アボットは、ラビ・ヨハナン・ベン・ザカイ (Rabbi Yohanan ben Zakkai) が、 ラビである五人の生徒に与えら普通でない宿題の記録を含んでいる。 それは二つの質問からなる。 どれが人の固守すべき正しい道なのか、出て行って見てきなさい......。 人が遠ざけなければならない邪悪な道はどれなのか、出て行って見てきなさい。 [ Avot 2:9 ] ヨハナン・ベン・ザカイが「出て行って」と言っているように、 彼らの答えを教室の外で、毎日の行動の世界の中で、探すように告げていた。 あなたは、五人の学生ラビが彼に与える答えを読み進む前に、紙とペンを取って あなた自身の答えを少ない言葉で書いてみなさい。 正義と公平をするための鍵は何だと思いますか。 もし我々が邪悪を避けるつもりなら、避けなければならないものは何だと思いますか。 このページ先頭へ The answers 五人の学生ラビの答えは、この本の前半の我々の勉強の要約となるのものである。 ユダヤ人の行動に対して我々自身がいかに準備したらよいか、これに関して ここに集められたアイデアの多くは、ラビたちが与えた答の中に含まれている。 これらのアイデアの幾つかは、またあなたが書いた短い答えの中に、 おそらく含まれている。 我々が勉強してきた道にあなたがどれだけ近づいてきたか見てみよう。 あなたはこれらの質問にどのように答えるのでしょうか? このページ先頭へ The answers of Rabbi Eliezer (1)ラビ・エリエゼルの答え エリエゼルはスポンジのような記憶力を持った学生であった。 注がれた水の全ての一滴までも捕えてしまう水がめのようなので、 彼の先生は彼を「セメントの水がめ」と呼んだ。 エリエゼルはかって聞いたトーラの全ての教えを記憶していた。 そんな人はこの二つの質問にどう答えるであろうか? エリエゼルは言った、 固守すべき正しい道は「良い目」で、 避けるべき邪悪な道は「邪悪な目」である。 我々は「邪悪な目」によって意味していることを簡単に理解することができる。 それは世界を見て、生きる所として醜い、不幸な、みすぼらしい場所を探す道である。 「邪悪な目」は、ねたみ、嫉妬、絶えず続く不平そして不幸に耐える。 昔、ある男が彼のラビの前に現われて言った: 「私は良いことをするという仕事を止めましたよ。 私の一生で、人々は私が良かったら成功するだろうと言っていた。 しかし見よ、ここに邪悪であったが成功した人の20人のリストを持っている。 これから、私の客をだますことにしよう、そして私もまた金持ちになろう。」 ラビは笑って言った: 「私は邪悪で成功した人のあなたのリストを見た。 しかし、良いことで成功した人のあなたのリストはどこにあるのか?」このページ先頭へ人が「邪悪な目」を通して世界を見る時、 彼は自然に邪悪であるところの事のみを見ている、 そして彼はすべてのものによって妨害されているのだ。 「良い目」の人はちょうどその反対である。 「良い目」を通しての世界は、喜び、歓声そして、満足、安心の場所である。 「良い目」は我々の宗教的な知覚であり、我々を通して世界の中にどんな良いこと がもたらせられるのかを知るための我々の能力である。 エリエゼルの答えは、我々にこう告げている: 我々が本当に何を見ているかは、我々が物事を見る方法に依存しているのだ。 ことわざが言う: 「良い目」を持った人は祝福されるであろう、 彼は貧しい者にパンを与えるからである。(箴言22:9) 言い換えれば、 たとえ「良い目」を持った人彼自身が貧しくても、彼はもっと貧しい人を見つけて 慈善をするであろう、なぜならば彼の「良い目」が彼自身を金持ちであるとして 自分を認めるからである。 このページ先頭へ coffee break 箴言22:9の解説: 「良い目」を持った人は祝福されるであろう、 彼は貧しい者にパンを与えるからである。(箴言22:9) これは聖書の原文であるヘブライ語からの翻訳ですが、 日本語や英語の聖書を読むと訳が違っているのに気づきます。 例えば、「新共同訳」聖書では、 「寛大な人」は祝福を受ける、 自分のパンをさいて弱い人に与えるから。(箴言22:9) また、英訳の「Holy Bible」では、 A generous man will himself be blessed, for he shares his food with the poor. ( Proverbs 22:9 ) この日本語や英訳の、「寛大な人/generous man」が慈善をする、 というのはあたりまえで、ここには新しい教訓がなく、面白くも何ともない。 ヘブライ語原文の、「良い目の人」が慈善をする、 という謎めいた教訓の方がはるかに知的で感動しませんか。 偉大なソロモン王が創作したことわざ集と言われる「箴言」、 その彼の作品の苦労の一端を少し理解できたわけです。 このページ先頭へ Rabbi Joshua's answer (2)ラビ・ヨシュアの答え ヨシュアによると、 従うべき良い道は「良い友」であり、 避けるべき道は「邪悪な友」である。 ヨシュアの答えは「腐ったリンゴは束をだめにする」という古い格言を思い起こさせる。 しかし彼の考えは、アボットの他の所で別の人々が表現しているものとそんなに変わら なかった。例えば アルベル人のニッタイ (Nittai the Arbelite) がこう言った: 邪悪な友人からあなた自身が離れているように、邪悪と組するな。 [ Avot 1:7 ] ザドク (Zadok) とヒレル (Hillel) は同意した: 人は共同体社会から彼自身を分離すべきではない。 そして、これはまたこう教えられた、 我々は邪悪の人々から我々自身を分離すべきであると。 あなたはきっと「腐ったリンゴ (rotten apple) 」のタイプを知っているでしょう。 彼はこう言う人です: 「この雑誌を盗もう、本屋は絶対に気付かないから」 「今日だけ学校をさぼろう、何と時間を持てるんだから!」 彼は、これらの事は結局そんな悪いことではないのだと、 あなたに考えさせるような人なのだ。 「他の人たちもそうしている、罰っせられないよ。あんたはなぜしないの?」 腐ったリンゴの人はあなたに「邪悪の衝動」を直接にしゃべる人なのだ。 ヨシュアによると、従うのに最も悪い道は、邪悪な仲間があなたを導くその道である。 最も良い道は、良い友人と共同体社会の道である。 我々が選んだ友人たちが良い道の人たちである時、我々は彼らをもっと好きになる。 また我々自身が他の人々に良い友人となり、正しい道に彼らを導く。 ヨシュアはこの彼自身のようであった。 彼は、彼を知っている全てへの祝福であった。 このページ先頭へ Rabbi Yose's answer (3)ラビ・ヨセの答え ヨセの答えはヨシュアの答えにとても類似していた。 ヨセは答えた: 従うべき良い道は「良い隣人」であり、 避けるべき道は「邪悪な隣人」である。 共同体社会という言葉の考えを除いて、 実際に「良い友」と「良い隣人」との差はないであろう。 ヨセが区別しているのはこういうことである。 「良い隣人」はグループで一緒に仕事することによってなされる事に関連している。 「良い隣人」は彼の芝生が保持されている道を気にかけ、 彼のごみをいかに処理するかに気を使う。 一般に、彼のまわりに住んでいる人々の気持ちを深く考える。 「良い隣人」になるということは、緊張が関係しているところの他の物事に向かって ゆく態度を開発するという意味がある: 近所に住んでいる人々全ての幸福への関係、 共同体社会の将来への関係、 共同体社会が選択するところの生活の道への関係。 そんな関係は「良い隣人」のしるしである。 「邪悪な隣人」がすることは利己主義である。 「邪悪な衝動」が成し遂げることができる最大の害の一つが「邪悪な隣人」に 人を変えることである。 他の人々は共同体社会にプライドを持つが、 一方、「邪悪な隣人」は自分だけのためにしか注意を払わない。 共同体社会が危険な状態になる、あるいは悪い時期に落ちる時は、 それは単純に「邪悪な隣人」が移り住んで来て、 彼はもう一つの共同体社会の中で自分の安らぎを探そうとする時である。 我々は時々、近所が「悪くなってきている」あるいは 住むのに難しくなってきている、ということを聞く。 通常このことは、近所の人々がお互いに「良い隣人」になることを止めて、 彼ら自身のためだけに心配するという「邪悪な隣人」の作法を行ない始めたため なのである。 このページ先頭へ Rabbi Simeon's answer (4)ラビ・シモンの答え シモンの答えは全く異なっていた。 シモンは言った: 従うべき良い道は、自らの行動の「結果を考える人」である。 人がある方法で行動するときにその結果が何かを知る、 そのことの助けとして宗教的な知覚を使う人は、 他人に害を与えるような過ちを少なくするであろう。 人々は通常は残酷な行動をとろうとはしないものだ、 しかし、しばしば考え無しで行動することがある。 例えば、しばしば我々を勝たせるために我々の怒りを許してしまい、 そして我々が本当は世話するところの他人を侮辱してしまう。 そんな振る舞いが他人に起こす苦痛を前もって考えておくことが、 普通にはこんな風に我々の怒りを表わさないで維持できるであろう。 また、我々の行動の「結果を考える」ためには、 我々は行動する前に証拠を集めなければならない。 我々にとって、このことは結果あるいはその可能な結果を学ぶことを意味する。 我々が前もって行動の可能な結果を学ぶ時、我々はもっと親切に行動するようになる。 なぜならば我々の行動が他人、そして結局は我々自身、をいかに害するかもしれない と知るからである。 このような老人の物語がある。 ある老人が彼の最後の年に彼の息子の家族のもとで住むためにやって来た。 さて彼の息子は、彼の父に食事に使うのを許したら、 父がその上等な陶器を壊してはしまわないかと恐れた。 それでその息子は老人のために食事に使う木のおわんと木のスプーンを準備した。 さてある日、その息子が家に帰ってきて、 彼自身の息子がナイフで木の片を削っているのを見た。 「何をしているのかい?」、彼は子供に言った。 「お父さんがおじいちゃんのように年とった時に、 お父さんが食べるための木のおわんを作っているんだよ」、と子供は言った。 * * * シモンの二つ目の質問の答えは、 人が避けるべき道は「借りたのに返さない人」であった。 最初は、これは彼の行動の「結果を考える」ことの正反対ではないように思われるが、 しかし本当の意味では正反対なのである。 返すことを考えずに借りる人は明らかに彼の行動の結果を深く考えてはいない。 ラビはこう教えた: 我々は、自分自身の財産と同じように、他人の財産を尊重すべきである。 我々が何かを借りた時、我々自身の所有物にするのと同じように注意深く扱うべきである。 シモンは説明を続けた: 我々が他の人から借りた時、我々は「神から借りている人」のようである。 最後の分析では、我々が所有している全てのものは「神から借りている」。 慈善をすることは我々が借りていたものに対する払戻しの一種である。 詩に書かれているように 邪悪な者は借り、そして返さない、 正義の者は憐み、そして与える。(詩編37:21) このページ先頭へ The answers of Rabbi Eleazar (5)ラビ・エルアザルの答え 最後の答えはラビ・エルアザル・ベン・アラクのものである。 エルアザルは言った: 従うべき良い道は「良い心」であり、 避けるべき道は「邪悪な心」である。 ラビ・ヨハナンは彼の学生たちにの答えをよく聞いた後に、彼は言った: わたしはラビ・エルアザル・ベン・アラクの言葉を取る。 あなたたちの言葉は彼の言葉に含まれているからだ。[ Avot 2:9 ] 「良い心」の考えは、おそらく、我々がもう終わっている「study」の章 (The value of study : 勉強の価値)において最もよく要約されている。 全ての事が「良い心」を持つという考えの中に入ってゆく...... 我々の各々が持ち得る人間という種類の性質の全ての事。 「良い心」を持った人は、彼のまわりの全てにあるところの良いものと見る、 そして彼自身の行動を通してそれに加える。 「良い心」を持った人は、神のイメージで生活し、他の人々を尊敬するよう努力している。 ラビの有名な話の一が良い例である: 私は(神の)創造物であり、私の隣人もまた彼の創造物である。 私の仕事は町にあり、彼の仕事は畑にある。 私は私の仕事のために早く起きる、彼は彼の仕事のために早く起きる。 彼は私の仕事を越えることはできないように、 私も彼の仕事を越えることはできない。 しかしあなたは言うであろう、 私は大きなことをしている、そして彼は小さなことをしている。 我々は学んだ、 人がすることが多かろうが少なかろうがそれが問題ではない、 もし彼が天に向けて彼の心を導いてさえいれば。 [ Berachot 17a ] このページ先頭へ The path of the good heart 我々はこの教えを「良い心の道」と呼ぶかもしれない。 ラビがヤバネの学校 (the academy at Yavneh) 時代に教えていた時と同様に、 それは今でも真実である。 あなたが医者あるいは労働者、料理長、店員、警官あるいは店主であろうとも それが問題ではない。 人間を偉大にするところのものは「良い心の道」に従うことである。 人は言うかもしれない、 私は賢人になるほど学んでいなかった、 私は法律(トーラ)を勉強しなかった、 私はすべき何なのか(what am I to do)? しかし神はそのイスラエル人に言った、 全ての知恵も全トーラも簡単な一つのことなのだ。 私を恐れる者、そしてトーラを行なう者は、 彼の心の中に全ての知恵と全トーラを持っているのだ。 [ Deuteronomy Rabbah 11:6 ] 全トーラが行ないで見られる、ということを示すために、ラビはこう教えた: トーラの最後の文字は「lamed」であり、トーラの最初の文字は「bet」である。 これらの文字を連げると単語「レブ」となる、これは「心」を意味する。 このことは、イスラエルの法律であるトーラの中に含まれている全てのものは、 各々のユダヤ人の心の中に含まれている、ということを示しているのだ。 このページ先頭へ coffee break トーラの最後の文字は「lamed」であり、トーラの最初の文字は「bet」である。 これについて解説します。 トーラの最後の文は、申命記の最後の文章: また、モーセが全イスラエルの目の前で、あらゆる力ある業とあらゆる大いなる 恐るべき出来事を示すためであった。(申命記34:12) ヘブライ語での原書では、最後の単語が「イスラエル」ですから、 最後の文字は「ル」つまりヘブル文字「lamed」です。 トーラの最初の文は、創世記の最初の文章: 初めに、神は天地を創造された。(創世記1:1) ヘブライ語での原書では、最初の単語が「ベレッシート」ですから、 最初の文字は「ベ」つまりヘブル文字「bet」です。 トーラの最後と最初をつなげる、という発想がユニークなんですが、 「..............イスラエル」+「ベレッシート...............」 これらの文字を連げると、「ル」+「ベ」、つまり「lamed」+「bet」 これは単語「レブ」と発音して「heart(心)」を意味します。 このページ先頭へ Reflection 我々はヒレル (Hillel) によて提案された質問: If I am not for myself, who will be for me ? について各々が答えを見つけなければならない。 我々の伝統だけではこの質問の答えを我々に教えることはできない、 その答えはもっと身近にあるからであり、それは我々の各々の心の中にある。 我々の伝統が我々に教えることができるのは、 それがあなた自身の「ために」なると意味していることであり、そして Who will be "for" you when you act for yourself. ヒレルの質問は一つの中に百の質問がある: If I am not myself, who will be me ? If I do not take part in my community, who in the community will take my part for me ? If I do not take a stand in my own name, who will fight for what I believe ? If I do not work to make myself better, who will do that work for me ? If I do not direct my actions, who will direct them for me ? And more. 我々の伝統が我々に教えているのは、 我々は我々の行動を通して良くなることができ、 良くなることは達成するのにそんなに難しいことではなく、 そして良くなることへの報酬は結果として良いことである、 ということである。 それで、彼自身の「ために」実行することを欲する人は、 他の人々の「ために」もまた実行するであろう。 トーラの戒律「あなた自身のようにあなたの隣人を愛しなさい」、 これは他の人々を愛すためにはまず最初にあなた自身を愛さなくてはならない、 ということを意味している。 昔、ラビがこう教えていた。 トーラが「あなた自身のようにあなたの隣人を愛しなさい」と言う時は、 何を意味しているのか。 彼は一人の学生の方に向いて聞いた。「私を愛していますか?」 学生は少し考えてから正直に答えた。「私はそう思います。」 ラビは言った。「では、私を痛めているものは何か、言ってみなさい。」 学生は答えた。「あなたを痛めているものは何か知りません。」 「それなら、あなたは私を愛してはいない。」ラビは言った。 「誰かを愛することは彼を痛めているものは何かを知ることを意味する。」 我々の各々は、何が我々を痛めているか、我々が痛い時はいつかを知っている。 我々が自分自身を愛している時、自分が痛くないようにと、痛くなることから 自分を保持しようと努力している。 我々が痛みの意味を理解した時のみ、我々は他人がいかに感じるかを理解し始める。 つまりこのことが、ヒレルの質問がこの文で終わっていない理由である。 "If I am not for myself, who will be for me ?" ヒレルの質問はつづく。 "And if I am only for myself, what am I ?" "And if not now, when ?" もし人が彼自身のためだけならば、 もし彼が重大な人は自分だけであると考えるほど利己的であるならば、 彼は全ての意味を失っている。 それは現実を離れて横に歩く道であり、真の愛からはずれた臆病者の道である。 臆病者は彼自身を愛すことができない。 ヒレルの質問 "If I am not for myself, who will be for me ?" は、 我々が自分自身を評価し我々の可能性を評価しなければならない、 我々が自重して行動するよう自分自身を訓練しなければならない、 ことを意味している。 もし我々がそうすれば、我々が他の人々に対して正しく行動することに、 そして自分自身を尊敬すると同様に他の人々を尊敬することについて 我々が基礎をもつであろう。 何が良いことで寛大なことか、そして何が悪いことで利己的なことか、 我々がその間の内部バランスを創る努力をするのとちょうど同じように、 また我々自身の考慮と我々の隣人たちの考慮との間の内部バランスを創る努力を しなければならない。 我々はお互いを愛さなければならない。 そして、我々の伝統は我々自身を良くする訓練を助け、 我々がとる行動の種類において我々自身を愛する理由の発見を助ける、 これと同様に、それは他の人々と一緒に我々自身が生活する訓練を助ける。 我々の各々が「良い心の道」に従う努力をして、 我々がお互いに痛みを避ける努力をするような社会を一緒に築かなければならない。 共同体社会の全てのメンバーが個々に良いという理由で、 共同体社会が「良い心の道」に従う、そんな社会を我々は築かなければならない。 これが我々が次の章(第12章「The value of community」)で学ところの本質である、 そこでは ヒレルの第二の質問を答える努力をする。 "And if I am only for myself, what am I ?"