲した
    人々がいた......これらの人々は、
    神に、そして神のイメージに近づくために、彼ら自身の中にある動物の性質、
    獣的なものに打ち勝つことを欲した。
    これらの人々は、Nazirites (ナジル人)と呼ばれた。
    
    彼らは、ワインを飲まないこと、いかなる死体にも触れるのを避けること、
    彼らの髪の毛を切らないことを誓った。
    ラビたちは、Nazirites のやり方を良いと認めなかったけれども、
    神へ自己を捧げるこの形は、トーラが書かれる以前ですら存在したに違いない、
    そして時代が過ぎるごとに流行してきた。
    
     神殿が滅びた時に、ワインを飲まずに肉を食べない多く(のNazirites)が増加した。
     Rabbi Joshua は彼らのところに言って尋ねた。
     彼らは言った、
     「神殿が滅びたというのに、いかにして肉を食べることが出来ようか?
      神への捧げを通して肉を聖なるものにしたのが神殿であった。
      そして、ワインが神殿の儀式の一部であると知っているのに、
      いかにしてワインを飲むことが出来ようか?」
     Rabbi Joshua は答えた、
     「それならば、神殿での食事がもはや献じられないと知っているのに、
      いかにしてあなた方はパンを食べることが出来きるのですか?」
     彼らは言った、
     「おそらく果物で生きるでしょう。」
     Rabbi Joshua は答えた、
     「それならば、(Shavuot の時期に)最初の果物がもはや神殿に献じられないと
      知っているのに、いかにしてあなた方は果物を食べることが出来きるのですか?」
     彼らは答えた、
     「おそらく神殿の儀式で使われなかった果物を食べることが出来る。」
     Rabbi Joshua はその時に言った、
     「それならば、水が神殿の儀式の一部として使われたと知っている故に、
      あなた方は水なして食べることになろう。」
     その時彼らは黙ってしまった。
    
     しかし Rabbi Joshua は加えて言った、
     「(神殿が実際に滅びてしまった故に)我々にとって、少しも嘆き悲しまない
      ということは不可能です。
      しかし我々にとって、必要以上に嘆き悲しむこともまた可能ではない。
      共同体の大多数が永続することができない共同体を置くことは、宗教的な義務
      ではないのです。」
                         [ Baba Batra 60b ]
    
    Rabbi Joshua の議論から、ラビたちは Nazirites の極端な誓に好意的ではなかった
    ことを、我々は知ることができる。
    
     現実のバランスされた観点で Nazirites が達成するのを助けるために、
    トーラは Nazirites の誓に対して境界線を設けた。
    
    
    その一つに、(Nazirites が他に言わなかったならば)
    誓の時間的な制限が30日と設定された。
    30日の最後に(あるいはより長い誓の最後に)、
    Nazirites は神殿に4つの犠牲を持ってこなければならなかった、
    それは
    「罪の犠牲に対するきずのない初子の雌羊(民数記6:14)」を含む。
    その時に、神殿の中にその目的のために作られた特別の部屋で、
    Nazirites は、彼の誓を守るしるしであったところの髪の毛を切った。
    
    神聖になることを誓い、Nazirite として彼自身を奉献することを
    誓った人が、なぜ「罪の犠牲」を持ってこなければいけなかったのか?
    Nazirite は「主への神聖(民数記6:8)」になると誓うことを通して、
    いったい何の罪を犯したというのか?
    
     Rabbi Eleazar HaKappar Berebi は言った:
     Nazirite の罪は何の精神に対してか?
     それは、ワインの楽しみを彼自身で拒否しただけのことを意味する。
     さて、もしワインの楽しみだけを彼自身で拒否することが罪人である
     ならば、
     生活の楽しみを全て彼自身で拒否する人はさらに大きな罪人である。 
                        [ Taanit 11a-b ]
    

     このページ先頭へ The Holy One is within you  ラビの議論はこういう点に行き着く: 人は世界の楽しみを自分自身で拒否すべきではない、なぜならば我々の各々の中に 主のきらめきがある。 ホセア書にこう書かれているように、 「聖なるものがあなたの中にある。(ホセア書11:9)」 それで我々自身で楽しみを拒否することは、同様に神への楽しみを拒否すること になる。  我々自身の完全さを要求する極端を避けるために、もう一つの理由がある。 聖書の物語において、ユダヤ人の英雄たちは生活に真実を鳴らしている、 なぜならば彼らは実際の人間として描かれている。 すなわち、彼らの各々は良いことをするだけではなく、彼らの生活で例外的に、 彼らが犯した罪も示されている。 我々は、モーゼは真の人であったと我々は知っているゆえに、神と話したモーゼの 現実を信じている、なぜならば全ての人間が罪を犯すと同様に彼が罪を犯したと 示されているから。 我々は、ダビデ王の真実を信じている、なぜならば一人の王が、彼の権力を誤って 使うことを通して、いかに罪を犯すことができるか我々は理解しているから。 ダビデ王の物語は、もしそれが完全な人間の物語であったならば、実際に空虚なもの であったろう!  しかし我々の罪ですら、もし我々が、現実の世界で理解しに行くに十分に勇気を 出すならば、我々が神聖になることができる、ということを証明している。  このページ先頭へ Side-stepping reality  Nazirites の現実の罪は、彼らの時代の現実の問題の理解しに行くことを見捨て、 現実を避けて歩んだことであった。 ラビたちは、彼らの誓いの期間を何度もなんども繰り返さないように、彼らに警告した。 なぜならば彼らは、彼らの事業と家族を無視するという結果として、すぐに慈善の対象 になってしまったからである。 ラビたちが指摘した真の勇気は、毎日の世界の中における行動と、そして生活すること の毎日の現実と、生活の外部の現実との間のバランスを要求している。 ある内部の世界に閉じこもって生活することを試みることによって、現実を避けて歩む ことは、あなたが現実を恐れていること、あなた自身を恐れていること、を論証して いるにすぎない。 対照的に、ラビたちは世界の中で行動することを我々に命じているトーラを指摘した:  わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、  遠く及ばぬものでもない。  それは天にあるものではないから、  「誰かが天に昇り、私たちのためにそれを取ってきて聞かせてくれれば、  それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。  海のかなたにあるものではないから、  「誰かが海を渡り、私たちのためにそれを取ってきて聞かせてくれれば、  それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。  言葉はあなたの近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、  あなたはそれを行うことができる。                    (申命記 30:11-15)  このページ先頭へ Avoiding personal responsibilities  行うことで最も簡単な事の一つは、我々のために他の人々に判断させることである。 意見を形成するために最も簡単な事は、ニュース解説者に耳を傾け、彼が考えていそう な事を考えることである。 あなた自身が考えることはもっとずっと難しい。 それはあなたが知覚することであり、あなた自身が証拠を集めるためにあなたの能力を 使うことを意味する。  ラビの時代には、一人の人が従うための最も簡単なコースは、他の人の奴隷になる ことであった。 当時は奴隷生活は一般的な習慣であった、特に借金を支払うために。 ユダヤの奴隷は、聖書の法律に従って、6年の期間を奉仕し7年目には解放された。 しかし、もし奴隷が6年の期間の最後に、奴隷生活を続けたいと要求した場合、 つまり彼の主人を愛していると主張し、 自分自身の生活の道への責任を受け入れる代わりに主人の生活の道に従いたいと 主張した場合には、 その時、トーラは次のような儀式を規定している:  その奴隷は戸口のところに連れて行かれ、鎚ときりで彼の耳たぶに穴を開けられる。                            (申命記15:17) 彼はその時、「耳に穴があいた奴隷」と呼ばれ、ヨベル年(Jubilee)になるまで 主人に奉仕しなければならない。 このことは今日の我々には奇妙に聞こえる。 なぜ人が奴隷はなりたがるのか? しかし我々の疑問は実際に近代の疑問である。 古代イスラエルの奴隷生活、特にヘブライ人の奴隷は悪い習慣ではなかった。 タルムードはこう説明している:  主人が白いパンを食べて奴隷が粗悪なパンを食べる、ことはすべきでない  主人が古いワインを飲み奴隷が新しいワインを飲む、ことはすべきでない  主人が羽のベッドで寝て奴隷がわらのベッドで寝る、ことはすべきでない                          [ Kiddushin 20a] 近代の言葉では、 もしあなたが主人であって白黒TVとカラーTVの二台のTVを所有していたとすれば、 奴隷はカラーTVを与えられるべきであって、あなたは白黒TVを見るべきである。 ここでタルムードはこう言う:  ヘブライ人の奴隷を獲得する者(主人)はだれでも、彼(主人)自身の  ためのもう一人の主人(奴隷)を獲得することになる。                          [ Kiddushin 20a]  このページ先頭へ Discouraging the choice of slavery ラビたちは信じていた: 人は自分に対して責任を持つべきであり、各人は現実に大胆に 立ち向かう義務を持つべきである。 奴隷のままでいることを選択することは、この責任に大胆に立ち 向かっている方法ではない、そのことを避けて横に歩く方法である。 「耳に穴があいた奴隷」は彼自身に勇気を欠いた人間であった。 しかし人の耳たぶに穴を開ける奇妙な習慣は何の意味があるのか。 これは野蛮ではないのか。トーラは我々に、我々の体のどんな ところにもマークをつけないように命じているではないか。 ラビ・ヨハナン・ベン・ザカイ(Rabbi Yohanan ben Zakkai)は 我々に次のことを思い起こさせる戒律を説明した:  自由の掟がシナイ山で我々に与えられた時、  それを聞いて憶えた責任は耳にあったのだ。[ Exampla 277 ]

    耳たぶに穴を開ける習慣、その時、自己責任を避けようと望む人々の勇気を失わせる意図 があった。これは、この責任を逃れる人のようにマークされるかされないか、 それをいつでも決定することを奴隷に強いた。 (ハンマーときりで耳たぶに穴を開けることで受ける痛さの考えが勇気を失わせるであろう) 奴隷は物理的に「耳に穴があいた奴隷」としてマークされるようになった、 これは彼の魂の上にすでにマークされていたのと同様に。 ハンマーときりで主人は奴隷を束縛する真の音を伝えた----忘れられている鎖の音であり、 精神の奴隷を意味するベルの音である。 奴隷のままでいることを選択した人「耳に穴があいた奴隷」の耳に、その連打がエコーを 長くするであろう。  このページ先頭へ Winning freedom  我々は、我々の自由を保護しなければならない: 奴隷生活や圧制を拒絶することによって、それだけではなく、また前向きな行動を 通し責任を取ることによって。 我々の生活では顔と顔を合わせなければならない。 Mordecai Kaplan (1881〜)、ジュダイズムの復興の創始者、はこのように観察した: 「自由の生活、自己のルールで生きることは、他人のルールに従うよりもずっと難しい ことである。」(Basic Values in Jewish Religion) これはまたアブラハムの教えでもある: アブラハムは、彼自身の生まれ故郷から、彼の知っている人々から、彼の両親の家から 離れた。 それは神により接近するために、 そして彼自身の生活の道に対して責任ある自由のために。  このページ先頭へ Guarding freedom  我々のまわりの全ては 「マーケットプレス」であり、そして「マーケットプレス」の価値である。 これらの価値は、 テレビジョン、ラジオ、映画、広告、マガジン、新聞そして本、などの一部である。 時々それらは、隣人、友達に対する我々の気持ちの一部である。 しばしばそれらは、我々の組織化されたグループの一部である。 「マーケットプレス」の価値は今日我々を危険にしている。 我々は別の人の奴隷になっているようにはみえないが、 しかし現代式の「マーケットプレス」の価値への奴隷になる大きな傾向がある。  このページ先頭へ The values of the marketplace  我々は皆これらの危険を知っている。 もしあなたがとても多くテレビジョンを見るならば、 あなたはこう信じ始める: 生活の本当の重要な価値は、 いつも清潔で、いつも幸福で、いつも笑っていることなのだと。 それはスタジオの聴衆が笑う時、 あるいはサウンドトラックの缶詰の笑いが現われる時、 そしていつも楽しまされる時に。 あなたはこう考え始めるかもしれない: 本当に重要な決定は、 バケーションにはどこに行くか、 何のレコードを聞こうか、 上等な家具あるいは洗濯の洗剤をどのブランドにするか、 あなたのお金をどの銀行に置くか、 そして全ての中で最も緊急なこと、すなわちどのチャンネルに合わせようか、 に関することなのだと。

    我々の幾分かは「マーケットプレス」のこれらの価値に大きく巻き込まれて しまっているので、テレビジョンの一つの番組が終了して我々が次の番組についての チャンネルの選択に直面した時、いつでももう一つの可能な選択があるということを 我々は十分理解していない。 それはテレビジョンを全部消してしまうかどうかという選択である。 テレビジョンは、ここでの我々の議論に対する、よい例を準備している。 なぜならば、幾つかの家庭ではテレビジョンは一日に12時間以上も定常的につけら れいる、ということが大変広く受け入れられているからである。  電話は通常「マーケットプレス」の価値に巻き込まれている。 我々は電話のベルが鳴った時に、その電話に答えることにたいそう慣らされてしまっ ているので、我々は奴隷のようにそれに従っている。 電話のベルは多かれ少なかれ我々に答えるように命じている、我々はそれに走って さえ行くかもしれない。 しかし我々がいかに奴隷的であるかよく考えてみなさい: もしあなたが家にいて、あなたの最良の友人とたいへん重要な話をしている時に 電話が鳴ると、あなたは最良の友人を忘れてしまい、たいへん重要な話を忘れてしまう。 たとえもしマガジンの購入をあなたに要求する全く見知らぬ人の電話であっても、 あなたの友人は電話の会話が済むまで待たされるなければならない。 変に聞こえるかもしれないが、電話のベルにいかに答えないかを学ぶことは現代の 世界において最も困難な仕事の一つである。 電話は現代の価値によってたいへん堅く確立されているので、 実際にある大人が電話のベルに答える前に二度考えることよりも、彼が禁煙する方が 易しいことかもしれない。 ユダヤ人は「シャバット(安息日)」を堅く守っていて、その日は一日中電話に 答えることを拒否している、実際に毎回「シャバット」に、答えないことを通して 選択の自由というユダヤ人の価値の本当の意味の一部を学ぶ。 「シャバット」には電話に答えないことを2〜3週間試してみなさい、そうすれば 電話に対してあなたが何と異なった態度を持つようになるかを見つけるであろう。 全ての呼び出しは緊急である、という疑いにたえず気を使うことに、あなたが 打ち勝ってしまえば、その変化として、あなたが電話の奴隷になるのではなく、 むしろ電話があなたの奴隷になるであろう。  この種の例はもっとたくさんあるので、我々のだれもがこれの題材で本が書けて しまうほどである。 我々はほとんど「マーケットプレス」の価値をあたりまえのこととして認めている、 なぜならばその価値はそれほど完全に我々のまわりにあるからである。 さらに我々は「マーケットプレス」の価値に絶えず反応する。 我々は、我々の友人らが買うレコードを買い、 我々の友人らが着るのと同じ種類の服を着て、 髪の毛を流行のスタイルをする。 我々は、我々の友人らがデイトを始めた時にデイトを始める。 我々は、彼らが笑った時に笑う。 我々は、我々が泣こうとする時に泣く。 我々は、我々が考えることを強制された時にのみ考える、 そしてその時でさえほんの少しの時間の間しか考えない。 なぜならばそれは難しいからである、 つまり、何を考えなさいと我々に内側から告げるものがいないからである。  このページ先頭へ  coffee break この書で使っている「マーケットプレス (marketplace)」というキーワードの 意味を理解されたと思います。 この著書は1975年の本ですから、20年以上も前の時代に若者への警告ですが、 20世紀末のこの時代の我々にも警告を発していると思えます。 テレビ、レコード、電話、、、ファミコン、CD、携帯電話、、、

    以下は、聖書からの引用による、用語の解説です。  申命記15:16-17  もし奴隷があなたとあなたの家族を愛し、あなたと共にいることを喜び、  「わたしはあなたのもとから出て行きたくありません」と言うならば、   あなたはきりを取り、彼の耳たぶを戸口につけて刺し通さなければならない。  こうして、彼は終生あなたの奴隷となるであろう。  出エジプト記21:5-6  (ほぼ同じ内容の記述がある) つまり神は、人が自らが「奴隷」になることを嫌っているわけです。 自由になれ! 聖書は、我々の体のどんなところにもマークをつけないように命じている、 例えば  レビ記19:28  死者を悼んで身を傷つけたり、入れ墨をしてはならない。   申命記14:1  死者を悼むために体を傷つけたり、額をそり上げてはならない。  現代人の流行「ピアス」の耳飾りが、この戒律に抵触するかは微妙なところ。    *   *   * 安息の年:  レビ記25:3-4  六年の間は畑に種を蒔き、ぶどう畑の手入れをし、収穫することはできるが、  七年目には全き安息を土地に与えなければならない。  ヨベルの年(Jubilee):  レビ記25:8-4  あなたは安息の年を七回、すなわち七年を七度数え直し、七を七倍した年は  49年である。......この50年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。  これがヨベルの年である。   レビ記25:50-51  自分が買われた年からヨベルの年までを数えて、その年数によって自分の価を  決める。これから彼のもとへ働くはずの期間の労賃を、日雇い労働の率で算出  する。ヨベルの年までの年数が長ければ、その年数に応じて見売りした金額と  の差額を買い戻し金として支払う。...... つまり奴隷に関して、ヨベルの年には土地と共に奴隷が自由の身に解放されること を前提として、奴隷の値段が決められていた。 バブルの時代をふりかえると、このヨベルの制度は、革命的な土地政策ですね。 一般に自由経済では、土地は最も安定した固定資産であり投機の対象となりますが、 このヨベルでは、土地を50年の期間で原価償却するもの、つまり土地の価格は 年々低下するシステムかもしれません。  土地は神のものであり、人は一時的に借用しているにすぎない という思想からきています。 この思想からヒントを得て、「神」を「国家」にすり変え、 共産主義を発明したのは、あの「無神論者」のマルクスなのですが。  このページ先頭へ Coming to grips with reality  一心に現実と取り組むことは難しい、とっても難しい。 次ように尋ねるほど十分に長く世界を止めておくことは難しい:  「私はいったい何を買わされているのか?」  「私が深く考えることを妨げられてしまっているところのもの、   私が従っているその価値はいったい何なのか?」  「ただそれらが流行しているという理由だけのために、   私はいったいどれだけ多くの意見を採用しているのか?」  「私は本当はやりたくないが、他の人々がやるという理由で私が喜んでやる   というものを、いったいどれだけ多く私はやっているのか?」 現実に直面することは勇気がいる。 この世界での現実と可能性との間の内部バランスを創作することは強い勇気を 必要とする。 あなたのまわりの世界に対し、あなたが特別な態度を成し遂げることを、 あなたの宗教的な知覚が助けることができる: 希望と疑いの態度、責任と自由の態度、しかしあなたはそれを成し遂げるという 「選択」をしなければならない。 あなたは学ぶ努力を通すことによって、 何が信じるに正しいか、何が単なる「マーケットプレス」の価値なのか が分かるよう助けてくれ証拠を集めることが出来る、 しかしあなたは学問をするという「選択」をしなければならない。  このページ先頭へ Inner strength  実際、もし我々が現実に直面したくないとしても、現実が我々に直面してくる。 例えば、我々の各々は死ななければならない。 だれも例外はない。だれも死を避けることはできない。 しかし我々が死ななければならないという事実は、我々の生活をもっと貴重な ものにしている。 我々の各々が死の現実に一心に取り組まなくてはならないという事実は、 我々が生活の現実に一心に取り組まなくてはならない、ということを意味する。 全ての瞬間が唯一であり通過である。 どの人も13才を二度生きることはない。 どの人も同じ日の出を、あるいは同じ雲を二度見る機会はない。 なぜテレビジョンを再び見て、現実はただの一度しか演じられない時に、 あなたの時間を浪費するのか?  我々の環境は我々に現実を直面させる、ときどき恐ろしい現実にも。 ハリケーン、竜巻、病気、飢餓、地震そして洪水、 これらは我々に対して操作する残忍な力の形態である。 我々自身の勇気ある行動のみが災難に打ち勝つことができる。 いうなれば、これだけでは十分でなく、人間がお互い対して操作する。 理由なき違法ストライキ、犯罪をもって無罪の者を侵略する暴徒、 人間の尊厳を滅ぼす大小の独裁者や弱い者いじめ、全人口を押しつぶす戦争。 宗教的な知覚を持ち、その事実の全てを集めて持っている人にとって、 残忍な力が最も大きな敵である、それが取るどんな形態のものであっても。 行動する勇気のみが、それに打ち勝つ闘争を助けるでしょう。  このページ先頭へ A gentle defiance  バル・コフバ (Bar Kochba, or Simon Bar Koziba) がパレスチナでローマ軍に 対して反乱を指導した時、ラビ・アキバ (Rabbi Akiba) はほぼ80才であった。 ラビ・アキバは宗教的な自由のために支援した、彼は軍隊をとって戦うにはあまりに も年をとっていた。 ラビ・アキバが肩をすくめて、ローマ軍に自分が出来ることは何もない、 と言ったとしてもそれは単純なことであったかもしれない。 結局のところ彼は年寄であった。 一人の年寄が皇帝の力に対していったい何ができるのか? しかしラビ・アキバは、「そうではないのだ!」と知っていた: 奴隷のみがそうなことを言うのだ、 降参してしまった人、もはや選択の自由が無くなった人が。 自由な人間の責任は対抗し戦うことであった。 反乱が粉砕された時、トーラの学問とユダヤ人の宗教の習慣を禁止するという 新しい法律をローマ皇帝が作った。 ローマ皇帝はこう推測した: もしユダヤ人の信仰が壊滅されれば、人々の自由に対する望みはまた消え失せる であろうと。 ラビ・アキバはローマ皇帝の憶測が正しいことを知っていた。 ユダヤ人の学習なしでは、水から出た魚のように、人々は無力になってしまう であろうと。 ラビ・アキバは法律を定義した。 公衆の場に座って、彼は学生のグループにトーラを教えた。 このために彼は監禁された。 3年後、ローマ人は彼の死刑を命じた。 しかしこの3年間、彼は勇敢に行動を取り続けた。 彼は監獄の部屋から教えた。 監獄の窓の下の方で歩いている通行人の振りをしている学生に、 法律の難しい質問の答えを彼は密かに送り出していた。 そして監獄に彼を尋ねてきた人々の全てにトーラを教えた。 その休息(永眠)は楽しいものではない。 ある夜、ローマ人はラビ・アキバを迎えに来て監獄から彼を出した。 彼らは一晩中彼を拷問した、しかし夜明けが来て「シェマ」を朗唱する時間が 来たとき、彼はそれをした。(「シェマ」これはユダヤ教の祈祷文) 責任を負わされたローマの将校は肝をつぶして驚いた。 「お前は何なのか? 魔法使いか? お前は痛さを感じないのか?」 ラビ・アキバは答えた。 「わたしの全ての生活では、この戒律を正しくすることを待っていたのだ。  それはこう書かれているからだ。  『私はいつでも神を愛している、私のすべての心で、私のすべての力で、  そして今私は神を愛す、私のすべての精神で、同様に。』」 そして「シェマ」の朗唱を繰り返しラビ・アキバは死んだ。 [ Jerusalem Talmud, Berachot 14b ]

    あるミドラッシュが我々にこう告げている、これは伝聞ではあるが: ラビ・アキバを拷問したローマの将校は、彼の答えに強く動かされて、 ユダヤ教に改宗したのだと。  このページ先頭へ The triumph of freedom  ラビ・アキバの勇気の表現は、彼が宗教的な知覚と学問を通して探索した ところの道、それは教えることであった。 彼の意志は死なずに生き残った。 フロイト( Sigmund Freud, 1865-1939 ) が説明したように、 「すべての生きる生物は持続することが義務である。」 ラビ・アキバは、彼が感じた持続することを守るために、死の恐れを 許さなかったのであろう。 正義は不正に打ち勝つことを彼は知っていた。 そして彼は、ローマ皇帝の残忍な力では平和を作ることはできないことが 分かるほど十分賢かった。 人は自由を断念することによって自由でなくなってしまう、 彼はいつもこのことを知っていた。 Rabbi Yohanan ben Zakkaiが言っているように 「神は、自由な精神的な代理人たちによってのみ、奉仕されることができる、  奴隷たちによってではなく。」 [ Kiddushin 22b ]  このページ先頭へ Reflection  我々の伝統は、我々に人間以上になることを要求してはいない。 ラビたちは知っていた: 人間性は人間であるリーダーによってのみ奉仕される。 来るべき「メシア(救世主)」でさえ神ではなく一人の人間である。 しかし我々の伝統は次のことを我々に要求している: 我々が現実を避けて横に歩く我々の傾向に打ち勝つように、 そして「マーケットプレス」の価値に疑問を持つこと無しに受け入れると いう我々の傾向に打ち勝つように。 これらの価値は我々のまわりにすべてあり、そんなに多くあるので 我々がほとんど全く忘れてしまうほど我々の一部になってしまっている。 しかし我々を現実に直面させる出来事が起こる、そして我々の中で最も弱い者 を死に直面させることさえ起こる。 我々が行動し、知覚し、そして勉強することの合計が我々の人生の価値である。  時計が毎時間に時を打つのと同様に、希望と正義は継続されている: 待つことや遅らせることを通してではなく、行動と勇気を通して継続される。 我々の各々が、世界の中で我々が行うことに対して、責任に耐えなければならない。 しかし我々自身の最も悪い敵はいつも我々の内部にいて、 行わないこと、実行しないことの言い訳を見つけているのだ。  Ben Zoma は言った、  「誰が力強いのか? 彼の衝動(Yetzer)を制する人である。」                               [ Avot 4:1 ]                
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