父母のめぐみ(父母恩重経のはなし)

第3回講座

「貧女の如意珠をえたるがごとし」


法典:


直訳:
9 はじめに母親の体内に生を受けてから十カ月間というものは、歩いているときも、じっとしているときも、座っているときも、休んでいるときも、 四六時中、胎内の子に心をかけて心配の絶えるときがありません。 10 ですから、おいしい飲食物をいただいても、 あるいはすばらしい衣服を手に入れても、つねにそれらに対するとらわれの思いが起こることがありません。 願うところはひたすら安らかに生まれることのみであります。 11 このようにして十カ月がたち、出産の予定日がきますと、陣痛がはじまり、体のすべての節々は痛み、全身からあぶらあせは流れて、全く身をさかれんばかりの苦しみを受けます。 12 父親もまた心身ともにおそれおののき、母と子とをうれい心配します。 またその他の肉親兄弟縁故の者たちも心配し、安否を気づかないものはひとりもおりません。 13 だが、子供が無事に生まれますと、父と母の喜びはこの上もありません。 たとえば貧しい女性が思いつくままに願いがかなうといわれる宝の珠を手に入れたようであります。 14 そして、その子が元気な産声をあげますと、母も初めてこの世に生まれたように安堵し、よろこびにつつまれるものであります。

解説:
「貧女の如意珠をえたるがごとし」

 昔は、如意宝珠(にょいほうしゅ)といって、自分の願いが思いのままにかなえられる宝の珠をもっとも尊いものとしておりましたので、ここでも如意宝珠を手に入れたときの喜びにたとえたわけであります。


法典:


直訳:
15 さて、生まれてきた子供はどのようにして育ってゆくかと申しますと、母のふところが寝床であり、母の膝が遊び場であり、母の乳が食べ物であり、母の愛情を生命としています。 16 お腹がすいたときも、すべて母をわずらわさなければ食べようとしません。 17 喉が乾いたときも、母の手をかりなければ、飲み物を飲もうとしません。 18 寒いときに、着物を着ようにも、母でなければ着ようとしませんし、暑いときには衣服をぬごうにも、母の手でぬがせなければ、ぬごうとしません。 19 母親がお腹がすいていても、自分は食べなくとも、自分の食べ物を子供に食べさせます。 母は冬の寒さに苦しんでいるときにも、自分の着物をぬいででもして、子供に着せてやって寒さを防いでやります。 20 全く、このとおりでありまして、母がいなければ子供は食べることも着ることもできません。 そして母がいなければ子供はすくすくと元気に育ってゆくことができません。  21 子供がだんだんと大きくなって、乳母車を離れるようになりますと、よちよちとひとり歩きがはじまって、何でも手づかみにするようになります。 ですから、手指の爪にはきたないものがたまりますが、それを少しも厭(いと)うことはなく、口に入れてでもきれいにしてやります。 22 また、子供が乳を飲む分量をはかってみますと、全部で一石八斗といわれています。 23 もちろん、育児に直接手をかすのは母親ですが、それを陰に陽にたすけ、子供の成長に心をくだきますのは父親でありますから、父母の恩の重きことは、たとえていえば天空が限りないのに似ています。

解説:
「ふくめるを吐きて子に喰はしめ」

 小鳥がひなに餌をやるときをみますと、自分で口のなかに入れたものを口うつしにしてやります。

 

「寒さに苦しむときも、着たるを脱ぎて子に被(こうむ)らす」

 自分が寒いめにあっても愛(いと)しいわが子だけには寒くないようにしてやるというのが親心というものです。 今日では幸か不幸か、子供の着る衣服はどんなものでもお金さえ出せば買うことができる時代になってしまいました。 母の手づくりの衣服には母性愛がそのままこもっています。以心伝心で、おのずから母親の愛情は衣服を通じて子供心に伝わってゆくものであります。 既成品ですべてを間に合わせるようになってしまったことは確かに便利でありましょう。デパートにゆけば、はなやかな既成品が人目を奪うように並べてあります。 ですから、「母さんが夜なべして」という歌は、なんだか今の若い人たちにはいっこうに実感がともなわないようです。
 数年前、筆者は北欧のスエーデンにいったことがありますが、子供たちの服装が質素で、なかには継ぎのあたっている服を着ている子をよく見かけました。 だが、みんなよく洗濯がきいていて清潔そのもので、たいへんすばらしい印象を受けました。 この国の母親の愛情が北国の子供たちの衣服に何かにじみ出ているようにすら思われました。 今日のわが国はこれでよいのだろうかと反省しないではいられませんが、とくに心配なのはお母さん方の愛情の表現の仕方がだんだんと変わってきたように思われることであります。
 人間はある程度、物が欠乏した状態におかれている場合のほうが、一般的にいって精神的なはたらきが活発で、心の豊かさが物の欠乏を補うということです。 今日の肥満社会の落し穴が意外なところにもあるということをつくづく思わずにはいられません。

 

「十指の甲(つめ)のなかに子の不浄を食ふ」

 手あたりものをつかみますから、爪のなかにはきたなくなりますが、母親はその不浄を口にしてまでもきれいにしてやります。「不浄を食ふ」という表現は母親の子供に対する態度についてでなければいえないことであります。


法典:


直訳:
24 母親はあちらこちらのとなり村に仕事でやとわれてゆくことがあります。 また家庭にあっても、水くみをしたり、火をたいたり、または臼をつき、ひき臼をひいたりして、 いろいろと家事にしたがいます。 このようにして子供の面倒をみることができないことがあります。 そのようなときに、今ごろ愛(いと)しいわが子は家で泣きさけんで、母親をもとめているのではなかろうかと思いますと、むなさわぎがして、じっとしておれず、お乳は流れ出すといったありさまで、どうしようもありません。 そこで母親はすぐに家に帰ります。」 25 わが子は向こうから母親がやってくるのをみて、ゆりかご(乳母車)のなかにいれば、頭をゆりうごかしたり、外におれば、はらばってはい出てきたりして、母をもとめてしきりに泣きます。 26 母はわが子のために急いで帰ってきて、体をまげて両手でちりを払って、とるものもとりあえず、かわいいあかちゃんに口づけして、胸を開き、乳をふくませます。 27 このときほど、母親の深いよろこびはありません。母の胸にしっかりと抱かれたあかちゃんのよろこびもたとえようがありません。 28 母子の愛情はかたくむすばれてひとつとなり、その情愛のひろさ、大きさは、まさにこれ以上のものはありません。


解説:
「両情一致、恩愛のあまねきこと、またこれにすぐるものなし」

 母と子とが目にみえな生命のきずなでひとつにつながっているところに、両情一致といわれるゆえんがあります。恩愛というのは、この場合、親子の間の情愛をいいあらわしたものです。


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