When a Jew seeks wisdom 講座#19

第21章「The value of labor」

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    第21章「The value of labor : 労働の価値」

    ラビ・タルフォン(Rabbi Tarphon)は言っている、
     「仕事を終わらすのはあなたではない、
      しかしあなたはそれから解放されるわけではない」
                       (Avot 2:16)                      
    
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    Doing the task
    
    ビーバーは勤勉に、ぽぷらやかばの木を集める、そして歯で若木を切り、
    木を小さな木切れに変え、木切れを堅いしっくいの非難所に変える。
    その仲間ビーバーたちの共同作業で、ビーバーは春の川の洪水の猛攻撃から
    その共同社会を保護するためのダムを作る。
    そのビーバーは相手を見つけ、そして子供を持つ。
    危険が近づいた時に、その幅広い尾を水の水面をぴしゃりとたたくことによって、
    他のビーバーたちに警告する感覚と本能をビーバーは持っている。
    ビーバーは生活の毎日の仕事の中で全体的に忙しい、
    その一方でビーバーは将来の使用のために食料を集めたり氷の下に木を蓄える。
    
    ある意味では、ビーバーはその毎日の仕事を越えた向こうを見つめている。
    もちろん、ビーバーは未来の概念を持っている --- 例えば、
    ビーバーは食料が手に入らない時、冬のために食料を蓄えることを知っている。
    しかしその未来の概念は限定されたものである。
    
    人間の場合、我々は毎日の仕事を越えた向こうを見て、
    そしてこう質問する能力を持っている:
     「私はどこに行こうとしているのか?
      もし私がこの道を維持し続けるならば、私の前には何があるのか?」
    
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    The danger
    
    質問をするこの能力を持つことは、幸運そして不幸の両方である。
    我々の最善の能力の価値ある仕事を我々自身のために選択することができる、
    という意味でそれは幸運である。
    例えば、あなたは法律家になりたいかもしれない。
    あなたが法律家になるために自分自身を準備するであろうこの先の年の数を、
    あなたは簡単に計算することができる。
    あなたのゴールに到着するために、これらの全ての年の間に、
    そして全ての勉強と練習を通して、あなたの心をそれに集中するであろう。
    こんな方法で、未来を心に描き、そしてそれに向かって働くことができるのは
    幸運である。
    
    それはどのように不幸になるのか?
    我々が心に決めた仕事があまりにも偉大でそれが我々の勇気を失わせてしまう時、
    それは不幸である。
    例えば、我々のほとんどは良いユダヤ人になりたいと思っている。
    我々は、
    正義の仕事をすることに、
    慈悲そして「Gemilt Hasadim」の行動を実践することに、
    我々の家庭に平和「Shalom Bayit」を促進することに、
    我々自身のためにそして我々の子供たちのために強い共同社会を築くことに、
    我々の生活を使いたい。
    
    しかし我々がその仕事の大きさ、この要求の全ての長い年を考えた時に、
    我々は不思議に思い始める:
     「一人の人間」がいったい何をすることができるのか?
    
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    We must act and do
    
    しかし我々はその仕事を完成させることに向かって何かをしなければならない、
    たとえ我々がそれが終了させることができないと知っている時でさえも。
    我々の各々は、為すべき独自の貢献を持っている、
    そして我々の各々は、我々の共同社会の中に一つの力である。
    貢献を「しない」ことを選択する場合
     --- すなわち、あまりにも簡単に勇気をなくしてしまい、責任を避けた場合 --- 
    我々はただ中立になっているのではなく、実際に否定的になっているのである。
    我々の内側にあり、我々が加わる場所であるところの世界と共同社会を否定している。
    
    その代わりに、我々ができることは何でもすべきである。
    ラビ・タルフォンの言葉:
     「仕事を終わらすのはあなたではない、
      しかしあなたはそれから解放されるわけではない」
                       (Avot 2:16)
    
    巻物(The Megillah)、エステルの本、は我々にこう告げている:
    モルデカイがエステル王妃にやってきた、
    ユダヤ人民を滅ぼすためのハマンの陰謀を彼女に警告するために。
    モルデカイはエステル王妃に告げた、
    共同体社会を救うことが彼女にかかっていることを、
    彼女は王様の心を何かの方法で変えなければならないことを。
    
    しかしエステルは恐れた。
    王様それ自身によって最初に召集されるまでは、
    王様の面前に入ることは誰もが許されていなかった。
    その違反の罰は死であった。
    エステルはこう主張したかもしれない、
    「共同体社会にとって私の死は、何が良いことになるでしょうか?」
    
    エステルはまた恐れたであろう、
    彼女がユダヤ人であることを王様が分かったならば、彼は何をするであろうかと。
    彼女は王妃として王宮の中では安全であった、
    彼女は英雄になるために自分自身の未来を危険にしたくはなかった。
    彼女は自分自身に言ったであろう、
    「結局、この仕事は一人の人間だけではあまりにも大きすぎる。
     ほとんどあるいは何も得ないことのために、
     なぜ私があらゆることを危険にすべきであろうか?」
    
    しかしモルデカイは主張した。
     他のユダヤ人はどうであれ、自分は王宮にいて無事だと考えてはいけない。
     この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、
     ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、....
                      (Ester 4:13-14)
    
    モルデカイは最後に言った。
     誰が知っているのか?
     この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。
                       (Ester 4:14)
    
    
    
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    coffee break

    聖書、エステル記の原文から  Ester 4:7   モルデカイは事の一部始終、すなわちユダヤ人を絶滅して銀貨を国庫に払い込む、  とハマンが言ったことについて(ハタクに)詳しく語った。  Ester 4:8  彼はスサで公示されたユダヤ人絶滅の触れ書きの写しを託し、  これをエステルに見せて説明するように頼んだ。  同時に、彼女自身が王のもとに行って、自分の民族のために寛大な処置を求め、  嘆願するように伝言させた。  Ester 4:9  ハタクは戻ってモルデカイの言葉をエステルに伝えた。  Ester 4:10  エステルはまたモルデカイへの返事をハタクにゆだねた。  Ester 4:11  「この国の役人と国民のだれもがよく知っているとおり、  王宮の内庭におられる王に、召し出されずに近ずく者は男であれ女であれ  死刑に処せられる、と法律の一条に定められております。  ただ、王が金の杓を差し伸べられる場合にのみ、その者は死を免れます。  三十日いこのかた私にはお召しがなく、王のもとには参っておりません。」  Ester 4:12  エステルの返事がモルデカイに伝えられると、  Ester 4:13  モルデカイは再びエステルに言い送った。  「他のユダヤ人はどうであれ、自分は王宮にいて無事だと考えてはいけない。  Ester 4:14  この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、  ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、  あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。  この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」  Ester 4:15  エステルはモルデカイに返事を送った。  Ester 4:16  「早速、....  このページ先頭へ We do not know たとえどんなに賢明に考えても、 なぜ我々が創造されたかを我々は実際に言うことはできない。 なぜ我々がある家族の中に生まれ、他の家族でなかったのかを、我々は知らない。 何の目的で我々はこの地球に奉仕する意味があるのかを、我々は知らない。 なぜ我々は他の時代の代わりに、この時代に生まれたのかを、 なぜ我々は奴隷ではなく、自由で生まれたのかを、 なぜ他の国ではなく、この国なのかを、 なぜ男あるいは女なのかを、 なぜ幸運あるいは不幸なのかを、我々は知らない。 これらのことは我々の知識を超えている、神のみがなぜかを知っている。 しかし、我々の各々が唯一で特別であることを行なうための一部分を 持っていることを我々は知っている。 我々がレンブラントの絵画を見たときに、 レンブラントのみが為すことができる特別な貢献として我々は認める。 我々がスピノザあるいはフロイトの作品を読んだ時に、 それらの中に我々はスピノザあるいはフロイトの腕前を見る。 唯一の奉仕のより良い例はレオ・バエク(Leo Baeck)以上のものは見つからない。 彼(1873-1956)は、帳簿上の間違えを通して、 ナチの強制収容所を生き残ったラビである。 (もう一人のバエク(Baeck)は間違えによって彼の地で死刑にされた。) ラビ・バエクが強制収容所に移される前に、そして彼の前に何が起こるか --- 投獄されおそらく殺される --- を彼が知っている間に、彼は安全のために逃れる多くの機会があった。 しかし、彼は共同体社会を見放すことを拒否した。 毎日毎日、彼は仲間のユダヤ人を助け、残りの人々を結合させる仕事を 少しづつ実行した。 ある時、彼はイギリスに子供たちのグループを連れていった、それは安全であった。 イギリスにいた時に、ナチの手で制圧されているドイツに再び自分を返さないように、 戻らないようにと勧められた。 しかしラビ・バエクは拒否した。 代わりに彼の仕事を続けるために彼はドイツに戻った。  このページ先頭へ Discouragement as a ruse 時々、我々は策略として落胆を使う、我々自身をだます賢い方法で。 我々は仕事が困難であることを知っている、そして我々は言う:  「一人の人間がそれを完成するための希望はどれだけあるのか?   それは私にとって大きすぎる」 そして我々は何もしない。 もし我々が欲するならば、我々は少なくとも始めることはできる、 しかし代わりに我々は我々自身を、その仕事が我々を超えるていると信じることで ごまかしてしまう。 もちろん、もしレンブラントが同じことをしたならば --- もし彼が、彼の絵画を通して生活を再生産する仕事が、 どんな人間が行なうにもあんまり困難であると見ていたならば --- 我々は決して彼の作品の宝物をもてなかったであろう。 これは労働から逃げる容易な方法である、 そして我々人間が怠ける性格を持っているのである。 ラビ・タルフォンが、 あなたの仕事から「あなたは解放されるわけではない」と言ったことは このためである。 彼の文のキーは「free(解放)」という単語である。 なぜならば我々の freedom(自由)は我々の労働に依存しているからである。 怠けることを通して労働を止めてしまう人は、彼の自由を失っている。 ある注解者、アイザック・アブラバネル(Isaac Abravanel) (1437-1508) は論評した:  あなたが止めた時、あなたは真に自由ではない.....  もしあなたが労働を無視するならば、  その時、あなたは「自由な人」ではなくなるであろう。  ゆっくりと、微妙に、マーケットプレースだけの価値によって支配されるように、  あなたは順応するようになって行くであろう。 ここに我々は Judaism の最も深く、最も本質的な教えの一つに到着する: 誰にも依存しない考えと探索を通して、そしてあなたが実行する行動を通して、 あなたがあなた自身のみになる。 あなたが、あなたの個性をあきらめた時、 あなたは自由な人間になることを止めて、そして獣群のうちの一人になる。 我々は皆、案内として我々自身の内側を見なければならない。 我々はこう言うべきではない、 「誰か他にその深い考えを残しておこう」 それは策略である、我々が我々自身に演じる計略である。 我々が本当に言っていることは、 「私の自由をあきらめよう、そして私の生活を他の人たちに制御させよう。  私は喜んで奴隷になろう。」 我々がしなければいけない仕事が来たときに、 我々は「それを止める自由はない」、ということを我々が十分理解したときに、 我々は真に自由になることができる。  このページ先頭へ Not all tasks are equal もちろん、全ての仕事が同じではない。 幾つかはより困難であり、他は単純である。 我々の目には、ある人々の仕事は他のものより価値があるように見える。 我々は偉大な作家レオ・トルストイを、例えば、そう、探偵シャーロック・ホームズ の物語の作家アーサー・コナン・ドイルとは違った光りで見る。 しかし終わりには、全ての仕事は報酬の価値がある。 ラビたちは我々に教えた、 全てのイスラエルの報酬は来たるべき世界(the World to Come)である。 我々が弁護士あるいは医者、科学者、技師になることを我々の判断に決めた時に、 我々の報酬は我々の個性の完成である、それとちょうど同じように、 良い生活をすることの報酬は我々が生活してきたその良い生活の中にある、 そしてそれはユダヤ人の夢である「全世界を理想の世界に」いかに近付けて きていることか。 これがそうであることを我々はいかにして知ることができるのか? この質問の答えに、ラビたちは興味のある事実を指摘した: トーラは、最も大きな戒律と最も小さな戒律、 その二つの戒律だけで一つの報酬を述べている。 最も大きな戒律は、「あなたの父と母を尊敬せよ」、 そしてこの戒律を果たすことでトーラは我々に長い生命を約束している。 最も小さな戒律は、「巣に卵を抱えている間は、その母鳥の命を救え」、 そしてこの戒律を果たすことでトーラはまた長い生命を約束している。 さて、もし最も大きな戒律と最も小さな戒律その二つの戒律で長い生命が約束され ているならば、その時、戒律の全ては等しいように見えるべきではないか! あるハシデックなラビは昔こう質問された、 「どれが果たすべき最も重要な戒律でしょうか?」  彼は答えた、 「あなたがそれをしている瞬間に、あなたがしている戒律がそれだ!」  このページ先頭へ Mitzuvah and kavannah 我々の前にある各々の仕事は、 我々のすべての注意と世話で実行されなければならない。 我々はこれを、ひたむきな目的の種類「kavannah」と呼んでいる。 このヘブライ語の単語は「方向」という意味の語根からきている、 そしてそれで我々は「kavannah」を「一つの方向を持った」という意味 であると理解できる。 我々が「kavannah」をもって我々の生活で各々の仕事を実行する時、 ただ何かがなされた以上のものとして我々はその仕事を見る。 それは我々にとって神聖な仕事、聖なる義務になる。 このような方法で、世界は神聖で満たされた場所になる。 すべての仕事(task)は神聖で平和な仕事(work)になる、 そして我々の仕事を通して、 我々の世界を主なる神の精神で満たされた世界に我々が変える。  このページ先頭へ Reflection 世界のためにそしてユダヤ人のために、我々の各々は新しい始めである。 我々の誰もが、世界を完成させる仕事を終わらすことを要求されない、 しかし我々の全てはその仕事の一部である。 我々の各々はその仕事を完成させるための小さな部分を演じる。 その仕事は引受るにはあまりにも偉大すぎると信じるほどに我々自身を馬鹿に する時、我々は我々の自由を失う。 彼あるいは彼女の仕事に残してある、 そしてそれを成し遂げることができるその人だけに残してある、 その仕事への一人の部分がいかに大きくともあるいは小さくとも、 その一つの貢献をすることができる唯一の人なのだ。 我々がすべて創造されたのは、この目的のためだったのだ。 我々が引受ているそれぞれの仕事は、それゆえ実行されなければならない、 すぐの報酬のことを考えることなしに。  あるハシデックなラビが話した物語がある。  彼はサーカスに行って綱の上を歩く男を見た。  彼の生徒の一人が聞いた、  「なぜあの男はこんな方法で彼の身を危険にするのですか?」  そのラビは答えた、  「私はなぜか知らない。   しかしあの男が綱に添って歩いている限りは   彼は全ての心と精神をその歩くことに集中していることは分かる。   もし一瞬でも、綱の上で歩くことによって稼いでいる金についての心配を   止めたならば、彼は失敗しそして落ちて死んでしまうであろう。   彼がしなければならない仕事に集中している時にのみ、   彼は成功の希望があり得るのだ」 我々は全て綱の上を歩いているようなものである。 もし我々が、他のことをするための報酬で対立することで、 この仕事をする報酬についての心配を止めるならば、 我々は全体的にどんな仕事を完成するにも失敗するであろう。 代わりに、我々の各々は、彼あるいは彼女の全ての心と精神を、 彼あるいは彼女だけが行なうことができるような仕事に集中して、 「kavannah」(ひたむきな目的)をもって仕事をしなければならない。 我々は決してそれを完成させることに成功しないかもしれない、 しかしそれでも我々はそれを単純に、行なわないための自由、はないのだ。 良いことをしてきたことの満足の感覚を他の誰もが分け与えることはできない、 と同じように、あなたのためにあなたの仕事を他の誰もが実行することができない 、 その仕事は、選択すべきあなただけのものであり、 そしてそれは行なうべきあなただけのものである。

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