When a Jew seeks wisdom 講座#16

第18章「The value of argument」

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    第18章「The value of argument : 議論の価値」

     天のための論争はすべて最後には永続する。
     しかし天のためでないものは最後には永続しない。
                       (Avot 5:17)
    
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    Agreement and disagreement
    
    平和に一緒に暮らすということは、我々がみんなが
    同じように着て、
    同じように感じて、
    同じように行動して、
    同じように信じて、
    同じように食べて、
    同じ時に同じ所に行く、
    これを言いかえれば我々の個性を控える、という意味ではない。
    
     我々が神の偉大さを理解できるように、たった一人の人間が創造された。
     なぜならば、人は一つの型を使って多くのコインを生産する、
     そしてそれらは全てお互いに同じである。
     しかし、神は最初の人の型を使ってあらゆる人を生産した、
     だが彼らのうちのだれ一人も彼の仲間と同じではない。
                         (Mishnah, Sanhedrin 4:5)
    
    もし我々の全てが同じであったら、それは退屈な世界になったであろう。
    我々の友人と隣人の中に新しく発見するものは何もなかったであろう。
    我々がふり向くどの場所でも我々自身の複製の人々に会うだけであろう。
    我々が知らなかった話、
    あるいは我々が認知しなかった声、
    我々が作曲できなかった音楽の新しいピース、
    我々が創作できなかった芸術の作品、
    これらは無かったことであろう。
    個性や唯一性の魔術は消えていたであろう。
    
    それと同じように、もし我々が全てのテーマについてみんなが同意するならば
    それは健康的ではないであろう。
    我々の各々が、独立であるという能力を失っている。
    そして、そのグループがすることなら何でも行なっているであろう。
    我々は、一つの共通の本能を通して全てが移動し行動するような
    働き蟻 (worker ants) のようであろう。
    
    代わりに、神は人間性の型から我々を生産した、
    それは唯一性という贈り物を我々に与えている。
    我々は感じ方において、そして我々の信じる事柄について唯一である。
    我々は物の見方や行動の仕方において唯一である。
    我々は学び教えることができる。
    我々はお互いに興味を持つことができる。
    
    我々がこの唯一性に支払う代償が「disagreement(不一致)」である。
    しばしば、他の人々が見るのと違った方法で我々は世界を見ている。
    我々は、他の人々が行動するのと同じに、いつも行動するとは限らない。
    そして、他の人々が考え行動するのは、我々自身の考え方や概念と
    いつも一致するとは限らない。
    
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    Two Kinds of disagreement
    
    そんな不一致は建設的かあるいは破壊的かのいずれかである。
    ほとんどあるいは全く理由もなく口喧嘩や殴り合い導く時は破壊的である。
    我々の不一致から、そしてそれを通して、我々が新しい何かを学ぶ、
    あるいは何かより偉大なものを築く時は建設的である。
    不一致を通して我々は平和を失ったり、お互いを失ったりすることがある。
    そして不一致を通して我々はお互いを発見したり、平和の接近を築くことが出来る。
    
    
    
    不一致のこの両面を見えるようにする良い方法は、
    我々が友人たちと行動する方法にある。
    アイスクリームの好みの種類が何であるべきかについて
    友人たちと議論する人は単なる破壊的である。
    しかし、誰か弱い者いじめしている友人たちと論争する人は建設的である。
    彼らのスポーツの好みが何であるか、髪の毛をどのようにブラシするか、
    どんな衣服を着るか、あるいは何の宗教が最良かでさえ、
    二人の友人は合意する必要はない。
    しかし不一致が学びに導くことが出来る時には、不一致は重要である。
    
    Joseph Zabara、13世紀のスペインのユダヤ人、はこう書いている:
    
     「友情は二つの体の中にある一つの心である」
    
    もしあなたの友達が真の友人であるならば、あなたが正直に考えや行動に
    不一致になった時でも、あるいはあなたが違った方法を選んだ時でも、
    彼の(彼女の)友情を失うことについて心配する必要はない。
    そしてあなたが真の友人である時、あなたは不一致の時に離れて行くよりも
    あなたの友情にもっと気を使う。
    「私があなたにしてもらいたいことをあなたがしないならば、私はあなたの友達
    にはならないよ」と言うような人は、友達になるほど重要な人ではないのだ。
    
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    In the community
    
    われわれの共同体社会でもまた一致と不一致の両方がある。
    人々は同じ事を信じるのに違った方法を選択する。
    正当派(Orthodox)、
    保守派(Conservative)、
    改革派(Reform)、のユダヤ教がある。
    我々は各個人として、我々の必要性と信念に従って、
    どのユダヤ教の分派に参加するかを選択する。
    しかし全てはユダヤ人であり、全て同じ目的を探している。
    我々は全て一つの大きなグループのメンバーであり、
    そのユダヤ民族というグループは我々の分離した信念や方法の全てを
    包むほど十分に大きい。
    
    我々が正当派、保守派、改革派といったような差に注目する時は、
    我々は最も高い目的を見失ってしまい、
    陶器のカップの壊れた破片のように散らばってしまう。
    我々の差を、互いに助けるように、
    そしてちょうどそのカップが一つになるには把手と底と脇面の必要であるように、
    我々を接近させるのがより良いことなのだ。
    
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    Room for disagreement
    
    幾つかの不一致は良いものである、とラビは我々に教えた。
    不一致が「天のため」である時、それは良いもので、そして良い結果に導くであろう。
    一つの例として、
    彼らはヒレル(Hillel)とシャマイ(Shammai)の間の不一致を指摘した。
    
    シャマイとヒレルは夫々が学問の流派を形成していた。
    シャマイ派はシャマイの家、ヒレル派はヒレルの家として知られていた。
    両派では、トーラの学習に添って口伝の伝統(Oral Tradition)が教えられていた。
    しかしヒレルとシャマイはたいへん違った先生であった。
    
     こんな物語が話された。
     ある不信仰者がシャマイの所にやって来てこう要求した:
     「片足で立っている間に(すなわち短い言葉で)トーラのすべてを教えてくれ」
     シャマイは、この不信仰者をその時に持っていた木の棒で追いやった。
     その不信仰者はヒレルの所にやって来て同じ要求をした。
     ヒレルは答えた:
     「あなたがいやなことをあなたの隣人にしてはならない。
     これがトーラの全てであって他は補足である。さぁ来て学びなさい。」
                             (Shabat 31a)
    
    シャマイは不信仰者に対してトーラを水で薄めるのを拒否した、
    それは良い理由だった。
    トーラはたいへん複雑であり、
    その深さの全てを理解するにはとても大きな勉強を必要とする。
    シャマイは不信仰者にトーラの勉強が重大であることを知らせたかった。
    それで、不信仰者がトーラを冷やかしたと彼が感じたので、
    彼はその不信仰者を冷やかす格好で追いやった。
    
    ヒレルは性格がよりソフトであった。
    彼の親切さと忍耐強さには多くの話がある。
    彼は不信仰者から冷やかされた質問を受けて、全て重大としてそれに答えた。
    
    彼ら自身のそれぞれの方法は正しかった。
    しかしヒレルの答えはたいへんに才気があり明確であったので、今日でさえ
    トーラの生活の精神を良くまとめているとして、我々はそれを引用している。
    しかしながら、シャマイの反応もまた一つの答であった。
    そして今日でさえ、人がラビのところにやって来てユダヤ教への改宗をたずねた時、
    改宗するにはユダヤ教の勉強は重大であることを知ってもらうために、
    ラビはまず最初に落胆させようとしなければならない。
    それで我々は両者の答えが、不一致ではあるが、正しかったことが分かる。
    
     賢者たちが学問の家に入って行くときは、トーラの議論で占領される。
     一人がその意味はこうだと言う、もう一人がその意味はあれだと言う。
     一人がこんな意見を与えると、彼の仲間が違った意見を与える。
     しかしトーラは全て「一人の羊飼いから与えられた」、
     そして羊飼いであったモーゼは、世界で唯一の主(神)から教えを受けた。
                         (Pesikta Rabbati 8a)
    
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    For the sake of Heaven
    
    建設的な不一致は、
    我々の「悪の衝動」をいかに良い目的に変えることができるか、
    という良い例である。
    全ての不一致は「悪の衝動」で始まらなければならない、
    なぜならば他人から我々を分けるのはこの衝動だからである。
    しかし我々が議論を建設的な使用に向ける時、我々の議論の結果として
    我々が何か新しいことを学びまたはより良いものを建設する時、
    その時は我々は「天のために」行動していると言う。
    
     天のための論争はすべて最後には永続する。...........
     そんなのがヒレルとシャマイの間の不一致であった。
                        (Avot 5:17)
    
    建設的な不一致において起こるところのものは、我々が不一致を始める
    「悪の衝動」と、不一致を平和に戻すよう導く「善の衝動」とのバランス
    に成功しているということである。
    なぜならば、我々を互いに近くに引きつける助けをしているのが
    「善の衝動」だからである。
    
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    The two extremes
    
    「善の衝動」だけが存在している時は、不一致というのは起こらない。
    しかし何の議論もないところには何の成長もないし変化もない。
    我々が他から自由になることを学ばないならば、それらにいつも従属するであろう。
    我々は皆が、決してそむかずに、議論せずに、質問しない、
    そんなよい子(goody-goody)を知っている。
    そんな人々の危険は、彼らが自分自身のために考えることを学ばないかもしれない
    ということ。
    質問することや疑問は知恵の始まりであり、不一致は成長にとって必要である。
    
    しかし「悪の衝動」で始まってそして終わるような不一致は
    有用な代わりに破壊的である。
    最後には、それらは永遠の結果には導かない。
    我々は皆、時々そんな議論を経験をしたことがある。
    おそらくあなたは両親と口論したことがあり、そしてあまりにも怒ったために、
    最初の場所で何について議論したかをあなたは実際に忘れてしまっていた。
    あなたは、たとえ得るべき永遠の結果がないと知っているのだが、
    口からつばをとばして口論し、彼らに言うために言葉を出していただけである。
    「悪の衝動」を制せずにいることは、
    「天のため」でないようなそんな議論の結果にしてしまう。
    
    最善の道は、その二つの極端の間にある道である。
    「悪の衝動」で始まる不一致は、「善の衝動」の混合を通して、
    役に立つ目的に変えることができる。
    両方が使われ制御される時、その結果はとても永遠で良いものになるかもしれない。
    建設的な不一致は友情を作り、共同体を強くすることができる。
    これらの不一致は、我々の世界の中で新しい洞察を我々に与えてくれる、
    そんな新しい概念と理論の公式になることができる。
    
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    Destructive disagreement
    
    アボットはまた破壊的な不一致の話をしている。
    
     天のためでない論争はすべて最後には永続しない。...........
     そんなのがコラと彼の仲間全ての不一致であった。
                         (Avot 5:17)
    
    コラ(Korah)と彼の仲間全ての不一致が天のためでなかった、
    というのを我々はどのように知るのであろうか。
    その一つの手がかりは、コラについて言われるその方法の中にある。
    ヒレルとシャマイとの間の長い論争の話の場合は、
    アボットは両者の名前を述べている。
    しかしコラの反逆の場合は、コラと彼の仲間の側のみが述べられている。
    
    ラビたちは我々にこのように教えていた:
    二つの側が開かれて不一致、すなわち各々の側が相手の議論に耳を傾け互いに応答する、
    そんな時の不一致にのみ天のためになり得る。
    これはヒレルとシャマイとの間の議論の場合である。
    
    しかしコラは耳を閉じたままモーゼに耳を傾けた。
    彼はモーゼの言葉に少しも注意をしなかった。
    コラにとって、不一致は彼がリーダになる手段であった。
    コラは、彼の議論が真実か嘘かには興味が無く、彼の側が勝つこと
    を見ることにのみ興味があった。
    我々が議論の相手側に耳を傾けるのを止めてしまう時、
    我々は正直に不一致をすることを止めることであり、
    利己的に不一致をすることを始めることである。
    
    このことは個人に対してと同様に、共同体社会に対しても同じである。
    アボットでは、「コラと彼の仲間全ての」と述べていることに注意。
    そしてグループに関してラビたちはこう言った:
    
     天のための集団はどれも最後には永続する、
     しかし天のためでない集団はどれも最後には永続しない。
                        (Avot 4:14)
    
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    coffee break

    本文の中に「コラ(Korah)」という人物が引用されていますが、 少し説明を加えておきます。 民数記16章に「コラの反乱」の話があります。  民数記16:1  コラは、ダタンとアビラムとオンと組み、  集会の召集者である共同体の指導者250名の名のあるイスラエルの  人々を仲間に引き入れ、モーゼに反逆した。  彼らは徒党を組み、モーゼとアロンに逆らって言った。  「あなたたたちは分を越えている。   共同体全体、彼ら全員が聖なる物であって、主がおられるのに、   なぜ、あなたたちは主の会衆の上に立とうとするのか」  ...  民数記16:8  モーゼはコラに言った。  「レビの子らよ、聞きなさい。   イスラエルの神はあなたたちをイスラエルの共同体から取り分け   られた者として御自身の側に置き、主の幕屋の仕事をし、   共同体の前に立って彼らに仕えさせられる。   あなたたちはそれを不服とするのか。...   その上、あなたたちは祭司職をも要求するのか。   そのために、あなたとあなたの仲間はすべて、主に逆らって終結したのか。   アロンを何と思って、彼に対して不平を言うのか。」  ...  民数記16:16   モーゼはコラに言った。  「明日、あなたとあなたの仲間はすべて、アロンと共に主の御前に出なさい。   あなたたちは、各々香炉を取りそれに香を載せ、主の御前に持ってきなさい。    各々一つづつ、250の香炉を持ち、アロンも各々自分の香炉を持ってきなさい」  彼らは各々香炉を取り、それに炭火を入れ、香を載せ、  モーゼとアロンと共に臨在の幕屋の入り口に立った。  コラは共同体全体を集め、臨在の幕屋の入り口でモーゼとアロンに相対した。  主の栄光はそのとき、共同体全体に現われた。  主はモーゼとアロンに仰せになった。  「この共同体と分かれて立ちなさい。私はただちに彼らを滅ぼす。」  彼らはひれ伏して主に言った。  「神よ、...  ...  民数記16:31   彼らの足元の大地が裂けた。  地は口を開き、彼らとコラの仲間たち、その持ち物一切を家もろとも呑み込んだ。  ...また火が主のもとから出て、香をささげて250人を焼き尽くした。 この聖書の物語からは、コラがどんな悪人であったかは読めませんが、 ユダヤ人の伝承では、以下のような、悪人の代表格としてよく引用される人物です。  コラは、大衆をたくみに操る扇動家の典型である。  賢者たちはこう問い直し議論している:  「もしコラの動機が良いものであったならば、なぜ悪い結果が生じたのか」  そして、コラは出エジプトの前には、エジプトの王パロの高級官僚であり、  莫大な富を築いていた金持ちのユダヤ人であった、とも信じられている。   このような背景を知っておくと本文の理解がし易いと思います。  このページ先頭へ The community and results 「コラの仲間」のような人々のグループが、嫉妬、恐れ、嫌悪、利己主義 あるいは「悪の衝動」の他の変装の一つから単に一緒に来るときはいつも、 彼らの共同体はほんの短い期間続き、そして真にはそこから何も来ない。 ラビたちは我々にこう言っている: コラの仲間のどの人もただ一つの理由でしかなかった、 それは位の高い祭司になることであった。 さて、ただ一人の位の高い祭司であるということから、 もしコラの仲間が力を持つようになったとしたら、 その共同体がどのようになったであろうか我々は想像することができる。 しかし、集団が天のために一緒に来る時は、一緒に働き、最後には永続する。 これのよい例は、慈善組織、大学や専門学校、サービス組織、共同体の代理店、 宗教学校、シナゴーグや教会、そして若者のグループである。 そんな集団が、不一致や議論に開いた耳を保ち、そして彼らの真の目標や目的に 目を保つことを忘れないでいる限りは、彼らは我々によく奉仕し、 そして永続する結果を我々に与える。 集団の中で天のために最も重要なことは、 開いた考え、そして計画するための場を与えることである。 正直な人々がお互いに顔を合わせ、我々全てに関係した実際の問題 ---我々の社会と我々の時代の問題---を議論する状態にある時、 我々は永続する結果を望むことができる。 我々の各々が自分の特別な考えを他の全ての人の考えとシェアすることで、 我々は一緒に学びそして成長することを望むことができる。  このページ先頭へ Reflection 「天のため論争はすべて最後には永続する」、この事の真実は、 良い議論とは生活の我々の道の根源に近づく議論である、ということである。 我々が良いことと邪悪なことの意味を討論し熟考する時、 それは数世紀の間正直に直面してきて、そして将来にも直面し続ける であろう不一致を我々は取り上げている。 我々が真の友人と嘘の友人の差を考え、そしてどっちの友人が真で、 どっちの友人が嘘であるかを議論する時、一人の人間としての我々の生活の 内部構造の一部分であるところの不一致を我々は取り上げている。 我々の敵を傷つけるか否か、 困っている人々を助けるか否か、 不正に対して思い切って言うか否か、 慈善を与えるか否か、 これらを討論し熟考する時、 我々のユダヤ人の共同体の価値に基づいた不一致を取り上げている。 これらの質問はしばしば答えることができない。 我々は議論をするが、しかし我々はそれら全体を解決することはできない。 我々は同意するために同意することによって単純に解決することもできない。 「なぜ邪悪な人々がそんなに頻繁に後続するのであろうか」、 というような答えられない疑問の場合には、我々の不一致は別の種類の結果に導く。 不一致によって、我々はその質問を生かして保つ。 我々はそれを共通の場に持ち上げ、そして重要な発行物にする。 我々は他の人々にそれを考えさせてそれに答えをさがさせる。 我々の不一致の結果は真実を探すための努力である。 この探すことの雰囲気を創ることによって、何が天のためであって、 何がそうでないかを決定するために探索し続けることによって、 我々の気持ちを将来に向けて維持する。 我々に可能なことが何かについて、そして全ての人々がお互いに関係している 我々の世界を一つにするためには我々は何をするかについて、我々の目を広く開く。 天のための不一致は、その時、我々を一緒により近付けるよう働く。 それは我々を再び一つにすることを助ける、それはちょうど神が我々を 神のイメージに創造した時の瞬間に我々がそこにいたかのように。 こんな理解があった。 不一致は、より偉大な一致を導くことができる、 そしてラビにこんなことを言わせた真実の発見を導くことができる: 「これらとあれら(天のための議論の双方の意味)は、  どちらも生きている神の言葉である」(Erubin 13b)

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