When a Jew seeks wisdom 講座#17

第19章「The value of Torah」

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    第19章「The value of Torah : トーラの価値」

     ラビ・エリアザル・ベン・アザリア(Rabbi Eleazar ben Azariah)は言った。
     トーラがないところには作法はない、そして作法がないところにはトーラはない。
     .........
     小麦粉がないところにはトーラがない、トーラがないところには小麦粉はない。
                                 [ Avot3:21 ]
    
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    Religion and mankind
    
     ラビ・エリアザルの言うことは奇術師の演技のようである。
    奇術師の手のちょっとした動きだけで、ボールが空中に浮いているようにも、
    そして突然動きだすようにも見える。
    同じように、エリアザルはトーラと作法、トーラと小麦粉の考えで奇術をしている。
    
    「小麦粉」という単語から、彼が象徴的に言っているということを、
    我々は知っている。
    小麦粉は我々にとって毎日のパン、我々の身体のえさ、を代表する。
    トーラは、比較して、我々の精神---我々の宗教---のえさを代表するにちがいない。
    
    同じことがトーラと作法との間に比較される。
    ここでは、作法は我々が選んだ生活の毎日の方法を代表する。
    トーラは、我々の最も高い標準、我々のゴール、我々の道徳、
    我々の法律---再び我々の宗教---を代表する。
    
    もちろん、作法には良い作法あるいは悪い作法がある。
    我々がただ単語「作法」を使う場合は、我々はいつも
    「良い作法」---他人への振る舞いに、敏感でそしてあわれみ深い方法---
    について言っている。
    
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    A world wiyhout Torah
    
     我々は人々がこう言っていることをしばしば聞く:
    良い作法を持つことは、ひとりの人が世界を平和な場所にする必要がある、
    それが全てである。
    人々はこう言うかもしれない、
    「ユダヤ人であることは、世界の他から私をただ離しているに過ぎない」
    あるいはこう言うかもしれない、
    「私はただ人間になりたのだ」
    
    これらの人々が忘れていることは、
    ただ「人間(human)」であるという自然の状態が動物の状態であることである。
    それはほとんど永続的に生き残る種類の状態ではない。
    我々のほとんどの人間では、我々はほとんど野生の動物のようである:
    餓えた時には互いに戦い爪でひっかく、そして親切に対して邪悪をもって応じる。
    良い作法は立派である、しかしトーラの保護なしでは、我々を案内する法律なしでは、
    それら(良い作法)は我々の動物の状態から十分遠くに我々を移動させることはない。
    ラビはこのことを示すために、老人と蛇の物語を話した。
    
    
     ある寒い日に、老人が彼の暖炉を離れて彼の野原を歩いていた。
     彼の手には棒を持っていた、荒れ地で彼を助けるために使い、
     そしてまた野の獣から保護するために使った。
     彼が歩いていた時に、道の脇の地にとても静かに横たわっている蛇を見つけた。
     彼は棒を上げそれを殺そうとしたが、しかし蛇は動かなかった。
     その時、蛇は寒さで凍ってしまっている、とその老人は悟った。
     
     老人はその蛇がかわいそうに感じた。
     彼は地面から蛇の凍った身体を持ち上げ、彼自身の身体に接近させて暖かく保った。
     すぐに蛇はより強くなったが、まだ弱いふりをしていた。
     それから、突然、蛇は老人のまわりに巻きついて彼を締め始めた。
     
     老人は恐れて叫んだ、
     「おまえは私を殺したいのか?
      私はちょうどおまえの命を救ったのだ。おまえは感謝をしないのか?」
     蛇は笑った。
     そして言った、「トーラは言っている、蛇は人間のかかとを傷つけるであろう。
     私はあなたを殺さなければならない、それが人間に対する蛇の方法である」
     老人はひどく恐れた。
     彼は蛇に嘆願した、しかし蛇は笑った。
    
     その時、老人はこのケースを裁くために法廷に行くよう要求した。
     「誰が裁判官になるのか?」、蛇は答えた。
     「さぁ道に添って歩こう」、彼は言った、
     「そして最初に会った者が裁判をするのだ」
     蛇は勝つ確信があったので一緒に行くことに同意した。
     それで彼は、なおも彼に堅く締めつけている蛇とともに、道を下って行った。
    
     一日中歩いた後、道で、老人と蛇は休んでいる強い牛に会った。
     老人はその牛に近づいた。
     「私を殺すことは悪いことだ、と蛇に言ってくれ」、と彼は言った、
     「私はちょうどこの蛇を助けた、そして共通の作法では、
      蛇が今度は私を助けるべきである、と言っている」
     「トーラの中で、蛇と人間は敵である、と言う。
      それゆえに私が彼を締めつけて殺すことは正しいはずだ」、蛇は答えた。
     その牛は蛇に同意した。
     「あなたは親切な行為をした。
      しかし蛇は邪悪な行為でそれに報いなければならない。
      この世界では、我々はいつも善を邪悪で報いるのだ」、牛は答えた。
    
     蛇は老人を強く締めつけた。
     しかし老人が痛さのため大声で叫び始めたちょうどその時に、
     ロバがたまたま通りかかった。
     「そのロバに裁いてもらおう」、老人は痛さで曲がった歯の間から声を出して言った。
     蛇は微笑んで、そしてふたまたに分れた舌をちらりと見せた。
     そして、いきさつが再び話された時に、そのロバは蛇に同意した。
     「善を邪悪で報いるのは自然な方法だ」、ロバは追加した、
     「それが動物の方法なのだ。
      最も強い者が一番良い者だ。
      つめやきばの現実の世界において、使う方法に何があるというのか?」
     「これは公平な裁判ではない」、老人は言った、「もう一回裁く機会をくれ」
    
     空には太陽がほとんど沈みかけていた。
     エレサレムの町の影が長くなった、そして丘の頂上の向こう側が暗くなってきた。
     「見よ、もう遅い」、蛇は言った、
     「あなたが私を助けてから何も食べていないのでおれは腹がへった。
      これが最後の裁判だ、そしてあなたは死ぬのだ。」
     彼らが最後の裁判官を探して道を下っている時に、道の脇に奇妙な光景が現われた。
     一人の高貴な若者が大地の大きな穴の近くに立っていた。
     その若者はとの穴の中に彼の美しい杖を落としてしまったのだ。
     彼は召し使いたちにその穴に水を満たすよう命じた、そして彼らがそうした時に、
     杖は上に浮いてきた、そしてその若者はそれを簡単に手にとった。
    
     「これは賢い人だ」、老人は言った、「彼を最後の裁判官にしよう。」
     「そうしよう」、蛇は言った。
     若者はその二つの話しに耳を傾けた。
     老人は、いかにして蛇の命を助けたか、を細かく説明した。
     蛇もまた、老人を殺すことが自分の義務である、と説明した。
     「まず」、若者は蛇に言った、
     「おまえは老人から降りなければならない、なぜならばトーラの中で言われている:
      二人が裁判をしている時は、どちらも有利であってはならない」
     「さて」、若者は蛇に質問した、
     「おまえの命を助けた老人をなぜ殺したいのか?」
     「それはトーラの中で言われている」、蛇は言った、「おまえは男のかかとを傷つけよ」
    
     「それはまたトーラの中で言われている」、その若い裁判官は言った、
     そして老人の方に向いて、「男は蛇の頭を打ちたたけ」
     老人は、彼がいつでも持っていた杖を上げた。
     彼は蛇の頭をたたき、それを殺した。
    
     「今わたしは理解した」、老人は若者に言った、
     「世界には作法がないのだ、トーラの法律によって保護されている作法を除いては」
     この高貴な若者は微笑んだ。
     彼はエレサレムのダビデ王の息子、ソロモンの十代の若者以外の何者でもない。
                            [ Tanhuma Buber ]
    
    
    良い作法を持つことは、人間であることの一つの精練である。 
    しかし作法を持つことは、それを支援するゴールや価値を持つことを我々に要求する。
    映画館でチケットを買う列を考えてみなさい。
    我々がチケットを買う場合に観察する作法は命じている:
    最初にやってきた人が最初に奉仕されるべきであり、
    その後に来たすべての人が順番に奉仕されるべきである。
    我々はみんな忍耐強くはない、我々はみな次になりたいと思っている;
    それでもなおも、我々は良い作法を現わし、そして我々の順番を待つ。
    誰かが列に「割り込む」時、あるいは誰かが我々の前に押して入る時、
    その時、我々はいらいらさせられる。
    我々は彼がフェアではないと言う、
    しかし我々は「彼が人間である!」ということには同意しなければならないでろう。
    
     法律は我々を保護する、その国の法律ではなく、確かに、
    チケットの行列に割り込む人を禁止する特別な法律は、あったとしても
    ほとんどの国にはない;しかし我々の宗教の法律にはある。
    トーラの中で、
    我々が自分自身を愛すると同様に他人を愛しなさいという戒律、
    そして全ての人は平等に造られているという教え、
    を我々は持っている。
    トーラは善い作法への我々の案内であり、悪い作法からの我々の保護である。
    
    それでラビ・エリアザルの教え、「トーラがないところには、作法がない」
    我々はそれをこう読める、
    
     我々の行動を制御するための一連の標準と価値観を、
     我々に教える宗教または伝統がないところには、
     我々の行動は他人の必要の思いやりがないであろう。
    
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    Where there are no manners ...
    
     タルムードの賢者の一人は我々に教えた:
     トーラをたくさん勉強して、戒律を理解し愛している人、
     しかしそれによって生活していない人は、たずなを持っていない馬のようである。
     トーラはほんの短い間は馬の上に乗っている、
     しかしすぐに馬はその騎手を頭から投げ出してしまう。
    
     その反対に、トーラをたくさん勉強している人、
     そしてトーラを実践している人は、たずなを持っている馬のようである。
     その騎手、トーラ、はこの馬をあちこちに導き、
     そしてその馬は喜んでその指導を受ける。
                 [ Avot de Rabbi Natan 24 ]
    
    ラビ・エリアザルの教えの第二の部分、「作法がないところには、トーラがない」、
    これは実践の生活が先に来なければならないことを、我々に告げている。
    もし人が法律によって喜んで生活しないならば、
    トーラはほとんど役に立たないであろう。
    もし人が、世界の中に作法の必要性があると決心する時のみ、
    その人はトーラの使用法を見つけるであろう。
    
    それで、まず最初の段階はこうである、
     「神の視点で正しいことをすること」
             [ Exodus 15:26 ]
    
     すなわち、何がビジネスあるいは売り買いで正しいことか。
     それであなたはこう学ぶであろう:
     真実で正直にビジネスあるいは売り買いを振る舞う人、そして他人を喜ばす人、
     その人はトーラ全体を満たしたかのようにみなされる。
                      [ Mechilta, Vayetze, Beshallah ]
    
    人が、他人の善い作法に従うことによって、単純にその神の法律を守る時、
    その時、彼の行動はその法律のために行動している人の行動と同じように、
    どの点からみても善い。
    このように、
    グループが、善い生活をするために最も無知の人でさえ助けることができる。
    勉強している我々の人々が、そうしていない人々のための一つの例を提供する。
    
    トーラを勉強してきた人が、敏感さを持たずに行動したり、あるいは
    トーラの原則い従って行動することに失敗しているのを我々が見る時は、
    我々はこう言う気になる:
    「それには私の行動の仕方と何の違いを作っているのか?」
    しかし、トーラを勉強してきた人が、親切な方法で行動していて、
    彼のまわりの人々に幸福をもたらしているのを我々が見たその時、
    我々はよくこう言うのを好む:
    「私もまたそういう風に行動しよう」
    これは、ラビが我々に教えた、人間のもつ自然の方法である。
    
     こう言われている、
     (モーゼの兄)アロンが道にいた時に、
     邪悪であるとして知られている男に会った、
     彼はその男に「あなたに平和を」といつも挨拶をしていた。
    
     その次の日、その男が邪悪なことをしたくなった時に、彼は言った、
     「もし私がこれをしたならば、
      私は目を上げてアロンを見つめることができるであろうか?
      私は彼の前に恥じるであろう、なぜならば彼は私に平和の挨拶をくれるから」
     それでその男は邪悪をすることから戻ってゆくようになった。
                      [ Avot de Rabbi Natan 12 ]
    
    しかし作法はどのようにトーラに導くのであろうか?
    これの最善の例は、我々がこの本の第1章で勉強した物語の中で示めされる
    --- シメオン(Simeon)と真珠の物語である。
    最後に、シメオンが真珠をその正しい所有者に返した時に、
    その所有者はシメオンの作法によって感情が圧倒された。
    そしてその驚かされた所有者の答えは:
    「シメオン・ベン・シェタ(Simeon ben of Shetah)の神を誉め賛えよう」
    
    シメオンと共に、そしてアロンと共にいるように、
    我々の作法がトーラを基本としている時、その作法は他人をトーラに導く。
    それでラビは教えた:
    
     人にまず最初に善い行ないをするようにさせなさい、
     そうしてそれから、神にトーラの知識を質問するようにしなさい。
                   [ Tanna de be Eliezer, p.31 ]
    
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    Where there is no flour ...
    
    ラビ・エリアザルの言うことの最後の部分は格言として有名になっている。
    それはこう始まる、「小麦粉がないところにはトーラがない、....」
    
    他の伝統の中で平行に言われる、
    ヒンズー教の先生であるVivekananda (1863-1902) は言った、
    「最初にパン、そして次に宗教。
     空腹の熱望を満足する教義はないであろう」
    
    もちろん、ラビ・エリアザルはおそらく心の中にもっと何かを持っていた。
    人は勉強するために食べなければならない、ということは真実ではあるが、
    我々が言ったようにエリアザルは象徴的に話していた。
    
    貧乏の真っただ中では、
    人はその瞬間の必要性のことのみを強制的に考えさせられる。
    死に至る飢えの可能性に直面した時、
    作法や価値観あるいはトーラのための時間はない。
    人は、僅かな必需品---食料、衣服そして家---に関心を集中することに
    自分自身を落としめる。
    我々は、貧乏人にヘブライ語を教えること申し出ることによって、
    たとえもし彼がユダヤ人であっても彼を助けることはできない。
    我々は最初にもっと基本的な種類の援助を申し出なければならない。
    
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    Where there is no Torah ...
    
    しかし貧乏の種類以上のものがある。
    ラビ・エリアザルが「小麦粉がないところにはトーラがない」と言った時、
    我々が彼の心の中に持っていたところのことを理解するようになった時に、
    テーブルの向きが変わり、
    彼は続けて言う、「トーラがないところには小麦粉はない」
    そしてここには新しい種類の貧乏がある、
    食料のはく奪ではなく、トーラのはく奪である。
    
    トーラなしでは、我々の生活は貧しくなるであろう。
    我々は精神の飢えに苦しむであろう。
    トーラは世界にそんな豊かさを提供している、
    我々が「トーラの冠」として話すような、それを祭司の冠、王国の冠と比較する。
    
     ラビ・シメオンは言った、三つの冠がある:
     トーラの冠、
     祭司の冠
     そして、王国の冠である。
     しかし、良い名前の冠はそれら全ての上にある。
                 [ Avot 4:17 ]
    
    シメオンはいかにして言うことができるのか、
    三つの冠があり、それから名前が、四(番目の冠)なのか?
    答えはこうである、トーラの冠から良い名前の冠が流れ出る。
    
    なぜそれは祭司の冠からは来ないのか?
    祭司はアロンと彼の仲間の家系に直接に参照しているために、
    それは誰にでも開かれているのではない。
    
    同じことが王国の冠にも真である、それは王たちにのみ許されている。
    祭司の冠のように、この王族の冠は来ては行ってしまう単なる地上の力の問題である。
    
    しかしトーラの力は永続する。
    それは全てに開かれている。
    各々そしてどのイスラエル人もがトーラの冠をかぶることが出来る。
    全てがそれを勉強するために招待される。
    全てが毎週毎週それを読み聞くように要求される。
    人はトーラによって知恵を獲得する。
    そしてトーラの勉強を通して、人は独力で良い名前を創造する方法を学ぶ。
    
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    Reflection
    
    作法を通して、我々は独力で「良い名前の冠」を創造する。
    そして我々の作法は人間であることの事柄だけではない。
    それらは我々人々の学びと教えとから引き出される。
    我々の作法はユダヤ人の作法である。
    我々の行動を通して、我々はそれらを世界に自由に(at large)表現する。
    
    しかし我々がこれらの作法を表現することが出来る前に、
    我々はそれらを知らなければならない。
    我々は学ぶために待つことができない、我々の勉強は今始まらなければならない
    ---今、精神と心が渇望している時に。
    もし我々がそれらが餓死するまで待つならば、
    我々はあんまり長く待ちすぎてしまうであろう。
    それで、世界の全ての大多数が飢えいるような精神の貧乏を、
    我々は避けなければならない。
    
    もちろん、あなた自身はそれについて何かをすることを決心しなければならない。
    あなただけがトーラを、あなたの心の精神を養う小麦粉にする選択ができる。
    そしてこれをする方法はトーラを「勉強する」ことによってである。
     
     「それをしっかりとつかむ人には、生命の木となって」
                      [ 箴言 3:18 ]
    
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    coffee break

    この章の冒頭にある、ラビ・エリアザル・ベン・アザリアの言葉は、 一部が省略されています。 これをAvotの原文から補っておきます。  トーラがないところには作法はない、そして作法がないところにはトーラはない。  知恵のないところには神への畏れはない、神への畏れのないところには知恵はない。  知識のないところには理解はない、理解のないところには知識はない。  小麦粉がないところにはトーラがない、トーラがないところには小麦粉はない。                              [ Avot3:21 ]  さて、話は飛躍しますが、 なぜ神はイスラエル人にトーラを与えたのでしょうか? こんな伝説を紹介します。  創造主、神は、トーラを授けるべく世界の民族に啓示を行った。  まず、エサウの子孫のところに行って、  「おまえたちはトーラを受け入れるか」とたずねられた。  それには何が書いてあるのか、との彼らの問に対して、  神は、「殺すなかれ」とある、と答えられると、  「その人たちと彼らの父は人殺しでした。    『手はエサウの手.....おまえは剣をもって世を渡ることになろう』(創世記27:40)   とあるとおりです」、と彼らは答えた。  今度は、アンモン人とモアブ人のところに行って、  「おまえたちはトーラを受け入れるか」とたずねられた。  それには何が書いてあるのか、との彼らの問に対して、  神は、「姦淫するなかれ」とある、と答えられると、  「我々の民族は不倫のかたまりみたいなものです。     『こうしてロトと二人の娘たちは父によってはらんだ』(創世記19:36)   とあるとおりです」、と彼らは答えた。  今度は、イシマエル人のところに行って、  「おまえたちはトーラを受け入れるか」とたずねられた。  それには何が書いてあるのか、との彼らの問に対して、  神は、「盗むなかれ」とある、と答えられると、  「我々の先祖は盗みを生業としていたのです。     『彼は野生ロバのような人になり、その手はすべての人に逆い』(創世記16:12)   とあるとおりです」、と彼らは答えた。  神は、ありとあらゆる民族のところに行って、  「おまえたちはトーラを受け入れるか」とたずねられた。  『他のすべての王はあなたに感謝するでしょう。   彼らはあなたの口のもろもろの仰せ聞いたからです』(詩編138:4)  とあるからである。  ノアの子らが受け入れ七つの戒律ですら彼らは守りきれず、  これをイスラエルにやった。    ---- これは「申命記スィフレ343節」よりの引用 --- もし神の啓示をどの民族も受け入れなかったならば、 創造の目的は達せずに、全人類は抹殺されていたことであろう、 というのがラビたちの思想です。  これは果樹園を持っていた王にたとえられよう。  彼はこれを管理人に任せてどこかに出かけた。  しばらく後に果樹園に出てみたところ、  いばらやあざみがぼうぼうと生えていたので、人をやって下払いさせた。  その中に見事な一輪のばらが目にとまったので、  これを手折ってその香をかいでみたところ、生き返る心地がした。  このばら一輪のために果樹園全体をこのままにしておいても惜しくない、  と思った。  同様に、全宇宙もトーラのために創造されたのである。  二十六世代のちに、創造主の神が世界を覗いてごらんになったところ、  そこはいばらやあざみだらけであった。  そこで、「主は洪水の上に座し」(詩編29:10)と書いてあるように、  この世界を滅ぼそうとなさった。  しかし、そこに一輪のばら、すなわちイスラエルが主の目にとまった。  彼らこそは、将来シナイ山の前に立って、主に向って  「わたしたちは主が仰せられたことをすべて行い、守ります」(出エジ記24:7)  と言うような民族であった。  そこで神は、イスラエルのために全世界を助けてやるだけの価値がある、  と仰せられた。    ---- これは「レビ記ラバ23:3」よりの引用 --- もしイスラエルの民が、神の啓示を拒否していたならば、 エジプトを脱出後、荒野で死に絶えていたことであろう。 ラビのこんな話もあります。  創造主の神は、シナイ山を巨大な容器のように彼らの頭上におおいかぶせて、  もしおまえたちが受け入れるならばよし、  さもなくばこれがおまえたちの墓場となろう、  と宣言された。     ---- これは「 BTシャバ88a」よりの引用 ---  有名なジョーク!  モーゼの律法の板は、なぜ「二枚」なのか知っていますか ?     神は十戒を定めると、まず一枚の石の板にそれを彫りました。  それから、神は自分の作品をたずさえて出かけました。  いろいろな民族にすすめてみることにしたのです。  要らないかね、と彼はフランス人にききました。  でも、大体、何が書いてあるんですか、と疑わしげにたずねました。  生活の規則だよ。  たとえば、「隣人の妻によこしまな心を抱いてはならない」  いや、それなら結構、とフランス人がいいました。  それでは楽しみがなくなってしまいますよ。  神はドイツ人のところに行きました。  要らないかね。  何が書いてあるんですか。  生活の規則だよ。  たとえば、「人を殺してはならない」  なんですって!  では、どうやって戦争をすればいいんですか。  神はこうして、イギリス人、イタリア人、ギリシャ人、アラブ人、中国人  のもとをまわりました。  誰もその作品を欲しがりません。  神はたいへん困りました。  そこで彼はユダヤ人にすすめてみました。  ユダヤ人はすぐにたずねました。  おいくらですか。  ただだよ、と神は勢いこんで答えました。  たださ!  お金は要らないよ。  そうですか、ユダヤ人はいいました、それなら「二枚」いただきましょう。

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