When a Jew seeks wisdom 講座#20

  • 本章のまえがき
  • 第22章「Seeking the right course」

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    本章のまえがき

    
    夜となり、その週の日々から安息日を聖別するために、祈祷書が朗読されている。
    ラビが木の下に座っている、そして彼はパイプを光らせて、
    灰色の煙の巨大な一吹きが澄んだ暗い天に向けて上っている。
    
    
    
    ラビがそんな平和な気分になっているのを見て、二人の生徒が来て彼の側に座った。
    しばらくの間、三人は黙って座っていた。
    ついに、一人の生徒が話した、
    「親愛なるラビ、我々がいかに神に奉仕すべきか我々に告げて下さい」
    
    ラビは答えた、「わたしが知り得ることなのかい?」
    その時、三人はもう一度黙ってしまった、
    ラビがパイプをふかす時につくる小さな音を除いて。
    最後にラビは話をした:
    
     昔、二人の友人が一緒に山に登った、
     そして彼らの前面に深い割れ目が横たわっているのを見つけた。
     彼らは一緒に計画し、その深い割れ目を横切ってロープを取付けたアンカーを
     持ち上げて投げた。
     このようにして彼らは一方から他方へ狭いロープの橋を造った。
     そして最初の者がその深い割れ目を横切って歩いた、
     あらゆる歩みで彼の危険を冒して、しかし安全に向こう側に到着した。
    
     もう一方の者、まだ同じ場所に立っていたが彼に向かって叫んだ、
     「親愛なる友よ、あなたがいかにコントロールしたのか告げてくれ?」
     最初の友は答えた、
     「私が知っているのは確かではない。
      しかし私自身が一方の側によろめきを感じた時はいつでも、
      私は他方の側に向けて傾けたよ」                     
    
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    第22章「Seeking the right course(正しい道を見つけること)」

    もしあなたが、人類の残りから離れて、 ある島の世界で一人だけで生活しているならば、 「良い」と「悪い」という言葉は単に、 「私にとって良いこと」と「私にとって悪いこと」という意味になろう。 しかるに、あなたは他人と一緒の社会で生活している、 そしてあなたは「良い」と「悪い」という言葉に他の意味を与えているような 慣習に参加している。 生活というのは複雑である、 そして規則は時々ちょうど壊されるために作られているように見える。 各々の新しい立場が現われる時に、 あなたが取ろうとしている行動の種類について、あなたは選択を強いられる。 規則や好みを持つことはあなたに決断する助けとなる。 そしてあなたのまわりの人々は、彼らの経験に基づいて、 あなたに助言することで喜んで助ける。 しかし、最後にはその選択はあなただけに依存する。  ある日、道路に添って老人と若い少年がロバの手綱を引っ張っていた。  その三者は彼らが動く時に色彩ゆたかな絵画を描いていた、  彼らが歩むに合わせてロバの頭は突然に上下に振った。  道路で見知らぬ者と会うまでは、全てが順調であった。  見知らぬ者は彼らに言った、  「やぁ、こんにちわ。なぜあなた方は歩いて、乗らないのですか?   ロバは乗るために作られたのですよ」  これは良い助言であると二人は同意した、そしてロバの背に登った。  しかし彼らが町の近くにやってきた時、道路に添って人々が互いに噂をし始めた。  すぐに一人の仲間が彼らを止めた。  彼は頭を両側に振って言った、  「そんな小さなロバに、あなた方二人はそのロバの背にはあまりにも重すぎる荷だ。   あなた方は恥ずかしくないのか?   そんな方法で動物を扱うのは残酷だ」  直ちに、そのおじいさんと少年はその男の知恵を見て、  そして少年はロバの背からすべり降りて、横に一緒に歩いた。  彼らがこの格好でそんなに遠くまで行かない時に、  彼らはカートを後ろから押して来る行商人に出会った。  その行商人は老人に質問した、  「あなたの体重はその貧しいロバの背には重すぎるとは思わないのですか?   あなたが歩くことができれば、なぜその少年とロバは疲れるでしょうか?」  その少年はおじいさんの方を見つめた。  彼らは肩をすくめた。  何が行なわれるべきことであるか?  なぜならば彼らは行商人の言葉に意味を見つけた。  老人は重い荷であるのは真実である、たとえそれは二人両方ほどは重くはないが。  さらに老人は歩くことができる、そして少年は乗ることができる。  それで老人はロバの背から降りて、そして孫を代わりに乗せた。  このように彼らは町に向かって再び前進した。  またすぐに友人と一緒に道路の脇に立っていた農夫の呼び声によって止められた。  農夫は叫んだ、  「おい、少年よ、お前は年寄を尊敬しないのか?   お前が乗って、貧しい老人が歩くのは不名誉なことだ」  農夫は彼の友人の方に向いて、そしてなお少年に聞こえるように十分大きな声で話し、  彼は言った、  「自分が乗っている間に、老人を歩か   せるような強権な若者を想像してごらん!」  再び少年はロバの背から降りた、  なぜならば彼らは農夫の言葉の中に真実の刺激を感じたので。  しかし今や何が行なわれるべきことであったか?  彼らが誰に耳を傾けようが、だれも喜ばなかった。  そして彼らが得た助言の全ては良い助言であった。  だれも乗らないロバを引くことは良いことではなかった。  二人が乗ることは良いことではなかった。  老人だけが乗ることは良いことではなかった。  少年だけが乗ることは良いことではなかった。  ただ一つの選択が残された。  ため息をついて、老人とその孫は彼らの背の上にロバを持ち上げた。   そしてこのように彼らは町に歩き続けた、ロバの重さの下で奮闘している  老人と少年を道路わきの人々が見てひやかし笑っていた。  このページ先頭へ Listening to everyone これはばかげた話に見える。 しかし我々のまわりのあらゆる人に耳を傾けた時に、 我々はしばしば「ロバを運ぶ」ような終わりかたをする。 道路のそばにいるあらゆる人が老人と少年に良い助言を与えた。 しかし助言のどの種類も、その人が見たところの観点のみに基づいていた。 このように、見知らぬ人はロバを引いた少年と老人を見た、 そしてもし彼らが乗っていたならばいかに良くなるかを考えた。 そしてこのように、農夫は少年だけが乗っているのを見た。 農夫は彼が見る前のすべてを知らなかった--- 最初にはロバにだれも乗っていなかった、 その次には二人が乗った、 その次には老人だけが降りた。 老人と少年が受け取った助言は、彼らは自分自身では選択しなかったので、 実際に役に立たなかった。 しかし彼らは、実際に知的な選択しようとすればできた唯一の人たちであった。 彼らがしようとすればできた知的な選択は、 「彼らが」最もよく好む方法で支えることであった。 生活は複雑である、しかし我々が自分の意見を言うことを拒む時、 それはより複雑になる。  このページ先頭へ Freedom of choice 我々は常に選択をしている、しかし時々選択の自由が我々にあるということ を忘れる。 我々が欲するところのことを、そして我々が信じるところのものに従っている ところのことを、我々は選択することができる。  アキバは言った、すべてのものが予知されている、  しかし選択の自由は与えられている。                (Avot 3:19) 昔ある賢者が質問した、 「もし神が先に起こるすべてのことを知っているならば、 我々が選択の自由をいかに持つことができるのか?」 そして彼はたとえ話を通して彼自身の質問に答えた:  神は、岩場のある海岸にぽつんと立っている灯台の守りのようなものである。  嵐の真っただ中、暗やみの中で輝いている明かりで、  神は注意して多くの船を見つけ、海岸に近寄せる。  上の方から、船がぎざぎざの暗礁を避けて安全に岸に着くのを神が見ている。  そして神はまた、どの船が座礁にこなごなになり滅びるかを知っている。  なおも、各々の船長は、彼自身の船をいかに操縦するか、  そしてどのコースを追跡するか、という彼自身の選択をする。  ある者は灯台の警告の明かりを心にとめるであろう、  そして他の者はそうしないであろう。  自然には、もし人が警告の明かりを見て、  それに従って操縦するならば人の運はより良い。  なおも、各々の船長は、彼が気に入るように行なう自由がある。  このページ先頭へ Captain of the ship 我々の各々は、自分の精神をもったその船長である。 その灯台は、我々の伝統の集められた知恵であり、 我々が神の真実であると支持している法律である。 我々はこれらの法律の自由がある --- 我々が喜んで従う自由あるいは従わない自由である。 しかし、その灯台の光線でのように、これらの法律に我々が従う時、 我々の選択はより良くなる。 我々は選択する自由がある、そしてその選択は我々の前に広げられている、 しかしまたどれによって選択するかのガイドラインがある: 我々のユダヤの伝統の価値と一族の慣習。 船長が、海の知覚、「空の中に何があるか」という感覚、 そして正しい行動のための素質、を発展させるとちょうど同じように、 我々もまた、我々が確かでない時に我々を導くであろう内部の感覚 あるいは知覚を発展させなければならない。 これは我々が宗教的な知覚と呼んだところの感覚である。 それは、生活の海を通して我々がそれによって操縦するところの梯子 の種類のように我々に奉仕する、そんな我々の宗教的な知覚である。  このページ先頭へ coffee break

    このテキストは、この第22章と次回の第23章で終了です。 ここで、全体の構成をもう一度説明しておきます。 このテキストは、「アボット」にあるヒレルの3つの質問を軸にして構成されている。 「第1〜4章」は、行動に対する我々自身の準備について考えている。 「第5〜11章」は、 我々各々が、自分自身のために生活をする上で、選択しなければならない事柄に ついて語る。 (If I am not for myself, who will be for me? ) 「第12〜21章」は、 我々の共同体の中で一緒にうまく生活する場合に、選択しなければならない事柄に ついて語る。 (And if I am only for myself, what am I?) そして、残りの「第22〜23章」は、 われわれの進路を設定しそれを正しく設定するために、ただちにしなければなら ないことは何かについて語る。 (And if not now, when?)  これはアメリカの50セント硬貨です。 ケネディ大統領の肖像のまわりに、" LIBERTY " という文字が読めると思います。 下の方に刻まれている文字の方はこうです: " IN GOD WE TRUST " 実は、50セントだけでなく、アメリカの全ての硬貨には、この " LIBERTY " " IN GOD WE TRUST " が刻まれています。 その意味は、今回のテキスト第22章から推測できるのではないでしょうか。  このページ先頭へ Our two impulses 我々の船の力は、二つの世界の間で我々のバランスの中にある。 我々は、動物の存在という状態で、我々の中に普通の全ての動物の性癖を持って、 人間として創造されている。 動物たちのように、我々は力に対する欲求をもつ、 そして我々が若い時にはそれを我々のゲームの中に表現する --- 国々が世界の中で最も力がある者になるというまじめさを持った、 「 山の王様」になるゲームをして。 動物たちのように、我々は性に対する欲求をもつ、 それは時々我々を圧倒するように脅迫する。 最も不幸にも、ほとんど他の動物には無いような、 復讐のためにそして個人的な利益のために、我々自身の種類を狩をして追いつめる。 出世したいという我々の欲求、重要な人になりたいという我々の欲求、--- これらはラビたちが「Yetzer HaRa(悪の衝動)」と呼ぶところの 我々の利己的な活力の中にある。 しかし我々はまたそれ以上の他のものである。 我々の中には、他人を喜ばすという欲求がある、 我々の仲間の唇に笑いをもたらすために。 我々は、信じる力、理由を考える力、そして疑う力を持つ。 そして、我々は、知っていることを越えた何かを感知する力を持つ。 ラビ・アキバがよく言っているように:  人間は愛されている、  なぜならば彼は神のイメージで創造されたからである。  しかしそれは、彼が神のイメージで創造されたことを  彼に知らせれていることの、特別な愛によってである。  イスラエルは愛されている、  なぜならば彼らは存在者(All-Present)の子供たちと呼ばれているからである。  しかしそれは、彼らが存在者の子供たちと呼ばれていることを  彼らに知らせれていることの、特別な愛によってである。  イスラエルは愛されている、  なぜならば彼らに「トーラ」が与えられたために。  しかしそれは、世界が創造されたことを通して「トーラ」が彼らのものである  ということを彼らに知らせれていることの、特別な愛によってである。  「なぜならば、わたしは良い教本をあなたたちに与えた---   わたしの教えを見捨ててはならない」、と言われているように。                        (Avot 3:18) そして、 我々が神のイメージで創造されたということ、 我々が存在者の子供たちと呼ばれていること、 「トーラ」が我々に許可されてきていること、 これらを我々が知ることを可能にしているその特別な愛とは何なのか? それは良いことをしようとする我々の衝動である、 それはラビたちが「Yetzer Tov(善の衝動)」と呼んだところのものである。  このページ先頭へ An inner balance 我々を人間にしているところのものは、 「善の衝動」と「悪の衝動」との間の我々の内部のバランスである。 我々が以前に見てきたように、 我々は「悪の衝動」によってまったく生活することはできない。  そして、もっと驚くべきことに、 我々は「善の衝動」によってだけで生活することはできない。 我々は、「悪の衝動」によってだけで生活することが為すところの害を 容易に見ることができる、しかし「善の衝動」によってだけで生活することが 為すところの害とは何か? 一つの例を取り上げよう:断食すること。 断食は、毎日の世界から我々自身を隔てることを助ける、 祈りの間に我々の精神を集中させることを助ける、 そしてほんの短い間であるが食べるという我々の地上の必要性から 我々自身を隔てることを助ける。 我々が断食する時、神の精神に近づこうという我々の「善の衝動」を通して 我々は行動している。 断食は、その時、我々の精神にとって善である。 もし一日の断食が我々の精神にとって善であるならば、 二日間の断食はどんなにより善であろうか。 そしてもし二日間の断食が我々の精神にとってより善であるならば、 我々は推論する、 三日間の断食はどんなにより善であろうか、 四日間では、あるいは五日間では、 そしてもし我々が死ぬまで断食するならば最善か? あるいは、慈善を集める人達が、やって来るラビを見た時に、 反対の方向に走り去る、というほどに過大な慈善を与えるラビを取り上げよう。 彼の「善の衝動」は非常に極端になることを許されているので、 彼は彼自身が貧乏人になる危険であった、 そしてその結果としてその共同体社会に負荷が加わる。 「善の衝動」が我々を支配することを許すことは、 「悪の衝動」が我々を支配することを許すことと同様に悪いことである。 我々がそれら両方を支配しなければならない、 そして我々の中のバランスを成し遂げるための探索をしなければならない、 もし我々が共同社会にそして我々自身に何か役に立とうするならば。 ユダヤ人の共同体社会は、聖人の一部として行動する人々が必要でもなければ、 悪魔のように行動する人々も必要ではない。 バランスされたユダヤ人の生活を喜んで導く人々が必要なのである。  このページ先頭へ Balance in the community その同じバランスが他人との関係に必要である。 ヒレルの有名な言葉の中に、そのバランスを成し遂げるための処方箋が与えられてき ている。  If I am not for myself, who will be for me ?  And if I am only for myself, what am I ?  And if not now, when ?  (Avot 1:14) 共同体社会との我々の関係の中で、 我々の個人的な欲望と必要、それと他人の欲望と必要、 その間のバランスを我々は探さなければならない。 我々の隣人を正しく愛するために、我々はまず自分自身を愛さなければならない。 人は、彼が誇るべきことをするよう努力すべきであり、 そうすれば他人が彼をまた尊敬するであろう。  ラビのユダ・ハナシ(Yehudah HaNasi)が言った、  人が彼自身のために選択すべき正しい道はどれであるか?  それは、それを行なう人にとって名誉であるような道であり、  また、人々から彼に名誉を与えるような道である。                       (Avot 2:1) 我々の伝統に従うと、正しい道は我々自身を尊敬するために来ると同時に、 他人に我々を尊敬させるために行なう真ん中の道である。 それは、我々が我々自身に幸福であり、 そしてまた他人が我々に喜ぶように行なう真ん中の道である。  ほとんどすべての関係において、ラビたちは責任を等しく分けた、 共同体社会に対する我々の義務と我々自身への我々の義務との間で。 例えば、ラビ・ヨセ(Rabbi Yose)は言った:  あなたの仲間の財産をあなた自身のもののように大切にしなさい。                      (Avot 2:17) そして、ラビ・エリエゼル(Rabbi Eliezer)は言った:  あなたの仲間の名誉をあなた自身のもののように大切にしなさい。                      (Avot 2:15) これらの言葉の両方において、 我々は自分自身と共同体社会との間のバランスを見ることができる。 各々、その作者は我々のあらゆる人に、彼あるいは彼女「自身」に従って、 彼あるいは彼女自身の行動を測ることを要求している。 そして各々、その行動は他の人に関係している --- その人の財産と名誉に。 ラビたちはこう実感していた: 我々が我々自身の欲求や必要を十分良く理解する時から、 我々が我々自身について理解しているところのものを、 他人を巻き込んだ我々の行動に移すために、 我々の宗教的知覚をに使うべきであると。 これこそが、ラビ・エリアザル(Rabbi Eleazar)が心に持って ヨハナン・ベン・ザカイ(Yohanan ben Zakkai)の質問の答えである:  人が保持すべきところの良い道とはどれか?  エリアザルは言った、「良い心」  このページ先頭へ A feeling for what is right あなたは、正しいバランスのために感覚をあなた自身で発展させなければならない。 その選択はいつもあなた自身にある。 誰もあなたのためのあなたの生活の仕方を選択することはできない、 あなたのためにあなたの報酬を受け取る以上には。 あなたにとって何が「良い心」を意味するものかを、あなたは探さなければならない。 もし生まれつきに、あなたがあまりにも寛大である傾向があるならば、 あなたはその偏りをバランスすることを学ばなければならない。 あるいは、もしあなたの性格が利己的になる方向に傾くならば、 あなたはその偏りをバランスすることを学ばなければならない。 ただあなたのみが、あなたの選択において正しいバランスを感じることができる。 最善のバランスはいつもあなたの中に存在する:  「あなた自身の目に見て邪悪でないように」              (Avot 2:18)

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