When a Jew seeks wisdom 講座#13

第15章「The value of judging」

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    第15章「The value of judging:裁きの価値」

     ヒレルは言った。あなたがその人の位置にくるまでは、
     あなたの仲間を裁いてはならない。
      ( Avot 2:4)
    
    Judaismの中心の価値の一つは、賢い裁きの結果とになる正義である。
    何が正義と裁きを作るかということはとても重要なことであり、
    あなたの日々の生活の中で演じる大きな部分である。
    あなたは他の人々を裁いている。
    あなたは他の人々がどのように行動すべきかを裁いている。
    
    あなたは自分自身にこう質問する、「この人は私に公正でいるであろうか?」
    そしてあなたは「yes or no」を答えることによって一つの裁きをしている。
    あなたはこう質問する、「この人は良い親切な隣人であるのか、または彼はだましたり
    嘘をついたりするのか?」
    そしてあなたは一方あるいは他方を決心することによって裁きをする。
    あなたはこう質問する、「この人は私に公正でいるであろうか?」
    そして「yes or no」を裁くことによって答える。
    
    あなたは裁判所での裁判官の服を着ているわけではないが、毎日あなたの前に
    やって来るケースを決定する時に、あなたは心の法廷という種類を維持する。
    あなたは友人から、敵からはずっと違った種類の行動を期待し要求する。
    
    あなたは先生には公平を、
    警官には親切を、
    ラビには良いことを、
    道化師には楽しさを、
    親戚には気前良さを、
    郵便配達には信用を、
    医者には気遣いを、
    そして弁護士にはあなたの側にあることを期待する。
    

    あなたが期待したように人々が行動する時と、そうでない時との両方において、
    あなたは裁きを下す。
    
    あなたが裁きをする時に、奇妙なことが起きる:
    あなたがちょうど属しているところはどこなのかを発見するために、
    あなたは自分自身を定義し始める。
    あなたが下す裁きの各々は、あなたが知っている事、あなたが学んだ事のベース、
    およびあなたが集めた証拠に基づく。
    もしあなたが一般的に他人に公平であることを期待するならば、あなたが信じている
    価値と同様にあなたは公平さに注意を払い始めるであろう。
    あなたが他人に親切である時、あなたはあなた自身に対して親切さを評価し始める。
    もちろん、その同じことがもう一方の側の方法にもまた真である。
    あなたが他人に不公平である時、あなた自身に対して公平さを忘れ始める。
    そしてあなたのまわりの人々についてあなたの裁きが正直でなくなる時、
    あなたはすぐにあなた自身にもまた嘘をつき始める。
    
    正直に裁くことは我々が学ぶ一つのスキルである。
    我々は裁きを上手にする能力を持って自動的に生まれてきたわけではない。
    裁くことを学ぶ場合に、我々は証拠の全てを集め、それを綿密に調べ、我々の評価を選び、
    そしてそれから我々の選択に基づいて決定をすることを学ばなければならない。
    それで、この章のテーマを構成しているヒレルの話は明白である。
    
     あなたがその人の位置にくるまでは、
     あなたの仲間を裁いてはならない。
    
    これは、毎日あなたのまわりの人々をあなたが裁く場合の方法を話している。
    
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    In his place
    
    我々が他の人の位置に我々自身を置く時、すなわち彼らが物事を見ている方法で
    我々がそれらを見ようとしている時、裁きはとても複雑になる。
    しかし、もし我々がこれをするならば、その時にのみ裁きは公平になり得る。
    証拠を集めるという過程の部分において、これはヨシュヤ(Joshua ben Perahyah)が
    心に思って、こう言った。
    
     「全ての人々の気に入るように裁け」
                  (Avot 1:6)
    
    これは我々自身が裁かれたいように裁くという質問である。
    
    結局、我々は最善の可能な方法で他の人々が我々を見て欲しい、
    特に我々が行なう何かが正当な結果にならないような場合に。
    人間であることは、誤りをすることを含み、我々がやった誤りを通して学び、
    成長することを含む。
    我々の誤りのあらゆる一つが厳しく裁かれる時、
    我々は誤りをしないようにそんなに心配し始めるので、我々の成長が妨げられてしまう。
    
    それで、我々が他の人々を好意をもって裁く時、
    他の人々に「第二の機会」あるいは「不信の親切」を喜んで与える時、
    それが最善である。
    結局、これは、我々自身の行動を裁く場合に他の人々がするであろう
    と我々が期待していることである。
    
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    Gathering evidence
    
    そのこと以上に、我々は期待するのは、人々が我々のした事について裁く前に、
    彼らが我々に説明の機会を与えることである。
    これは決定をする前に証拠を集める経過を含む。
    誰か他の人の立場に我々自身を置こうとする場合に、
    なぜその人がそのような方法で行動したのかを理解するために、
    我々は可能な証拠の全てを集める努力をしなければならない。
    
    裁きが合理的な証拠に基づかない時、
    我々が事実の全てが明らかになる前に結論に飛んでしまう時、
    誤り導いた裁きがいかになり得るかについて、ラビは一つの物語を話した。
    
     昔、ラブ・アシ(Rav Ashi)がミシュナの学習を教えていた、
     そしてユダヤの王マナセの物語のところに来た。
     マナセは偶像崇拝に変わっていったと生徒たちに説明した。
     彼がマナセに生きていた時代の説明を始めた時、授業の時間が終わった。
     彼は閉じるときこう言った:
     「明日、我々はこの『賢い』人についてもっと話そう」
    
     さて伝統は我々にこう告げている。
     マナセは真に賢い人であった、しかしラブ・アシは『賢い』という言葉を
     皮肉を込めた調子で言った、あたかもマナセが本当に無知であるかのように。
    
     その夜、夢の中で、マナセがラブ・アシのところにやって来た。
     「あなたは正直に私を無知だと裁いていますか?」マナセは聞いた。
     その時に、その王マナセはラブ・アシにユダヤ律法の幾つかの難しい質問をした。
      ラブ・アシは答えることができなかったが、マナセはあざやかに答えて、
      その学識のある学者を驚かせた。
     謙遜して、ラブ・アシはその古代のユダヤの王に質問した:
     「もしあなたがそんなに学があるのなら、いかにしてあなたは偶像崇拝するように
      なったのですか?」
     マナセは答えた:
     「私と共にそこに来てみなさい。あなたは、あなたの衣のふちを集め、
      偶像を崇拝するために私の後を追ってくるであろう」
                          (Sanhedrin 102b)
    
    
    ラブ・アシの誤りは共通のものであった:
    彼は、マナセの位置に彼自身を置いて想像するような努力を実際にしないで、
    裁きを下そうとしていた。
    これは、我々が裁きをする前に事実を集めない時に起こることである。
    例えば、もしあなたが、これこれのことがそんなになったとの噂を聞いて、
    そしてあなたが聞いたことが真実かどうか質問すること無しに、
    あるいはなぜその人がそんな行動をしたのかを理解する努力を無しに、
    あなたがその人を裁くならば、あなたはラブ・アシの誤りを繰り返している。
    ラビ・イシマエル(Rabbi Ishmael)はこう言っていた。
    
     事実の全てを知らずに決定を下す人は、
     おろか者であり、邪悪な者であり、おうへいな者である。
                         (Avot 4:7)
    
    そう、ラブ・アシは学んだ。
    
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    Balancing justice
    
    真に他人の行動を理解すること、真に彼の位置にあなた自身を置いて想像することは、
    同情と慈悲を要求する。
    ベン・アザイ(Ben Azzai)は少し違った方法でこれを言った。
    
     どの人も軽蔑せずに、そして不可能なものは無いと信じなさい。
     なぜならば、彼の時間を持っていない人はいないし、
     その場所を持っていない物はないからである。
                     (Avot 4:3)
    
    人に正義をするために、我々は喜んで彼の靴で「1マイルを歩み」、
    彼を苦しめていることを学び、そして同情と思いやりをしなければならない。
    その時、正義と慈悲とは同じコインの両面である。
    両方が操作される時、社会は最善に奉仕し、最も公正に維持する。
    どっちか一方では共同体をだめにするが、
    しかし二つが一緒にになって平和をもたらす助けとなる。
    
    アボットの多くは裁きが行なわれるべき方法に関連している。
    しかし裁きの勉強は、
    法律家や裁判官になろうとする人たちだけのためにだけ意味があるのではない。
    いかに我々の友人を注意深く裁くか、
    いかに同じ裁きの行ないに於て慈悲深くあり、
    いかに我々の共同体社会が、
    神---(真実の裁きと全ての慈悲のお方)---のイメージで構築されるべきか、
    ということを我々の全てがより良く理解するために意味がある。
    
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    The poor and rich alike
    
    裁きに於て、誰かを、彼が金持ちだからより良いとか悪いとか、
    彼が貧乏だからより良いとか悪いとかを、我々は考えるべきではない。
    裁きをするような時には、人々は法律のみの基本で扱われるべきである、
    法律の前に全てが平等で扱われれるべきである。
    あるケースでどちらのパーティも他の側に反して立つべきでない、
    まさにそうすれば両者の間に違いがあらわれないようになろう、
    ということにさえ我々は、用心すべきである。
    
     昔、貧しい人が2週間後にローンを返すと約束して、裕福な商人から大金を借りた。
     2週間が過ぎ、さらにもう2週間が過ぎた、しかしその乞食は彼の負債を返さなかった。
     金持ちにとってはそれは小さな金額であったが、その乞食にとってはとても大金であった。
    
     ついにその裕福な商人はその貧乏人の住んでいる所にやって来て、ドアを荒々しくたたいた。
     「わたしの金を返してくれたかい?」と問うた。
     しかし貧乏人は答えた、「いいえ」
     金持ちは言った、「それならば、わたしと一緒に法廷の前に来なければならない、
     そして何があなたになされるか裁きが決めるであろう」
    
     すぐに町の人々は何が起こったのかを知った、なぜならば小さな町のゴシップは
     スポンジの中の水のようであり、すぐにどの隙間も満たされる。
     金持ちが貧乏人を裁きの部屋に引っ張って行く時に、
     町の全員が寂しそうな彼の後ろに行進して集まって来た。
    
     「来て法律の事例を裁いてくれ」、と金持ちは裁判官に叫んだ。
     それで裁判官は黒帽子と裁判コートを着てテーブルの前に座った。
     法廷は町の人々でいっぱいになった。
     商人がローンの事とその約束が破られた事を告げたのを誰もが聞いた。
     それから、負債を返せるほど金を増やせなかった、という乞食の話を聞いた。
    
     突然、法廷は口笛でうるさくなった。
     「その商人はお金を必要としていない」
     「彼はそれ無しで十分な金を持っている」
     「彼がそれを全て失ったとしても、それはそんな小さな額なのだ」
     「なぜ彼はその金を忘れられないのか、慈善として数えないのか?」
     しかし裁判官は「静かに!」と叫んだ、そして沈黙が満員の部屋いっぱいに広がった。
     「さあ評決を宣言する」と裁判官は言った。
     「この乞食は、ただちに彼が所有している金を返さなければならない。
      それが正義である。そして正義が要求しているところのものである」
    
     人々は驚いた。
     しかし彼らが再び口笛を始めるであろうその前に、裁判官は立ち上がった。
     彼は黒い裁判官の帽子を脱いで、それをひっくり返した。
     彼は言った、「さあ、あなたがたから慈善を集めよう。
     あなたがたのポケットに手を伸ばして、この貧しい人が負っている金を
     我々の金持ちの隣人に支払えるように、彼を助けなさい。
     それが慈悲です、そしてそれこそが慈悲が要求しているものです。」
    
    法律の冷たい現実を良い社会の暖かい生活にするのは、正義と慈善の結合である。
    そしてそれはいつもそうなってゆく。
    
    
    
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    The result of justice and mercy
    
    正義と慈悲の結合の結果は平和である。
    我々が他の人々を公平に裁き、慈悲の光で考える時、不一致の人々を平和の位置に戻してつれてくる。
    制御されていない不一致は破壊的であり、それに反して平和は基本的に創造的である。
    それゆえにラビは言った:
    
     1時間であっても真に裁きをする全ての裁判官にとって、
     それは創造の仕事の中で神のパートナーであるとして数えられる。
                          ( Shabbat 10a )
    
    裁く人が個人的な力に正義を変えてしまう時、裁きの仕事は破壊的である。
    しかし裁きが正義と慈悲の結合で公平になされる時、裁きの仕事は創造的であり
    共同体に秩序をもたらし、一緒に束ねる。
    
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    Guarding justice
    
    全てのもので最も破壊的なのは、裁きにわいろを受取り、正義をねじまげる人である。
    わいろのヒントでさえも共同体にとってたいへん破壊的であり、
    トーラの律法に従うラビはそれを禁じた、そしてそれに対しては刑罰を約束した。
    一つの助けの手でさえ、合法的にケースを裁くことから人の資格を奪ってしまう
    わいろの可能性が十分にあるとした。
    
     昔、ラビ・サミュエル(Rabbi Samuel) が渡し舟に乗ろうとしていた。
     一人の男がやってきて彼に助けの手を与えた。
     サミュエルは、なぜその男がたまたまそこにいたのか尋ねた。
     男は答えた、「私は告訴を持っているのです」
     その時、サミュエルは言った、
     「私があなたの裁判官になることは、禁じられていますよ」
                          ( Ketubot 105a )
    
    不正は共同体の幸福をそこなう。
    たとえ一つの裁判がわいろを受け取った有罪であると分かった時、
    人々は全ての裁判を疑い始め、人々の間に平和を作っていた法律が現実に無意味で、
    紙に書かれた無益な言葉になってくる。
    それゆえラビの裁きに対する資格付与はたいへん厳しかった。
    
     裁判官は、
     「賢く、つつましく、罪を怖れ、評判が良く、そして彼の隣人に人気がある人」
     でなければならない。 ( Tosefta, Sanhedrin 7:1 )
    
    そして、これらの要求が偉大に見えるけれども、
    それらが偉大すぎるなんていうことは全然ないのである。
    なぜならば裁判は神の名前で行動するために、そして神の律法と神の子供たちを
    巻き込むケースを決定するために、召集されるからである。
    それゆえ
    
     不適当な裁判に専念する人は、
     あたかもイスラエルの中央で偶像を作成しているのと同じである。
                       ( Sanhedrin 7b )
    
    ラビ・エルアザル(Rabbi Eleazar)は言っいるように、
    
     トーラの全体は正義に向けられている。( Exodus Rabbah 30:19 )
    
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    Sifting the evidence
    
    一度証拠があったとしても、裁判の仕事は簡単ではない。
    事実は時々嘘であり、誤って証明しているかもしれない。
    真実はいつでもそのように見えているものであるとは限らない。
    そして我々は、全ての目撃者と事実を受け入れる前に全体を通して調べることで、
    証拠を注意深くふるい分けなければならない。
    多くの良い探偵物語は、殺人者として一人の男を指摘した証拠の全てをもって始まるが、
    しかし物語が進むと全く他の誰かが有罪であると我々は知る。
    
    ラビは、証拠を受け入れる前に、それをふるい分ける重要性を、
    我々に警告するためのそんなケースの一つを記録している。
    
     目撃者たちが証言した、
     「手に刀を持って、ある人を追いかけているその被告の人を我々は見た。
      被害者は逃げる時に店に入った、そして被告の殺人者は彼の後を追って入っていった。
      我々がその店に入った時、被害者が床の上で死んでいるのを見た。
      被告の手には刀があって、まだ血が落ちていた」
    
     しかしその殺人者は無罪放免となった、
     なぜならば目撃者たちは殺人が起こったところを見ていなかった、
     それで彼らは絶対的な明確、被告の男が実際に犯罪を犯したことについて明確、
     ではなかった。
    
    疑いのほんのちょっとしたことでさえ、証拠のちょっとした不足でさえ、
    被告の人への味方として重みを持つべきである。
    
    我々はしばしばこれを日常の生活では忘れてしまう。
    我々は誰かについての話を聞き、それを信じ、
    それを真実かどうか調べるための苦労を少しもせずに、それを他人に伝えてしまう。
    ラビはこの風習を「第三の舌」と呼んだ、そしてまた「ラッション・ハ・ラア」
    つまり「邪悪な舌」と。
    今日、我々はそれを「中傷」と呼んでいる。
    法律は我々に人からある人へ決して運ばないように忠告している、
    たとえそれが完全な真実であるかのように見えても、
    そして我々が話しているその人が現われた時でさえも。
    
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     coffee break
    

    ラッション・ハ・ラア

    「ラッション・ハ・ラア(中傷)」については、こう言われています。  中傷する者は、三つの重罪(偶像崇拝、姦通、殺人)にも匹敵する罪に等しい。 あるいは  中傷は三人を殺す:「語り手」           「話しを聞く人」           「話題の人物」 言葉の悪用を戒めるための警告として、幾つかの話があります。  「賢人には沈黙が似つかわしいとすれば、愚者においてはなおのこと」 もう一つ、  ラビたちは、舌がいかに統制が難しいかを知っていた。  主なる神は、これに特別な制御装置を備え付けられたのだ。  主は言われた、  「人間の身体はおまえを除いてすべて垂直なのに、おまえだけは水平である。   他はすべて体内にあるのに、おまえは体外にある。   さらに、骨と肉の二つの壁をおまえにつくってやった」 つまり舌を黙らすために、唇を閉じておくように人は設計されている。  このページ先頭へ Religious awareness and mercy 裁きで思いやるということは、普通は我々の宗教的な知覚を引き出すケースである。 それは創造性、熟考、想像力を必要とする。 慈悲のない正義は、実際にたいへん厳格なものである。 生活を耐えられるようにしているのは慈悲と同情である。 帽子を脱いで、慈悲を思い悩んでいた人々から慈善金を集めた裁判官は、 論争に平和を創り出すために、彼の宗教的な知覚を使っていた。 我々は、また、正しいばかりでなく慈悲深い解を見つける能力で祝福されるのである。 しかしそれをするために、我々は想像力を使わなければならない。 慈悲は要求する:我々が公正に裁判をした後は、我々はその裁判を横に置き、 なされていまった悪を忘れること。 判決を受け入れた人、 為したところの物に対して罰金を支払った人、 刑務所で刑罰を奉仕した人、 あるいは壊された物を良くすることに同意した人は、 もはや有罪と考えられるべきではない。 いったん評決が与えられ受け入れられ、そして刑罰が終わったならばたならば、 その有罪の人をふたたび無罪な人として見るように、我々は努力すべきである。  ジュダ・ベン・タバイ( Juda ben Tabbai ) は言った。  あなたの前に、あるケースの二つの当事者が立ったとき、  彼らを邪悪な者として見なさい。  そして彼らがあなたの出席を後にして出て行く時は、  彼らを双方とも無罪な者として見なさい。  評決は彼らによって受け入れられたので。                ( Avot 1:8 )  このページ先頭へ Reflection また、この態度はもう一つのレベルで働く。 もし誰かが、あなたに対して犯した何かの誤りについて、 あなたに謝るならば、その人を新鮮な新しい人、友人として、 あなたが見るように宗教的な知覚使わなければならない。 法律の規則の目的が隣人と友人の間に平和を創り出すためにあると、 我々が憶えている限りは、 もし平和が達成されることになるならば正義と慈悲が結合されなければならない、 ことを理解することが出来る。 全て中で最も破壊的な感情は、報復が最高という心の感情である。 我々が心に密かに憎しみを抱く時、我々に「邪悪な衝動」が持ち上がる。 すぐに我々は忘れてしまう: 我々は神の創造物であり、我々の隣人もまた神の創造物である、 そして我々の敵を邪悪として見ている。 それで返報として我々が邪悪になってしまう。 侮辱されなさい、そして侮辱によって反動しないようにしなさい。 非難されなさい、そしてそれに答えないようにしなさい。 あなたが圧迫されている時でさえも、平和でありなさい。 これらが宗教的な知覚を持った人、 正義と慈悲のバランスを持った人、 最高な結果は平和な結果であることを忘れていない人、 のしるしである。 我々の全ては裁判官である。 我々は毎日、隣人や友人を裁くために呼ばれている。 我々が仲間に向っていかに行動するかの多くは、裁きの行動に依存している。 そして我々が我々自身を見ている方法の多くは、 我々が他人から要求されているところのものに依存している。 伝統は我々に、神は正直な裁判官であると教えている。 そしてまた神を、「全慈悲の神 ( the All-Merciful One ) 」と呼ぶ。  もし神が、最も厳しい正義に従って世界を裁くならば、  神の法律からちょっとでもはずれていさえすれば、  そのために世界は破壊の報いを受けるであろう。  一方、  全慈悲の神としての神の考えでのみ世界を統治するならば、  一瞬の許しを乞い、そして次の悪事に向うような悪者たちで、  世界はすぐにあふれてしまうであろう。  それで、我々が熱湯を水でバランスするように、  最も喜ばれる温かさを創り出すために、  神は正義を慈悲でバランスした。              ( Gensis Rabbah 12:15 ) 神のイメージで行動することは、 法律や正義の厳しい規則を通して裁くというだけではなく、 慈悲と親切さの暖かい手段によって裁くことを意味する。 この結合の結果は共同体にとって平和である。 我々の裁判は事実を集め、ふるいわけることを基礎とすべきである。 ある人の生まれについて、 彼が導かれた生活の種類について、 彼がしてきたことの種類について、 彼に対してなされてきたところの種類について、 我々が知るまでは彼を裁くべきではない。  昔、あるラビのグループがバーブヒン( Barbuhin ) という男から慈善を集めに来た、  しかし彼らが彼の家に寄った時、彼の息子が話しているのを聞いた:  「私たちは今日何を食べるのですか?」  バーブヒンは答えた、「市場で一番安い野菜を見つけてきなさい」  ラビたちは言った、  「我々はなぜこの男に近ずくべきなのか?   まず町で慈善を集めよう、その後で彼のところに来ようではないか」  なぜならば彼らは、彼から大きな寄付を得る希望がほとんどなかった。  しかし彼らが町から戻って、彼に「寄付を下さい」と言った時、彼は言った、  「私の妻のところに行きなさい。   そうすれば彼女はかご(1ブッシェル)一杯分のコインを与えるでしょう」  彼らは私の妻のところに行って彼女に言った、  「あなたの夫はあなたに命じた。   かご一杯分のディナールコインを寄付するように」  彼女は尋ねた、  「夫は、普通のレベルのかご一杯と言われたのですか、   あるいは山盛りの一杯と言われたのですか?」  彼らは答えた、「彼は、単に、かご一杯分と言いました」  彼女は言った、  「では、山盛りであなたがたにあげましょう。   もし夫が不平を言ったら、私自身のお金を彼に支払いますから」    ラビはコインであふれそうになったかご(ブッシェル)を運んで、  お礼を言うためにバーブヒンのところに戻ってきた。  彼は尋ねた、  「妻は、普通のレベルのかご一杯を与えたのですか、   あるいは山盛りのかご一杯を与えたのですか?」  彼らは答えた、  「我々は彼女に『単に、かご一杯分』と言ったが、彼女は山盛りでくれた。   もしあなたが不平を言ったら、彼女が自分のお金を支払うと言っていた」  彼は言った、  「実際、私はそうしたかったのだ。山盛のつもりで。   しかし、なぜあなたがたは最初に私のところに来なかったのかね?」  彼らは答えた、  「あなたの息子が食事に何を買うかと尋ね、   あなたが『一番安い野菜』と答えるの我々は聞いて、   あなたがけちくさい人だと考えたのです」  バーブヒンは言った、  「私自身に対しては、私はけちくさいが、   しかし私の創造主に対しては、私はそうではないのだ。」                        ( Esther Rabbah 2:3 ) それで、全ての事実が明らかになるまでは、裁判は公平にはなりえない、 ということがあなたには分かるであろう。 全ての証拠が集められるまで人が裁判を差し控える時にのみ、 平和の目的がかなうことができる。 それでラビ・イシマエル・ベン・ヨセ( Rabbi Ishmael ben Yose ) は言った。  裁判官は一人ではない。  神を除いては、一人で裁くことができる者などいないからである。                         ( Avot 4:10 )
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