When a Jew seeks wisdom 講座#8

第10章「The value of patience」

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    第10章「The value of patience:忍耐の価値」

     あなたは、人々が「欲求不満」になっている、と言うのをおそらく聞いたことがある
    でしょう。心の病気の一つとして欲求不満の話を聞いたことがあるかもしれない。
    今日の米国で、欲求不満は最も共通な心の病気の現われである、と心理学者たちは
    信じている。
    
    欲求不満にあるということは、わなに捕えられているようなものである。
    我々が欲求不満になるのは、やっている事あるいはやりたい事がどれも到達しない時、
    それらが妨げられて挫折され、くじけられ、打ちのめされる時。
    
    欲求不満であるのは、我々の目標に到達することが出来ないという意味である。
    我々が何かをしたい時にそれが何も出来ない時に、欲求不満がやって来る。
    しかし多くの場合、我々のベストを尽くしたにもかかわらずにやって来る。
    例えば、あなたは幾つかのあるいはほとんどのテーマでさえうまく行くが、しかし
    ある一つのテーマには絶えず失敗している、と生物学者は言っている。
    あなたは挑戦し挑戦する、あなたは生活援助システムの定義とリストを記憶したとしも、
    しかし学年試験が公示され再び失敗したことを知る。
    そしてあなたは欲求不満になる。
    
     欲求不満はより悪くなるものだ。
    あなたは、あなたの制御を超えた全体的な事によって、自分が欲求不満になったこと
    を知るかもしれない。
    例えば、
    あなたは飛行機のスチュワーデスあるいはスチュワードにとっても強くなりたがって
    いるかもしれない。
    しかしあなたが志願した時に、あなたの背丈がその仕事に十分高くないことを知る。
    あるいはあなたはおそらく商用飛行機のパイロットになりたいかもしれない、しかし
    あなたの視力は十分ではない。
    これらの種類の幻滅や失望は欲求不満になり得る。
    
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    Frustration is not modern
    
     ラビがしばしば引用する聖書「コヘレトの言葉( Ecclesiastes)」に記録された言葉が
    ある。
    「太陽の下、新しいものは何一つない。」(Ecclesiastes1:9)
    大体のものがそうなるように、これは欲求不満の真実を支えている。
    
    人々がいかに欲求不満になるかをラビは知っていた。
    ラビ・アキバが昔、道を歩いていた。
    町からずっと離れた道路脇に死体が横たわっていた。
    彼は、そこから最も近い墓場に土を掘りその死体を葬った。
    しかし彼がラビたちにこの事を話した時、彼が法律に従っていなかった事について彼ら
    は言った。説明のない奇妙な場所で死体が見てけられた時は、それはその場所で葬られ
    なければならない、というのが法律であった。
    ラビ・アキバは言った、
    「私は全て自分のベストの意図でそうした、そして罪をおかしたのだ。」
    このことから我々はラビの教えを知ることが出来る、
    高貴な業績としてよい成果となる意図的な狙いをもたらすことはにいかに難しいか。
    たとえ偉大なラビ・アキバでさえ欲求不満になったであろう。
    
    ラビたちは欲求不満を病気だとは考えていなかった。
    彼らはむしろ、それを心の態度の一つとして考えていた。
    例えば、もしある人がトーラの勉強にやって来てそれの全てを学びたいと希望していた
    ならば、彼は非常に失望したであろう。
    なぜならば、ラビの時代であっても、トーラの勉強は生涯の仕事であると知られていた
    からである。それでもなお、決して終わらない仕事であってさえも、いつかは始められ
    なくてはならない。そしてラビは、長い期間の行動の仕事で彼らを助けるために、
    もっと前向きな態度を探した。
    
     彼らは「メシアの来る日」、すなわち平和と協力が全ての人類を一つに結ぶことが
    やって来る日、に関して持っている事が長い期間の仕事である、と知っていた。
    どの人でも彼の生涯のうちで仕事を完成しないかもしれない、仕事は親から子に引き
    継がなければならないであろう、ということを意味する。
    ユダヤ人の人々は一人の個人あるいは一人の世代に頼ってはいない。
    代わりに、我々は正義を支援して平和を作る仕事を世代から世代に継承している:
    ある日に仕事が完成するであろう、そして世界が日の終わり、メシアの時、に到達する
    であろう、という希望と信頼をもって。
    
    そんな仕事は全てたいへんな欲求不満であろう
    ---特に、戦争や貧乏や飢餓のような進歩の妨げに直面した場合には---
    我々の欲求不満を最小に保つという特別な態度を我々が工夫して考えだした、という
    ことを除いて。
    それは公正や希望の態度であり忍耐の態度である。
    このようにラビは教えた、
    時間は、各々の目的に対して、各々の目標に対してやって来るであろう、
    もし我々が働きそして我々が信頼するならば。
    
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    A time for all things
    
    
     全てのものに対する時間の考えはラビたちの考えとはまさに違う。
    それはもっと以前に起こっている。
    聖書「コヘレトの言葉( Ecclesiastes)」で、我々は最も詩的な形で
    それ見ることができる。
    
     何事にも季節があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
     生まれる時、死ぬ時
     植える時、植えたものを抜く時
     殺す時、癒す時
     破壊する時、建てる時、
     泣く時、笑う時
     嘆く時、踊る時
     石を放つ時、石を集める時
     抱擁の時、抱擁を遠ざける時
     求める時、失う時
     保つ時、放つ時
     裂く時、縫う時
     黙する時、語る時
     愛する時、憎む時
     戦いの時、平和の時
     ( Ecclesiastes 3:1-8)
    
    これは我々の行動の全てに関して持っていなければならない
    態度である、全てのものには一つの時間があり、各々はその
    季節にやって来なければならない。
    我々はすでに、この態度は我々を助けることが出来るという
    証拠をもっている、なぜならば我々は自然のうちに忍耐する
    ことを学んできているからである。
    
    我々は、夏にりんごが熟すとか秋にももが熟すことを期待し
    てはいない。
    農夫は種を蒔く時、雨の時、成長する時、
    そして収穫の時を忍耐強く待つ。
    我々は雪の季節、
    そして暑さの季節を期待することを学ぶ。
    
    

    同じようにアボットのラビは我々の成長の季節をリストした。  5才で、聖書の学びに到達する年  10才で、ミシュナの学びの年  13才で、戒律を行う年  18才で、結婚の年  20才で、探し求める年  30才で、力を出す年  40才で、理解の年  50才で、賢い助言の年  60才で、長老に加わるの年  70才で、白髪の年  80才で、特別な力の才能の年  90才で、年の重さで腰が曲がる年  100才で、この世から過ぎ去った人のようである年  (Avot 5:24) 我々のライフサイクルで、各々のイベントに対し各々の変化に対して概算の時間 というものがある。 それらは、我々が成長しそして学ぶ時に、我々が建てそして変える時に、我々が 期待しているアイデアを与えてくれる道標である。 年はあらゆる時間、場所に同じではない、それでもなおそれらは大きくは変わらない。 しかしそれらが我々に教えていることは何か? 欲求不満や失望を避けるために我々を助ける場合において、 これらの「人間の季節」というのは何に使うのであろうか?  このページ先頭へ Taking your time  我々の欲求不満のほとんどは、二つの分類に落ちる: 我々がそれらに成功することが出来ないという理由で欲求不満となるもの、 我々がそれらに資格がないという理由で欲求不満となるもの。 前者は、我々が絶えず失敗している、という生物学の知識のようなもの。 後者は、商用飛行機のパイロットになりたいのだが視力が不完全の人、 という問題のようなもの。 どちらの場合でもあなたが採用することができる最善の態度は忍耐の態度である。 欲求不満は我々にとっていつも悪いというわけではないし、また世界の終わりの失望 というわけでもない。 しばしば欲求不満あるいは失望するということは、我々をより良いものへと刺激する。 例えば、あなたの学問の努力を倍加することによって、優秀な生物学の生徒になり医者 としての経歴への先頭にたつ、ということがあなたには分かる。 あるいは、パイロットになるというのが飛行に関して、興味があり挑戦すべき価値の ある唯一の経歴ではない、ということがあなたには分かる。  我々の Jewish way of life に関してもまたこのことは真実である。 ユダヤ人であることは困難で欲求不満である。 ユダヤ人の信念や価値を外に振る舞うことは、たいへんしばしば、我々のまわりの 世界と衝突を我々にもたらす。 ユダヤ人であることは、あやまちが犯されているなにか悪いことを見た時に、 我々に声を出すように要求する、たとえ我々の声がたいへん小さな差分しか、 あるいはまったく何ももたらさないであろうと分かっていた時でさえも。 しかし、毎回に良い行動をすることは未来に果物を結ぶ、というのが我々の信条で ある。  このページ先頭へ From generation to generation  最後には良いところのものが生き残るという希望を持ち、世界は少しづつ良くなり 少しづつ明るくなるという希望を持って、我々は失望と欲求不満を受け入れる、 なぜならば我々がそこにずっと住んできているから。 我々が労働の果実を見ることができない時でさえ、我々がやる良いことは建造されて 役に立つと信じる。 これはタルムードの中の話しで、ホニー(Honi) として知られるラビによるある聖人に 関する教訓である。  ある日、道に沿って歩いていた時、ホニーは carob tree を植えている男を見て  彼に言った。  「 carob tree は70年間実を結ばないのに、あなたが植えている木の果物を   食べるまで長く生きるつもりですか?」  その男は答えた、  「私は、世界が carob tree で準備されていることが分かった、   なぜならば私の祖父たちが私のためにそれらを植えてくれたから。   私は今それらを私の息子たちのために植えているのだ。」                             ( Tannit 23a ) それで、また、我々の行動は現在に関してのみに判断されるべきではなく、未来に いかに影響するのかをよく考えなければならない。 今日、あなたはアラスカの荒野を横切った道路の建設に抗議するかもしれない、 その道路が未来にアラスカの植物や野性の生命与える効果のために。 たとえあなたの抗議が欲求不満となりその道路が建設されたとしても、 あなたの時間を浪費したことにはならない。 道路の建設者は言われたことに対してたいへん注意深くなっている、 そしておそらく荒野を守るための未来の試みが変化を良い結果に向かわせるであろう、 人々はすでに声を出して言ったからである。  このページ先頭へ Rabbi Joshua and the Massiah  全ての現実の進行というのは一時にはただ一歩のみなされる、ということをラビたち は知っていた。問題を解く一歩一歩のアプローチの重要性を例として示すために、 彼らはタルムードの中に一つの伝説を記録した。  ラビ・ヨシュア(Rabbi Joshua) は預言者エリア(Elijah) に会った夢を見た。  彼はエリアに質問した、「メシアはいつ来るのでしょうか?」、  「我々がローマの重荷からいつ解放されるのでしょうか?」  エリアは答えた、「行って、メシア自身に聞きなさい。」  驚いてヨシュアは言った、「私がどこでメシアを見つけるのですか?」  「ローマの主要な門(the main gate) のところで」、エリアは答えた。  「では、私がどうやってメシアを知るのですか?」  「メシアは町の乞食の中に座っている、彼らが傷や膿を癒すように。   毎朝、乞食たちはやって来て、太陽の光線で癒すために傷の包帯を全て外す。   メシアもまたやって来て乞食の中に座る。   しかしメシアは一度に一つの包帯だけをゆるめる。   なぜならば彼はこう考えているからだ:   『もし私が呼ばれるなら、時間を浪費してはならない。』そのため、   メシアはまず一つの傷を癒すために一つの包帯を外し、それからそれを   再び結んで、そして他の傷の包帯を外す。」  ふと気がつくと、ヨシュアは自分がローマのその門に自分が居ることを知った。  彼にとってメシアを見つけるのに長い時間はかからなかった。  なぜならば、祈り、自分の運を嘆き悲しむ乞食は一人ではなかったが、  一度に一つの包帯をゆるめている乞食はただ一人しかいなかった。  「こんにちは、私の主人そして先生」、ヨシュアはその乞食に言った。  「こんにちは、ラビ・ヨシュア」、メシア答えた。  ヨシュアは質問した、  「あなたはいつやって来るのがふさわしいのでしょうか?」  「どうして今日ではいけないのかい ( Why, today ) 」、メシア答えた。  そして、乞食が答えた時、あたかもマジックのようにラビ・ヨシュアは彼の家に  輸送された。  一日中、ヨシュアはメシアやって来るという知らせを喜んで待った、しかし夜に  なった時、何の知らせもなく彼の失望は大きくなった。  次の朝、ヨシュアは預言者エリアによって起こされた。  ヨシュアは怒って言った、「メシアは不誠実なことを告げた、彼は『今日』来る  と言ったのに、『今日』が過ぎたのにメシアはやって来なかった。」  エリアは笑って言った、  「メシアが言った意味はこうなのだ:   今日、もし今日ならあなたは私の声を聞いたでしょう。」                           ( Sanhedrin 98a ) これは実に不思議な伝説です。 --- なぞかけをしゃべったメシア、そしてずっと昔に死んだエリアと会話し、 パレスチナからローマへ、その後に戻った不思議な旅をしたラビの話し。 ある意味では、これは伝説というよりもほとんど出来事についてのパズルのような ものである。  このページ先頭へ About the Messiah  学ぶべき最も簡単なレッスンは、エリアが最後に教えたことである: メシアの方はいつでも来る準備ができている。 メシアをここに連れて来るには、準備をしなければならないのは我々自身の側の仕事 である。 もちろん、ラビたちはメシアが伝説の人物であると理解している。 彼らが支持していることは、 メシアというのは、我々がもはや彼を必要としない時にのみやって来るということ。 すなわち、メシアがやって来る時は、我々が我々自身で我々自身の仕事を通して、 世界をほぼ完全にもたらす時である。 その時、その平和の時代を統治する人、まさにそれがメシアであろう!  このページ先頭へ Studying the puzzle メシアはなぜ乞食であるべきなのか? メシアはなぜ町の門で見つけられるべきなのか? なぜその町がローマであるべきなのか? なぜメシアの体が傷や膿で覆われているべきなのか? なぜラビたちはこの話しをタルムードに保存しているのか?  まず、なぜメシアが乞食で、ローマで、町の門なのか、から始めよう。 古代においては、町の門にそのマーケットプレースが置かれていた。 ここに農民がやって来て露店を開き、そして商人が外に店を開く。 マーケットプレースは待っているメシアを見つけるには完全な場所である、 なぜならばここには全てのものがあり、何でも売り買いされる。 我々はすでに前の章(第9章)で「マーケットプレースの価値」を話した。 さて、乞食のメシアの姿は、世界の他の国々の中にいるユダヤ人の人々を象徴して いることを、あなたがたは分かるであろう。 そしてローマはこれらの国々を象徴している。 ローマ人が追求めるところのものはユダヤ人が追求めるところのものではない。 例えば、我々はすべてのもの事の上に勉学や知恵を尊敬する、それゆえ我々の 最も偉大な英雄というのは将校や皇帝ではなく、先生や賢者である。 ローマの価値は「マーケットプレースの価値」である。  このページ先頭へ The deeper meaning なぜメシアの体が傷や膿で覆われているのか? そして一度に一つの包帯をゆるめるという彼の奇妙な行動の裏には何があるのか? 彼は呼ばれた時にすぐに行ける準備をしたい、我々はすでにこう学んだ。 しかしもう一つの意味がある。 ユダヤ人の大きな力の一つは、一緒に生活することの細部への関心である。 タルムードやその上に築かれてきた法典のほとんどは、毎日の生活のあらゆる小さな 問題に綿密な注意を払っている。 これらの問題の各々は、ユダヤ人の体に伝染する小さな腫物、というようなものである。 そして我々の態度は一歩一歩それらを扱うことである、一度に一つの包帯をゆるめて、 各々の傷を勉強し、そして次に行く前にそれを癒す努力をする。 我々はあらゆる問題にいつでも答えるということはできないが、しかし我々は努力する。 ここで再びメシアはユダヤ人の象徴として見られる、彼は一度に各々の小さな傷を癒 すことによって、彼がやって来るために彼自身を準備する。 しかしあなたはこう質問するかもしれない: 大きなことを考えて細部は忘れる、ということは良くないことなのですか? 実際に、それは違った方法でまわりに働く。 良い例が聖書のレビ記19章である。 我々はこの章を「The Holiness Code」と呼ぶ、なぜならばそのなかで我々はこう命令 される:  「Be holy, for I, the Lord your God, am Holy 」(レビ記19:2) レビ記のこの章のすべての命令をまとめたこの聖なる命令は、最も偉大で最も重要な ものからずっとかけ離れている。 しかしそれを理解しそれに従うためには細部が必要: 「Be holy」とは正確にはどんな意味なのか? それはこう意味する。  「あなたは労働者の賃金を翌朝まで延ばしてはならない」  「あなたは唖をののしってたり、盲の人の前に棒を投げてはならない」  「あなたは占や呪術をしてはならない」  「あなたは自分自身に入れ墨をしてはならない」  「あなたは白髪の前では起立し、長老を尊敬し神を畏れなさい」 これが「Be holy」という命令によって意味されることである。 Judaismの関心というのは、 ある人がもう一人の人と持つあらゆる行動、あらゆる扱いに到達する。  このページ先頭へ  coffee break 聖書からの引用部分の箇所を確認しておきます。  レビ記19:2  「あなたたちは聖なる者となりなさい。   あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者であるから。」  レビ記19:13  「あなたは隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。   労働者の賃金を翌朝まで延ばしてはならない。」  レビ記19:14  「あなたは唖をののしってたり、盲の人の前に棒を投げてはならない。」  レビ記19:26  「あなたは血を含んだ肉を食べてはならない。   占や呪術をしてはならない。」  レビ記19:28  「あなたは死者を悼んで身を傷つけたり、   入れ墨をしてはならない。」  レビ記19:32  「あなたは白髪の前では起立し、長老を尊敬し神を畏れなさい。」  このページ先頭へ The Messiah and waiting  この物語の鍵は、メシアが待っているその方法に置かれている: 彼は自分の時間を浪費していないで彼の傷や膿を癒すために使っている、 つまり行動を通して彼自身を改善している。 全ての人がメシアの声を聞く準備ができるまで、彼は自分が待たねければならないこと を知っている、しかしその間に彼は確実な方法で、欲求不満から自分を救う方法で、 行動している。 ラビ・タルフォン (Rabbi Tarphon) が言った:  日は短い、そして仕事は大きい、労働者たちは遅い、  しかし報酬は大きい、そして主は急いでいる。                  ( Avot 2:20 ) すなわち、この世界で良いこと、正義なことを行う時間は限られている、そしてその 仕事はたいへん偉大なので時間は貴重である。 我々は遅く、怠け者であり、我々は時間を浪費する我々の自然の傾向に打ち勝つこと を学ばなければならない。 しかし我々がすべての心で働く時は、我々の仕事の中に祝福がある --- 我々が完全な達成を経験していない場合でさえ、我々が行ってきた事を見ること によって我々はしばしば報いられる。 しかしなぜ主なる神は急いでいるのか? なぜならば、実際に我々が持っている唯一の時間は「今」である。 ヒレルが言ったように、「 If not now , when ? 」 ラビの教えのこの概念を理解することは重要である。 耐えることと、行動することは同じコインの両面である。 我々が待っている間、ただじっと立っていなければならないのではない。 もし我々がそうすると、我々は行動しない結果として確かに欲求不満になってしまう。 ちょうどそれは、我々が単にやり続け、深く考えて待つことなしにやり続けると、 我々が欲求不満になるのと同じように。 あなたはこういう人を比較してみなさい: 自動車の後輪が泥の中に入り、止めることなしにただ動き続けようとしている人。 車のエンジンは唸り運転手はペダルを踏み続けるが、しかし車輪はただ空まわりして、 実際どこにも行くことができない。 忍耐をもって、ユダヤ人の待つことの行動の種類、一歩一歩、一度に一つのことを 調整することを人は学ぶ。 上に述べた状況では、 運転手は抜け出すことを考え、問題を研究し、後輪の下に置くために板を見つける、 そしてゆっくりと自動車を前に動かして溝から車輪を出す。  このページ先頭へ Instant results? なお、あなたは即座の結果をいつも期待できるとは限らない。 あなたは忍耐を持って問題を研究し、車輪の下の板がそれを解決するであろうと 決定し、それから泥があまりにも水っぽいことを見つける --- あるいは板が 小さすぎてぬかるみに沈んでしまうことを。 その時、あなたは失望し欲求不満を感じるにちがいない。 あなたはタイヤをけっとばす気持ちになるかもしれない。 (あなたは「悪の衝動」に注意しなければならない。 それはいつもあなたにこっそり近づこうとしているから。) しかし最高の態度は辛抱すること、忍耐を持って挑戦し続けることである。 我々が前に引用したラビ・タルフォンが言った:  仕事を完成することがあなたがたの義務ではない、しかし  そこから断念する自由はあなたがたの誰にもないのだ。                        ( Avot 2:21 ) 我々の行動の全ての結果をいつも我々が見ることができるとは限らない。 これが始めないための理由にはならない。 ちょうど、我々が今日植えているその木の実を食べるまで生きていないかもしれない、 ということが木を植えない理由にはならない。

     このページ先頭へ Reflection  適切な季節に各々のものを期待することを我々が学んだ時に、我々は欲求不満に 打ち勝つことを学ぶ。 欲求不満や失望に打ち勝つことで、我々は我々の世界をより明るくする。 なぜならば我々は何が良いことなのかに集中し始める、たとえそれが小さなことで あっても、そして我々は何が重要なことかを察知し始める、たとえそれがずっと 大きな絵の中の単なる細部であっても。 我々が行う仕事の重要さは、我々が「何を」するかであって、どれだけ多くのこと をするか、ということではない。 我々が始めたあらゆる仕事を終わらすことが我々の義務ではない、 しかしその仕事がいつか完成されるものであるならば我々は始めなければならない。 ユダヤ人と共に我々が選択する時、それはメシアの時に接近するように ---平和の時、みんなが自分自身として他人を愛する時、その時のために準備してい るところの我々の行動を通して示すために --- 完成されるのを我々が決して見ないかもしれない、そのような仕事を引き受けること を我々は選択をする。 そのことがその仕事の価値を少なくしていることはない。 毎日がメシアを連れてくる仕事を始めるのに良い日なのである。 毎日が我々が行うことを注意深く見るのに良い日であり、 助けるであろうことをしようと努力する良い日である。 毎日が一つの包帯をゆるめるのに良い日であり、 ある一つの不完全なものを見つめるのに良い日であり、 また我々がいかに多くより良くすることができるかを見て分かるのに良い日である。                
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