ヒレルは言った、共同体社会からあなた自身を分離してはならない。 ( Avot 2:4 ) このページ先頭へ To live alone 我々の社会は生きている組織のようなものである。 我々の伝統が、全体として社会から分離して各々の人を扱っている、 と想像することは難しい。 ちょうど一つの体であるように、足が切断される時は体はそれを失うが、 しかし体は生き続ける;足はしぼんで死んでしまうけれども。 赤子の時は、我々を世話する両親を必要とする。 幼児の時は、歩くためにそしてしゃべるために他人によって教えられなければならない。 さらに成長した時は、我々は互いに忠告や相談を信頼する。 病気の時は、我々の回復を助け世話をしてくれる他人を必要とする。 そして年寄りなると、我々は助けてくれる他人をに目を向ける。 我々の共同社会なしで生きることをもたらさないことは明らかである。 昔、北方の国で、素晴しい色の鳥が最も高い木の頂上にとまった、 そしてその葉に巣を造った。 この国の王がそのめずらしい鳥の話を聞いて、その羽根を取ってきて 王に見せるよう要求した。 人々は鳥にとどくような生きた梯子を作ることを決めた。 一人がもう一人の肩に立つ、というふうにほとんど成功するまでになった。 しかし、人間の梯子を作るには長い時間がかかった、そして大地に 最も近い人が我慢しきれなくなり、自由に彼らを揺さぶった、すると すべてが崩れてしまった。 [ Baal Shem Tov ] ユダヤ人の共同社会は、この物語の生きた梯子のようなものである。 我々の目標は到達するのに困難である --- 平和、正義、慈悲そして公平という目標。 しかし尚、それらは到達するために努力する価値があり、 共同社会に参加することがそこに我々を到達する助けになる、 ということを我々は知っている。 このページ先頭へ We need one another 我々の生活はたいへん複雑であるので、我々の各々は、我々を助けるのに 異なった業を持った多くの人々を必要としている。 昔、ベン・ゾマ(Ben Zoma) は神殿の丘に人々が集まってくるのを見た。 彼は言った、 「私に奉仕するためにこれらの全ての人々を創造なされた神に祝福あれ。」 彼は説明した: アダムが食べるパンを手にするまでにいったい何の労働をしなければ ならなかったであろうか! 彼は耕し、種をまき、収穫し、束ね、脱穀し、もみがらを吹き、 穂を選択し、それらをひき、粉をふるい分け、ねりあげ、燒く、 そしてそれからやっと彼は食べた; ところが私は起きると、私のためになされたこれらの全てのものを見る。 アダムが着るための衣を手にするまでにいったいどれだけのの労働を しなければならなかったであろうか! 彼は羊毛を刈り、それを洗い、櫛でとき、紡ぎ、編み、 そしてそれからやっと衣を得た; ところが私は起きると、私のためになされたこれらの全てのものを見る。 [ Berachot 58a ] なめし皮工、医者、法律家、船員、兵隊、商人、庭士、そして詩人 --- この才能の連結は人類の偉大な業の一つである。 どれだけ多くのものが我々のためにあるのか、 そしてどれだけ多くのものを我々が他の人々のために行うか! あなたがどんな専門職を選ぼうとも、 より良い社会に向かって登るある種の生きた梯子にあなたは貢献するであろう。 このページ先頭へ All are important 全ての職業が共同社会にとって重要である。 昔、ある井戸堀がラビ・ヨハナン・ベン・ザカイが歩いているのを見た。 そして叫んだ、「おおい、ラビ殿!わたしがあなたと同じくらい重要である ことを知っていますか?」 「それはなぜかね?」ヨハナンは尋ねた。 「えーと」、その井戸堀はまゆを布でぬぐって言った、 「私の仕事があなたの仕事と同じくらい我々の共同社会に重要だからなのです。 分かるでしょう、あなたが男や女に儀式の水浴に行くように告げ、 彼らを清めている時に、彼らに水を供給しているのはそれは私です。」 [ Ecclessiastes Rabbah 4:17 ] どんな職業でも、それに従事している人が共通の良いことに貢献できない、 という低級なことはない。 古代において、羊飼いは最も低い貢献度の職業であると考えられていた。 毎日毎日、心配もなく大望もなく、群れを世話していて、羊飼いは共同社会から ほとんど尊敬されていなかった。 しかしモーゼは羊飼いであった。 そしてミドラッシュは我々にこう言っている: エジプトからユダヤ人を導き出すのモーゼが適していたのは、 道に迷った羊に向ける彼の関心であった。このページ先頭へラビたちはまた種々の職業を持っていた: ヒレル(Hillel) はきこり、 シャマ(Shammai) はれんが工、 アッバ・ホッシャヤ(Abba Hoshaya) は洗濯屋、 ラビ・ヨシュア(Rabbi Joshua) と ラビ・アイザック・ナッパハ(Rabbi Issac Napaha) は鍛冶屋、 そしてラビ・ヒスダ(rabbi Hisda) と ラビ・パパ(rabbi Papa) はワイン作り屋であった。 他のラビたちは農夫、貿易商、そして芸術家であった。 彼らはすべての社会の階級のメンバーであった。 彼らの研究と教えに加えて、このすべてがあった! このページ先頭へ A ladder in time 共同社会はどんな一人の個人よりも偉大である、 なぜならば共同社会は全てを支えているからである。 アインシュタインは、彼が住む共同社会の有名でもない農民に、彼のパンを頼っていた。 これはユダヤ人の共同社会では特に真実である、 なぜならばメンバーは特別な方法で考えるからである。 我々は、ある一つの特別なシナゴーグのメンバーである人々のグループだけではない、 この町、あの町に住む人々のグループである。 我々は、この国に住んでいるユダヤ人だけではない、世界中の違った国々に 住んでいるユダヤ人でさえある。 我々は時間において共同社会にいる。 そして我々が築いている梯子は時間における梯子である。 梯子の基礎はアブラハムであり、 そのすぐ上の横木はサラ、イサク、リベカ、ヤコブ、レア、そしてラケルであり、 それから時間において我々の先生のモーゼがいる。 梯子そのものはアボットの最初の章にある最初の句にさかのぼる: モーゼはシナイ山でトーラを受け、そしてヨシュアにそれを伝え; ヨシュアは長老たちに;長老たちは預言者たちに;預言者たちは偉大な集団の人々に。 [ Avot 1:1 ] 梯子が最後の日に到達するかどうかは、我々の忍耐と熱心に従属する。 我々は梯子の頂上に生まれているのではない。 我々は横木を一つ一つ登らなければならない、学びながら研究しながら、 働きながら努力しながら、我々が時間において我々の位置に到達するまで、 そしてその時に、我々の子供たちに世襲財産を継続し引き渡して。 このページ先頭へ For the sake of heaven この全ての努力は、もし目標がなくて終わりがなかったならば、 ほとんど必要とされないであろう。 そして一つの目標がある。 それは預言者の夢の実現を作っている、 すなわちトーラの法律、戒律の法律を基本とした世界であり、 各々の人が親切で正しく、他人を公平に扱い、平和を創る世界である。 共同体社会、その人々のために働く全てのものを、天のために 彼らとともに働くようにしなさい。 なぜならば、彼らの祖父たちの功績が彼らを支え、 彼らの正義が永続するからである。 [ Avot 2:2 ] アボットの書の全体において、 我々が「天のために( For the sake of Heaven) 」行なうことを問われて いる唯一のことは、我々の共同社会を代表して働くことである。 しかし、どんな種類の仕事が意図されているのか? 我々はどんな種類の行動をしなければならないのか。 このページ先頭へ Loving your neighbor 「あなた自身と同じくあなたの隣人を愛しなさい」、 そして人は他人を愛すことができる以前に自分自身を愛さなければならない、 ということを我々はもっと早く強調された。 それと同じく我々は今度は、人は他人をまた愛さなければならない、 という事実に注意を向けよう。 アブラハムは全ての旅人、それは友人であろうが見知らぬ人であろうが、 両腕を開き、彼のテントに招き入れて挨拶をしていた、と言われている。 アブラハムは道の十字路の中央にテントを建て、各々の側にドアがあったので、 どの方向から来る通行人もアブラハムのテントの中を通った。 旅人の足を洗い(これは砂漠の人々の中では友情の表現であった)、 その旅人に食事を与えるのがアブラハムの習慣であった。 それから、旅人がアブラハムからの歓待と食事に対して彼に感謝した時、 アブラハムはこう言った、 「いえ、私に感謝するのではなく、主に感謝するように。」 旅人はこうたずねた、「主とは誰ですか?」 それで、アブラハムは各々の旅人に天と地(全てがその中にある)を 創造した唯一の神の話をした。 昔、ある老人がアブラハムのテントのドアにやって来て、アブラハムは いつものように彼の足を洗い食事の用意をした。 しかし食事の後に、アブラハムがその老人に食事の奉仕に対して主に 感謝するように言ったときに、 「私はただ火を崇拝し、炎と灰の神以外の神には感謝しない」 とその老人は答えた。 その時、アブラハムは怒ってその老人をテントから冷たい砂漠の夜に追い出した。 すぐにアブラハムにこう言う声が聞こえた: 「なぜお前はこのことをしたのか?七十年間も私はこの老人に苦しんできた、 そしてお前は一晩でさえも彼に苦しむことが出来ない!」 それで、アブラハムはその老人の後を追い、彼のテントの中に連れ戻し、 老人をその夜そこに留めた。 [ Benjamin Franklin, based on Genesis Rabbah 43:8 ] 全ての人々は神によって愛され、そして神聖である、それが罪人であろうとも、 聖人であろうとも、というのが Jewish の価値である。 このページ先頭へ Ransoming the captive ユダヤ人の共同社会の最も神聖な義務の一つは、誘拐された人々を助け、 保釈金を支えることである。 ユダヤ人の法律では、捕獲者たちに保釈金を支払う義務は、 貧乏人に衣を与え、食べものを与える義務よりもさらに上位に置かれている。 ミシュナーが編集された時代には、 誘拐というのが金をつりあげるための手段として使われていた、 そしてユダヤ人は保釈金を支払わされるためにしばしば誘拐されていた。 最終的に、誘拐犯を彼らの邪悪から偉大な利益をあげて勇気づけないようにするために、 ラビたちは誘拐犯に支払われる額を制限した。 捕虜の人々は彼らの価値以上に保釈金を支払われるべきではない、 一般的な善に対する予防策として。 [ Mishnah, Git. 4:6 ] それでも、特別な捕虜の「価値」について議論がいつも起こった。 誘拐は世界の場面から消え去ることはなかった。 我々は最近においてもそれを多く見てきている。 今日、ユダヤ人の全体社会では捕虜に対し保釈金を支えることが出来る、 その一方で、他のユダヤ人の社会の一部では救出を祈り、 そして寄付や贈り物を通して保釈の金額をつり上げている。 イスラエルの土地への保釈金が、近代における偉大な保釈金そして 救出の手段として準備されている。 ホロコースト後にユーロッパの Jewry (貴重なユダヤ人) の残りを 買い戻すための努力に、数えきれないほどの膨大なドルが支払われてきている。 このページ先頭へ Gemilut Hasadim 捕虜の保釈金を支払うことは「 Gemilut Hasadim 」の一つの行動である。 このヘブライ語の句を翻訳する現実的な方法はない、 しかしこの二つの単語の中には共同社会についてユダヤ人の概念への鍵がある。 Gemilut Hasadim は愛の種類である。 Gemilut Hasadim は善意の種類である。 Gemilut Hasadim は報酬を考えたり期待すること無しになされる種類の 一つの行動である。 Gemilut Hasadim は慈善の種類ではあるが、通常の意味ではない。 三つの点において、Gemilut Hasadim は慈善の寄付よりも偉大である: 慈善の寄付は金銭で実行される、 そして Gemilut Hasadim は個人的な奉仕あるいは金銭でなされる。 慈善の寄付は貧乏人に限定される、 そして Gemilut Hasadim は貧乏人にも金持ちにも発揮される。 慈善の寄付は生きているものに限定されるが、 Gemilut Hasadim は生きているものと死んでいるものの双方に与えられる。 [ Sukkot 49b ] 我々人間の関係を快くするために、 そして我々の共同社会をそこに住む全ての人にとってより楽しいものにするために、 我々が互いに行なう親切な行動の全ては Gemilut Hasadim によって作りだされる。 このページ先頭へ 「 Gemilut Hasadim 」をヘブライ語の辞書で調べると、 「 Gemilut 」の語根は「G-M-L」 ここから派生する単語には、「 Gamal 」=終わる、「 Gemiler 」=乳ばなれ 「 Hasadim 」の語根は「H-S-D」 ここから派生する単語には、「 Hesed 」=神の恵、この複数形が「 Hasadim 」 つまり「 Gemilut Hasadim 」=「神の恵からの乳ばなれ」といった意味になります。 (※ヘブライ語では、名詞が二つ続く連語形は、後ろの名詞が前の名詞を修飾) * * * 聖書(旧約聖書)は「神のめぐみ」を書きとめたものですが、 ユダヤ人たちはそれにただ甘えるだけに満足することなく「乳ばなれ」して 神と共に歩く..... そんな姿を連想させる言葉に思えます。 他にも、「イスラエル」という言葉の語源は、 ユダヤ人の父祖ヤコブが神と格闘した後に、神から「イスラエル」という 呼び名に改称された、という聖書の話(創世記32:39)からきていますが、 「 Israel 」=「 isra + el 」=「闘う(未来形)+神」 つまり「 Israel 」=「神と闘うであろう」 「イスラエル」は、神と闘う、神と論争する、そのような神のよきパートナーとして、 神と共に歩む人、という意味を含んでいる言葉だと理解しています。 このページ先頭へ In preparation 我々がこれまでの章で述べてきたほとんど全てのことは、 まさにこの「 Gemilut Hasadim 」というユダヤ人の概念を我々に準備するために あったのだ。 我々は生活の価値と我々自身の自由な選択の本質についてすでに理解しているので、 まさに良いことを行なうために、正しいところのことを行なうように、 我々の宗教的な知覚が我々をかりたてる。 これが Gemilut Hasadim の本質である。 このページ先頭へ Gemilut Hasadim and attitude アボットから我々は教えられている。 あなたの家を広く開けなさい、 そして貧乏人をあなたの家族の一員にしなさい。 [ Avot 1:5 ] しかも、 Gemilut Hasadim は、行動の背後に態度があること以上に、 行動で行なうことである。 昔に起こったことであるが、ソロモンが悪の四つの風の一つによって家から ずっと遠くに運ばれたことを知った、そして不思議な島に置かれた。 ほこりと泥が彼の衣にかぶり、王の衣というよりも乞食のぼろのように見えた。 そしてたそがれも落ちて、彼は家から家に行って、食事と夜の滞在を求めた。 そして人々は彼を無視した、彼を普通の乞食以上には考えていないことを知った。 「私はソロモン、イスラエルの王だ」と彼が主張した時、彼らは彼を笑い、 冷やかして言った「もしそうなら、我々は皆シェバの女王か!」 ついに、疲れて腹がへって、ソロモンはある商人の家にやって来た。 その商人は遠く広く旅する人で、こう言った。 「あなたはイスラエルの王様ではありませんか。 私はパレードで行進するあなたの顔を何度も見ています。」 それから彼はソロモンを家に入れ、食事をもてなした。 その商人は前菜が出された時に言い始めた。 「あら!あら!しかし何とも不名誉なことですね、 見てごらんなさい、あなたは乞食以上の何物でもないですよ。 あなたの富と金は何になったのですか? あなたの宮殿と家来はどこにあるのですか?」 そこでスープが出された。 「おや!おや!」 そしてサラダが。 「何とも不名誉なことですね」 そして主食が出された。 「何と気のどくな、まあ!気のどくな」 そしてソロモンは、彼のほおに流れ出し彼の皿に落ちていた涙のために、 自分が食べることができなかったことを知った。 その次の夜、ソロモンは貧しい木こりに食事をもてなされた。 「私は多くはさし出せませんが、ここに私たちが分けて十分なパンと 新鮮に料理された食事のなべがあります。」 ゆっくり、彼らは食べた時、ソロモンは自分の話をした。 そして木こりはこう応答した、 「全ては最善になるでしょう、そう確信します。」 あるいは、「明日はまたもう一つの日です、その時は物事はより明るく なるかもしれません。」 そしてゆっくりと、ソロモンの気持ちはまた変わっていった。 彼はますます彼自身のようになってゆき、自分がまさにソロモン、 つまりイスラエルの王であることを再び感じてきた。 悪の風は、ソロモンが打ち負かされることができなかったことを見て、 ソロモンをイスラエルに連れ戻した。 そこでは全てが夢であった: 商人は無情なやり方で、そして木こりは楽しいやり方で。 [ Sefel HaAggadah ] このページ先頭へ Rich or poor いかに「 Gemilut Hasadim 」が、 金持ちあるいは貧乏人によって、金持ちあるいは貧乏人に対して、 平等に表されるかのもう一つの例は、病人を訪問しなさいという戒律の中に見られる。 昔ラビ・アキバは、彼の学生の一人が病で倒れているが、 誰も彼を訪問していないことを聞いた。 すぐさまアキバは病気の学生の家を訪れて、部屋をきれいにし病人を元気付けた。 その時にその学生は彼に言った、「あなたは私を生活に戻してくれました。」 [ Nedarim 40a ] ラビ・アキバが本当に行なったことは、その学生をグループに連れ戻すことであり、 その悩んでいる者に、彼がまわりにいなくても忘れられていない、ということを 確信させることであった。 他の人々が病気のときに彼らを訪問することによって、 彼らを必要とする気持ちにすることは、一つの戒律であり、 そして Gemilut Hasadim の行ないである。 このページ先頭へ Personal service 病人を訪問することはまた個人的な奉仕であり、 「 Gemilut Hasadim 」が金銭だけに従っていない、というよい例である。 もちろん我々は Gemilut Hasadim にお金を使うことができる、 しかしそれはいつも必要とは限らないし、最善であるとも限らない。 ある私的な組織を通してであろうと、政府それ自身を通してであろうと、 共同社会のために働くことは Gemilut Hasadim の一つの行動として考えられている。 もし人が正しい精神で行なうならば、 彼の真の報酬は共同社会の中には見られないであろう、 しかし天の政府で地球を統治している神との共同の中において(見られるであろう)。 共同社会、その人々のために働く全てのものを、 天のために彼らとともに働くようにしなさい。 なぜならば、彼らの祖父たちの功績が彼らを支え、 彼らの正義が永続するするからである。 [ Avot 2:2 ] この一節の「彼らの祖父たちの功績」は何を意味しているのか? これは我々が築いているところの時間の梯子を再び引用している、 なぜならば「祖父たち」というのは、 ここではアブラハム、イサクそしてヤコブである。 ユダヤ人はどんなに低く曲がっていようが、彼あるいは彼女はいつでも、 アブラハム、イサクそしてヤコブの名前の中に神を呼ぶことができる と言われている。 我々が共同社会に個人的な奉仕を与えるとき、 我々は時間の梯子に登って他人を助けている ---- どんな報酬もなしに、ただ天のために(for the sake of Heaven ) このページ先頭へ The living and the dead 最後に、「 Gemilut Hasadim 」は慈善より偉大である、 なぜならばそれは生きている人と同様に死んだ人にも拡張される、 一方慈善は生きている人のみに影響を及ぼす。 我々が墓や棺を準備する助けをする時、尊厳をもって死んだ体を扱う時、 我々は報酬なしに奉仕している、これがもう一つの Gemilut Hasadim である。 ユダヤの共同社会はこの特別な義務をいつもたいへん意識していて、 いたる所にユダヤ人の墓地、葬礼社会を設立していきている。 今日でさえあらゆるシナゴーグにおいて、 誰かが死んだ時に助ける準備のある委員会がある。 このページ先頭へ Acts of lovingkindness 離れているユダヤ人の共同社会をつなげているものは、 我々の定常的な「 Gemilut Hasadim 」への関心 ----- 愛の種類の行動である。 我々がお互いを尊敬して親切に扱う方法は、 我々が自分たち自身について考える方法を反映している。 昔、ラバン・ヨハナン・ベン・ザカイ(Rabban Yohanan ben Zakkai) がエレサレムの外からやって来た時に、ラビ・ヨシュア(Rabbi Joshua) が彼の後ろに従って、神殿が廃墟になっているのを見た。 ヨシュアは叫んだ、 「何ということだ。我々の罪をいけにえの犠牲を通してあがなうこの場所が、 今や荒廃されたままになっている。」 ラバン・ヨハナンは彼に言った、 「我が弟子よ、深く悲しむな。 我々はこれと同じように効果のあるもう一つのあがないを持っている。 そして、それは何かね? それは Gemilut Hasadim である。 なぜならば、 『わたしが喜ぶのは慈愛であっていけにえの犠牲ではない(ホセア書6:6)』 このように言われているように。」 [ Avot de Rabbi Natan 4 ] このページ先頭へ Reflection あなた自身を共同社会から離すことは、 あなたからあなたの世襲財産を奪うことである。 それは一個人としてのあなたを弱くし、あなたを利己的な考えや行動に強いる。 共同社会に一緒に住むことは、他人の必要について考えることを強いる、 そして我々の「 Yetzer HaRa(邪悪の衝動)」を制御し続けるための助けとなる。 あなたが自分自身を共同社会から離す時、さらにもう一つの方法で、 あなたはあなたの世襲財産をあなた自身から奪うことができる、 なぜならば我々の共同社会が築きあげてきた時間の梯子を弱くするからである。 我々の全てが、その時、手を伸ばせばちょうど達する巣の中の美しい鳥に 手をとどく機会を失う。 その明るい羽のエデンの園(Paradaise) の鳥は、我々が夢見れば、 そして一致して行動すれば、我々の把握の内にある。 捕虜に保釈金を支払うというような簡単な例から、一致した行動の努力をもって、 ユダヤ人の共同社会でなされてきたであろう偉大な仕事を我々は見ることができる。 そして、そうでなければあなたが築くことができないようなこと、 正義と愛の行動で満ちた一つの世界、 これをあなたが築く助けになる一種の道具として、 あなたは共同社会を考えるようになるべきである。 ヒレルが言ったことは不思議ではない: ヒレルは言った、共同社会からあなた自身を分離してはならない。 [ Avot 2:4 ]