父母のめぐみ(父母恩重経のはなし)

第1回講座

「かくの如く、われ聞けり」

法典:

注意:ここにある行番号の数字ですが、もちろんお経の中には書かれていません。聖書のように記述された場所を特定できるようにと、わたしが勝手につけたものです。


直訳:
1 このように、わたしは仏さまの教えをうけたまわっております。 2 あるとき、仏さまは王舎城のグリッドゥラクター山中で、 ぼさつや声聞とよばれる仏弟子たちといっしょにおられました。 3 男女の出家修行者、男女の在家信者、あらゆる神々、人々、 竜や鬼神に至るまで一切の者が仏さまのお話を拝聴しようとしてやってまいりました。 そして仏さまのお座りになったところを一心にとりかこんで、 誰ひとりとしてまたたきもせず、仏さまの尊いお顔を仰ぎたてまつりました。

解説:
いったい、仏さまはこれから、どんなことを私たちにお話下さるのだろうかという、 すべての者の期待が、しばしの沈黙のなかにみなぎっているのが、目にみえるようであります。

「かくの如く、われ聞けり」というのは、多くの大乗経典の初めのきまり文句になっています。 お経は仏の説きたもうたものでありますから、仏弟子たちがそれをその通りにうけたまわり、 また今日に至るまで伝えられてきたのであるというわけです。 ですから「かくの如く」とは、仏さまの説きになった通り、寸分たがわずに、というのです。 「われ聞けり」というわれは特定のある者というのではなく、誰であっても、 その仏説をいただく者でさえあればわれであります。 だから、この私が真心をこめてお経をいただくならば、われはこの私ということになります。

次に、「聞けり」というのは...

このような語りで著者の丁寧な説明がつづくのですが、ここに全部を記するわけにもゆかないので、 以下では要点と思われるところだけをかいつまんで紹介することにします。

解説つづき:

「聞けり」とは、耳で肉声を聞くというのではなく、伝承の意味で聞くことです。
「あるとき」とは、特定のある時期ではなく、 永遠の仏さまがが永遠に説法しているとされているので、 あるときはいってみれば、永遠の今ということです。

次に説法の場所ですが、「王舎城のギジャクッセンの中」であるとされます。 王舎城は現在のインド共和国ビハール州にあって、 ギジャクッセンはグリッドゥラクター、すなわち鷲の峰です。 お釈迦さまがよくこの山上で説法されたのですが、実はどこでもよいわけです。
要するに、お釈迦さまの説法は時間や空間を越えているものでありますから、 いつ、いかなるところにおいても、 法を聞くことができる者にはお釈迦さまの教えはとどくことになります。

「菩薩」は、みずからのさとりをもとめるとともに他のすべての者のために一身をなげうってはたらくのですから、永遠の求道者であります。
「声聞(しょうもん)」は、もとは聞く者という意味で、お釈迦さまの法の教えを聞くところの仏弟子をさしていいました。
「比丘」は、男の出家修行者。
「比丘尼」は、女の出家修行者。
「優婆塞(うばそく)」は、男の在家信者。
「優婆夷(うばい)」は、女の在家信者。
「一切諸天」は、あらゆる神々。
「人民(にんみん)」は、一般の人々。
「竜・鬼神 等」は、天・人以下の者たち。

いずれにしても、この世にありとあらゆる者たちは、 ことごとくお釈迦さまの説法をお聞きするために集まって来たのであります。 もちろん、私たちもその説法の会座につらなっている一人一人であります。


さて、お釈迦さまの説法は次回から紹介してゆきますが、 この「父母恩重経」の最後の部分をちょっとだけここに紹介しておきます。

法典:


直訳:
118 このように、お釈迦さまは父母の恩のめぐみの尊さ、 たいせつさをじゅんじゅんと説き聞かせましたので、 仏弟子阿難尊者は感激の涙を払いながら、座より起きあがり、五体投地の最高礼をして合掌し、 お釈迦さまの前にすすみ出て、次のように申しあげました。 119 「お釈迦さま。このようにありがたいお経は、どういう名前のものでございましょうか。 また、このお経をどのようにいただいたらよいのでしょうか。」 そこで、お釈迦さまは阿難尊者にお答えになりました。 120 「阿難よ。このお経の名前は父母恩重経といいます。
このお経の名前は「父母恩重経」「ぶもおんじゅうきょう」と呼ばれるわけです。
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