When a Jew seeks wisdom 講座#12

第14章「The value of goverment」

  • このページ最後へ

    第14章「The value of goverment:政府の価値」

    
     ラビ・ハニナ (Rabbi Hanina) は言った:
     政府の繁栄を祈りなさい、なぜならばそれに対する怖れがなければ、
     人は生きたままで互いを食べるであろうからである。
                             [ Avot 3:2 ]
    
     このページ先頭へ
    
    The importance of goverment
    
     人々が住んでいるところの法律のシステムは、そこの人々のグループの価値に影響する。
    たとえそれが停止信号や鉄道信号のような小さなことであっても、
    それは基本的な価値に影響する --- 社会のメンバーの安全を保護する価値に。
    停止信号や鉄道信号を建設することによって、我々自身の安全、我々の愛する人の安全、
    そして他人の安全、に対して我々の感心を行動の中に置く。
    価値を行動の中に置くことは政府の重要な一つの機能である、確かに政府を
    願ましくする機能である。
    
    
    
     我々が個々に知っている言葉で、我々が政府を理解する最善の方法は、
    「Yetzer HaRa(邪悪の衝動)」と「Yetzer Tov(善の衝動)」との全体の質問
    を再び考えることである。
    トーラが我々に教えていることの一つは、
    「あなたの心の中で、あなたの隣人を憎んではならない」(レビ記 19:17)
    しかし、
    実際に他の人々を傷つけることから人々を防いでいるのは、まったく別のことである。
    「十戒」は数千年間存在してきている、そしていまだに毎日の新聞は、
    殺人や強盗、法廷で偽証を誓った人、他人をだましている人の記事でいっぱいである。
    明らかな事実は、我々の幾人かは我々の「Yetzer HaRa」を制御しそれを役に立つ
    目的に向ける働きをしている一方、他の者はそうではない。
    彼らは、彼らの中にある「Yetzer HaRa」を乱暴に走らせることを許している。
    酔っ払った運転手のように、その時、彼らは道路で他のあらゆる人にとって
    危険となっている。
    
    そんな人々から我々を保護するために、政府が作られている。
    我々が個々のレベルで、我々の「Yetzer HaRa」を統治することを学ばなければ
    ならないのと同様に、「Yetzer HaRa」が乱暴になっているレベルのグループを
    制御することが政府の一つの重要な目的である。
    
     このページ先頭へ
    
    Law enforcement and courts
    
     政府が我々を効果的に保護するために、我々の各々は自分自身の自由な意志の
    幾らかを諦めなければならない。
    どれだけ大きな力が政府に与えられるべきかについて継続的な大きな議論や論争がある。
    しかし、もし政府が我々を効果的に保護するならば、誰もが「幾らか」の力を
    諦めなければならない、ということを我々は何の議論もなしで知ることができる。
    
    この一つの良い例は、各個人としての報復の権利を放棄することである。
    報復はそのグループに破壊的である。
    AがBから盗みをしたとする、そしてそれからBが返礼にAから盗みをする、
    これでイーブンと言って。
    もしこれで終わるならばそれで結構なことであるが、
    けれども報復はめったに最初の不公平以上により公平にはならない。
    Bが報復する時、Aが彼から取ったよりも彼はAからより多く取るかもしれない。
    その時、Aは彼自身が報復の必要を感じる。
    すぐに、物は手から離れて、そしてAとBは互いに殺すという点にまでくる ---- 
    また、彼らの友人や親族がその行動に参加するかもしれない。
    
    この種の事態を避けるために、警察や他の代理権の形で実行する法律を
    規定する力を我々は政府に許す。
    告訴が設定され聞かれる法廷と同様に。
    法律を実施する事務所や法廷はどちらも、我々すべてのために、
    個人よりもむしろグループによって最善に維持される力を代表している。
    
    
    
     このページ先頭へ
    
    An eye for an eye
    
     タルムードは、部分的には、行なわれてきた法廷の記録として見られる。
    ラビたちは政府の境界線を築くために、事例に事例を積み上げている。
    我々の例として、タルムードで扱われた古典的な報復の事例は、
    聖書のきまり文句である「目には目、歯には歯」、のまわりに集中してる。
    タルムードのラビたちが、「Yetzer HaRa」のグループを制するために
    探していた政府とはどんなものかを見るために、次の議論を考えよう。
    
     「目には目」、これは金での支払を意味する。
     あなたはそれが金での支払だと言うが、
     おそらくそれは実際に本当の目が没収されなければならない、という意味だ!
     しかし、その人の目が一方は大きく他方が小さいとしたとする、
     そんな場合に「目には目」の法律を私はいかに適応することができるのか?
     ... あるいは、盲の人が他人の目をたたき出した場合は、
     またあるいは片足びっこの人が他人を片足びっこの人にした場合は、
     「目には目」の法律を私はいかに十分に満たすことができるのか?
     トーラはこう要求している、
     「あなたは同じ法律を適用せよ(レビ記24:22)」
     この意味は、
     あなたたちの全てに対して、法律が同じであるべきだということ。
                             [ Baba Kamma 83b ]
    
    法律はいつも全ての人が同じであるとして扱われなければならない、なぜならば
    我々の基本的な価値は、全てが神によって平等に創造されていることである。
    もしそれがこの場合ならば、
    ラビたちが議論した「目には目」の意味はただこうである:
    もし人が他人の目をたたき出したならば、
    その有罪人は彼が破壊した目を補償する金額を支払わなければならない。
    
    このように、社会の全てのメンバーの利益に法律を翻訳するために、政府が割り込む。
    目や足を失った人にとって、もし彼を傷つけた人が目や足を仕返しに失ったとしても、
    それは現実に良いことではない。
    金銭上の支払は、それが元の目や足を取り戻すことはできないが、
    少なくとも人が傷ついた時に生じた痛みや損失を埋め合わせるために、
    それはいくらかの方法に役立つ。
    
     このページ先頭へ
    
    The perfect goverment
    
     ラビたちはその日、各々の人が神の法律に従って自分自身を統治する時、
    を楽しみに待った。
    もし我々の全てがヒレルの原理 --- 「あなた自身が嫌なことを、他人にはするな」 
    --- に従うならば、社会を制御する政府や統治者の必要はない。
    我々の各々は小型の政府であり、成功して「Yetzer HaRa」を制し、
    良いことを行なうのに集中している。
    
    このようにラビたちは日々の終わりを夢見た、
    各々の男も女も神の知恵と畏れの中で大きく成長し、
    もはや政府の必要がなくなった時を。
    しかし、彼らは夢想家であったけれども、
    そして彼らは世界が神だけで統治されるための計画をしていた一方で、
    ラビたちはまた現実主義者であった。
    人々が彼ら自身の「Yetzer HaRa」の制御がまだできていないと彼らは認めていた。
    それで彼らは共通の政府の必要を認めた、
    「なぜならばそれに対する怖れがなければ、
    人は生きたままで互いを食べるであろうからである」
    
    「生きたままで互いを食べる」、この句はとても耳障りに見えるかもしれない。
    しかしそれは政府が働かない時に起こることの現実的な絵である。
    あの「Wild West」としての19世紀のアメリカの西部のことを考えてみよう。
    法律や秩序は、破壊された方法で維持されていた。
    法律家たちは、彼らが反対した無法者たちのような全く同じ作法で行動した。
    その政府は、普通はより弱い者を殺す強い者の結果であった。
    
     このページ先頭へ
    
    The evils of goverment
    
     ラビたちは、もはや政府を必要としない時の日を夢見た、
    なぜならば政府から保護するものと期待していたその市民を、
    政府が「食べる」という事実を恐れていたからである。
    すなわち政府は力を成長させ統治されている人々からもっともっと多くの自由
    を奪い取る方法を持っている。
    預言者サミュエルの時代にさかのぼるユダヤの人々が、
    独裁主義の政府の悪を指摘してきている。
    人々はサミュエルのところにやって来て、
    その時代には他の全ての国々がそうであったように、
    彼らを統治してくれる王様が欲しいと要求した。
    
     「裁きを行なう王を与えよ」との彼らの言い分は、サミュエルには悪と写った。
     そこで彼は主に祈った。
     主はサミュエルに言われた:
      民があなたに言うままに、彼らの声にしたがうがよい。
      なぜならば彼らが退けたのはあなたではなくこの私だ、
      私が彼らの王として君臨することを退けているのだ。
                     [ サミュエル記上 8:6-7 ]
    
    サミュエルはその時、彼らを統治する王を持つことの危険を人々に警告した。
    
     あなたたちの上に君臨する王の権能は次の通りである。
     まず、あなたたちの息子を徴用する。
     それは、戦車兵や騎兵にして王の戦車の前に走らせ、
     千人隊の長、五十人隊の長として任命し、
     王のための耕作や刈り入れに従事させ、
     あるいは武器や戦車の用具を造らせるためである。
     また、あなたたちの娘を徴用し、香料作り、料理女、パン焼き女にする。
     また、あなたたちの最上の畑、ぶどう畑、オリーブ畑を没収し、家臣に分け与える。
     ...........
     その日あなたたちは、自分が選んだ王ゆえに、泣き叫ぶ。
     しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない。
                    [ サミュエル記上 8:11-14,18 ]
    
    これは王の力そして咲きすぎた政府の力に対する古典的なユダヤ人の警告である。
    我々が、我々自身を統治することを学ぶ代わりに、
    我々の権利を放棄して政府を形成する時はいつでも、
    その政府は我々の上に力を得る。
    
    
    
     このページ先頭へ
    
    
     coffee break
    

    簡単なおさらい

    聖書の中では、ユダヤ人の族長、士師/英雄、預言者、王が登場しますが、
    特に親しまれている人物を時代に合わせてまとめると大体このようになります。

    ユダヤ人の最初の王様となったのは「サウル王」ですが、
    なぜ民は王を必要としたか、もう一度、サムエル記を読んで見ましょう。

    サムエル記上 7:7〜7:10
    
     ペリシテの領主たちはイスラエル攻め上ってきた。
     イスラエルの人々はそのことを聞き、ペリシテ軍を恐れて、サムエルに乞うた。
     「どうか黙っていないで下さい。
      主がわれわれをペリシテ人の手から救ってくださるように、
      われわれの神、主に助けを求めて叫んでください。」
     サムエルはまだ乳離れしない子羊一匹を取り、焼き尽くす献げ物として主にささげ、
     イスラエルのため主に助けを求めて叫んだ。
     主は彼に答えられた。
     サムエルが焼き尽くす献げ物をささげている間に、
     ペリシテ軍はイスラエルに戦いを挑んできたが、
     主がこの日、ペリシテ軍の上に激しい雷鳴をとどろかせ、彼らを混乱に陥れたので、
     彼らはイスラエルに打ち負かされた。
    
    
    サムエル記上 8:1〜8:9
    
     サムエルは年老い、....
     イスラエルの長老たちは、全員集まり、ラマのサムエルのもとの来て、
     彼に申し入れた。
     「あなたはすでに年を取られ、息子たちはあなたの道を歩んでいません。
      今こそ、ほかのすべての国々のように、
      われわれのために裁きを行う王を立ててください。」
     裁きを行う王を与えよとの彼らの言い分は、サムエルの目には悪と映った。
     主はサムエルに言われた。
     「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。
      彼らが退けたのはあなたではない。
      彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。
      彼らをエジプトから導き上がった日から今日に至るまで、
      彼らのすることといえば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった。
      あなたに対しても同じことをしているのだ。
      今は彼らの声に従いなさい。
      ただし、彼らにはっきり警告し、
      彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい。」
    
    こうして、預言者サムエルは主の指示に従い、若者のサウルを初代イスラエルの
    国王に任命することになったわけです。
    その後はダビデ王、ソロモン王が統治してイスラエルは繁栄するわけですが、
    神が言っていたように、
    その後の王たちは主の道をはずれて行き、ついにはイスラエルの国は滅びてしまう。
    
     このページ先頭へ
    
    The Bill of Rightst
    
     聖書の時代には、王たちはトーラそれ自身によって幾分か制御されていた。
    王がイスラエルの上に君臨するときは、王の最初の仕事は
    彼自身の手によって文書のトーラを全て書き写すことが義務であった、
    これは王が後になってから法律を知らなかったと主張できないように。
    
    アメリカでは、我々の政府は憲法によって制御される、
    そして我々の基本的な権利は、「the Bill of Rights」と呼ばれる
    憲法への最初の10の修正条項によって保護されている。
    ここには各々の人に、
    礼拝、演説、出版、集会、政府への請願、その自由の保証がある。
    さらに、兵役に服する権利、
    兵隊に対する住居を準備しなければならないことからの自由、
    不当な捜索や捕捉からの自由、
    犯罪に対する告発無しに監禁されることからの自由、
    同一犯罪に対して二度も裁判されることからの自由、
    自分自身に対して証言しなければならないことからの自由、
    そして「生命、自由あるいは繁栄が、法律の当然の進行無しにはく奪される」
    ことからの自由、を含む。
    The Bill of Rights はまた、
    公平な陪審によって素早く公開の裁判への我々の権利を護衛する、
    そして限度を超えた保釈金や罰金、そして「残酷で異常な刑罰」を禁止する。
    
    法律のシステムは人々の価値に影響すると言って、我々はこの章を始めた。
    The Bill of Rights の場合は、
    これらの価値はもっと初期の文書によって公に発表されている:
    第2回大陸議会(the Second Continental Congress)で、
    1776年7月4日、独立宣言が採用された。
    
     我々はこれらの真実を自明のものとして支持する:
     全ての人は平等に造られている、
     彼らは創造主によって確実な権利を授かっている、
     これらの中には生命、自由そして幸福の追及がある 
     --- これらの権利を安全にするために、
     政府機構が人々の中に制定される、
     統治の同意から彼らの正しい力を引き出すように。
    
    これは要点であるが、政府の位置付け、それを造り出す人々の位置付けについての
    力強い文章である。
    
     このページ先頭へ
    
    All are created equal
    
    独立宣言は、「全ての人は平等」、これが自明であると宣言することによって
    始まっている。
    しかし、それはいつも自明であるということではなかった。
    古代のエジプトでは、どんな平民もが自分を王様と平等とは考えてはいなかった。
    王様は神の人であり、分離され、他の全ての人々の上にあると考えられていた。
    誰一人として王様と平等ではなかった。
    
    一方、
    イスラエルの王国がその最も偉大な力があって、王が最も力があった時でさえ、
    王は決して神とは混同されなかった。
    預言者ナタン(Nathan)はダビデ王を非難するための自由を感じていた:
    ダビデ王が、他の男の妻を盗み取りその夫を戦いに送り戦死させるという罪を犯した、
    そのことの間違いを非難した。
    そして応答においては、「私は王であり、私がしたいことをするのだ」
    と答えるのとはずっと違っていた。
    ダビデ王はそうではなくて、神から自分の罪の許しを祈った。
    
    エジプトの王とイスラエルの王との違いは、
    全ての人々は等しいとユダヤの人々は教えられていたことにあった。
    
     なぜ人は一人だけで創造されたのか?
     なぜ神は一人だけの男を創造したのか?
     我々の賢者は説明している、
     「私は高貴な血統である」と誰もがこのように自慢しないためである。
     全ての人類が同じ人からの子孫である。
     全ては神の前に等しい。
                [ Sanhedrin 38a ]
    
    第2回大陸議会(the Second Continental Congress)の人々が、
    「全ての人々が等しく造られた」のは自明な真実であると宣言した時に、
    引用したのは、このラビの教えであった。
    どんな人も他の人より神により近いということはない、
    このことを我々が記憶するときのみ、それは自明である。
    
     このページ先頭へ
    
    Unalienable rights(譲渡されない権利)
    
     生命、自由そして幸福の追及への我々の権利は、
    どれも我々自身が夢見てきた単純な価値ではない。
    独立宣言に従ってさえも、我々の国の市民の法律の多くがそれを基本としており、
    我々の権利は我々の主なる神から引き出されている。
    
    どんな人も他人にこう言う権利はない、
    「私はあなたが生きることを許さない」----まさに殺人者が犠牲者言うことである。
    神は命じている、「あなたは人を殺してはいけない」
    
    どんな人も他人にこう言う権利はない、
    「私はあなたを自由にすることを許さない」----まさに主人が奴隷に言うことである。
    神は命じている、「あなたは自由でありなさい」
    
    そして、他人が幸福の追及のための権利をどんな人も禁止することはできない。
    裁判で偽って誓うとか、盗みとか、あるいは隣人を傷つけることによっても。
    これらの行動のすべては神によって禁止されている、
    そして幸福を追及する権利は天の法律、神の戒律、によって保証されている。
    
     このページ先頭へ
    
    The secure these rights
    
     今や我々は、人々の中に政府が必要であるという宣言で、
    第2回大陸議会(the Second Continental Congress)の人々の論考を、
    古代の偉大な集団の人々の論考と同様に、理解することができる。
    その必要は、人間として生まれた全ての人々、神のイメージで創造された人々、
    の相続財産である権利を保証し安全にするためである。
    
    我々の自由を確実にするために、
    我々は、我々の自由を制限し安全にするための権力を持った政府を樹立する。
    その政府から我々自身を保護するために、
    我々は、今度は、人々のための保護の法律を樹立する。
    政府の権力はその時、政府が保護するために想定された価値の権力よりも
    偉大になることは、決して許されるべきではない。
    
    
    
    政府の権力は、どこからやって来るのか?
    それは我々から、「その人々」から来る。
    しかし我々が見てきたように、政府はそれ自身で先に行きすぎて、
    より偉大にそしてより強力に成長する傾向を持つ。
    
    政府の後ろにある価値の権力は、どこからやって来るのか?
    この権力は神、創造主、からの授かりものである。
    「全ての人間は平等に、...
    彼らの創造主によって授けられた、確かな譲渡されない権利を持って」
    
     このページ先頭へ
    
    Goverment and power
    
     我々が見てきたように、
    政府に対する必要と、政府を疑うための必要との間に緊張がある。
    お互いを「相食べる」ことから我々を保つために、我々は政府を必要とする。
    しかし政府から我々を保護するために、
    我々はthe Bill of Rightsやタルムードのような手段を必要とするのだ!
    
    しばしば、何を行なおうが、政府は良いことだけを行っていると主張する。
    「良いこと」とは、「政府の敵」を死に追いやること、市民へ重税をかけること、
    あるいは戦争に戦うことを意味するかもしれない。
    ラバン・ガマリエル(Rabban Gamaliel) が我々に警告したのは不思議ではない。
    
     権力に気をつけなさい。
     なぜならばそれらは自分たちにとって必要でなければ人に近寄ってこない。
     それらは自分たちが得になる時には友だちのように見えるが、
     人が苦境に陥っている時にはそれらは彼のそばに立ってはくれない。
                           [ Avot 2:3 ]
    
    我々は真に権力と友だちになることはできない。
    
    典型的な政治家の選挙を考えてみなさい。
    選挙の前は、候補者の全ては選挙民に約束をする。
    候補者は、彼らに叫ぶあらゆる人に向かって友だちのようであり機嫌がよい。
    彼らは不平に耳を傾け、物事を正しくし、それらをより良くすることを約束する。
    結局、我々の投票を必要としている。
    しかし選挙が終わるや否や、約束はまた全てしばしば忘れられてしまう。
    特に、危機の時代、全ての側に苦境が増えている時は、
    政府の役人たちは人々の興味どころではなく、政府自身の興味で行動する。
    
    おそらく、詩編の一つがなぜこう言っているかがこのことである:
    
     君主に信頼をおいてはいけない、なぜならば彼らには助けがない。
                          [ 詩編 146:3 ]
    
    14世紀の注解者のナフミアス(Nahmias)は権力の友情について、
    次のたとえ話をした:
    
     昔、ある王が彼の将校の一人を昇進させた。
     毎日、王はこの将校の前に上って彼の首に接吻をしていた。
     最後に、王は彼を殺して言った。
     「将校の首が切り落とされ時に、刀が落ちるその場所に接吻をしていたのだ」 
     人々は言っている、
     「ライオンが歯をむき出した時に、ライオンが笑っていると考えてはいけない、
      それはむさぼり食うためだけなのだ。
      人間の王は、また、しばしば動物王国のライオンのようである」
    
    サミュエルの警告、ナフミアスのたとえ話、そしてガマリエルの警告は
    全ての政府の行く道と関連している。
    どんな政府も全体的に信頼されることはない。
    我々は絶えず権力の進行を見張らなければならない。
    
    
    
     このページ先頭へ
    
    The law and the land
    
    たとえそうであっても、タルムードの格言ではこう言う:
    
     その土地の法律は、法律である。
                 [ Baba Kamma 113a ]
    
     人は、政府を尊敬しなければならない。
                   [ Mechilta,Bo ]
    
    ここで我々は、また、我々の解釈をバランスしなければならない。
    その土地の法律はいつでも法律であるとは限らない。
    ハドリアン皇帝がトーラの勉強とユダヤ教の実施を禁止した時、
    ラビはローマの法律を無視しなければならなかった。
    その土地の法律が神のより高い法律と衝突する時は、
    すべての政府が統治する権利を得ているのは神の法律からであり、
    従わなければならないのは神の法律である。
    
     このページ先頭へ
    
    Creating a dream
    
     我々の夢はトーラの法律、
    すなわち同情と親切、正義と公正、熟考と尊敬の法律、
    に従って統治される一つの世界である。
    しかしそんな夢を現実にするために、
    我々は「国々の上の光」にならなければならない。
    もしユダヤ人が「選ばれた」人々であるならば、
    それは我々がトーラのメッセージを全てに運んでいるからである。
    
     トーラは、誰もが不平を持っていなかった場所で、
     人前で公開して与えられた。
     もしそれがイスラエルの土地で与えられていたならば、
     世界の国々は言ったであろう、「この中に我々の場所がない」
     それゆえトーラは荒野で与えられた、
     人前で公開して、そして誰もが不平を持っていなかった場所で。
     それを受け入れたい人は誰でも、来て受け入れなさい。
                  [ Mechilta, Bahodesh, Yitro ]
    
    その仕事は偉大であり、我々はそれを完成する希望さえできない。
    しかし、我々の世界に神の法律をもたらす責任を、
    我々の各々が感じなければならない --- トーラを教えること、
    そして戒律に従って行動することに責任を。
    我々は、共同社会から我々を分離すべきではないだけでなく、
    そこにできる限り多く参加しなければならない、
    そしてその地の法律をトーラの戒律にますます多く順応させなければならない。
    その時には、タルムードの格言「その土地の法律は、法律である」
    に従う時に何の問題も恐れもない。
    
     このページ先頭へ
    
    Reflection
    
     ラビたちは、二つの反対する力を認めていた:
    人々が「生きたままで互いを食べる」ことがないように、政府を必要とすること。
    そして政府が神の統治の前に敬意を払う時を我々が夢見て生き続ける間に、
    権力の進行を注意深く監視する必要があること。
    
    我々の価値は、我々が通過させ従う法律の種類に反映されている。
    それゆえに、地上に神の統治がやって来るために働くことは、
    共同体から我々自身を分離しないことを意味する。
    それは、トーラの法律に対する採用を創造するために、
    共同体の中で働くことを意味する。
    それは、その土地の法律にユダヤ人の教えの価値を反映させるために、
    懸命に努力することを意味する。
    
    我々はユダヤ人として世界の中に我々を巻き込むことを要求される。
    政府の何かが悪いと感じた時、我々は立ち上がって戦わなければならない。
    また、我々が信じているところの方針にそのシステムを持ってゆくために、
    我々が住んでいる所の法律のシステムの範囲内で仕事をすることを
    学ばなければならない。
    簡潔に言うと、我々は良い市民で責任ある態度で、
    「その政府の繁栄を祈る」ことをしなければならない。
    
     ラビ・オシャヤ(Rabbi Oshaya)は教えた: 
     人間の実行において、人である王が宮殿を建てる時、
     それは王自身の技術ではなく建築家の技術で建てている。
     さらに建築家は彼自身の頭からではなく、
     従業員が煙突やドアの配置をどうすればよいか知るために、
     計画し図面を作る。
     このように、
     神は、トーラを相談相手とし、そしてその後に世界を創造した。
                      [  Genesis Rabbah 1:1 ]
    
    それと同じく、世界がいかに最善に統治されるかを知りたいならば、
    正しい世界の建築のための建築家の計画、すなわち
    「トーラの法律」を相談相手にしなければならない。
     実際に、全体の世界が基本にしているもの、すなわち
    「神一人の政府」よりも良い政府はありえない。
    
    
    このページ先頭へ
    戻りバックナンバー目次へ