父母のめぐみ(父母恩重経のはなし)

第7回講座(最終回)

「おのおの歓喜奉行したりき」


法典:


直訳:
110 お釈迦さまは、さらにつづけて説かれます。あなた方、多くの人びとよ、よく聞きなさい。 111 父母のために心の限りを尽くして、あらゆるおいしい食物、美しい音楽、すばらしい衣服、乗物、立派な家をささげ、父母が一生十二分に遊んで楽しく暮らすようなことがあっても、父母が三宝を信仰しないようならば、まだそれは本当の孝養ではありません。 112 なぜかというと、慈しみの心があって他の者に施し、礼儀があってみずからの身を正し、おだやかであって他から受ける辱めをたえ忍び、つとめはげまして徳をみがき、宗教的境地に心をよせ、志をはげまして学問をする者であっても、一たび酒や異性におぼれたならば、悪魔はたちどころにその隙をねらい、あやしげな者は即座にたのみをえて、財産を惜しげ気もなく使わせ、情をおぼらせ、怒りを起させ、いっそう怠らせ、心をかき乱し、智恵をくらませて、他の動物と変わりないような行動をとらせるようなことになるからであります。


解説:

「一たび酒や異性におぼれたならば」、について

もちろん、ここに酒色といったのは人間の放縦な欲望をすべて意味し、その実例をあげたにすぎないと解さなければなりません。三宝を信仰することはとりもなおさず、人間の放縦な欲望にブレーキをかけるはたらきをもっています。ここにこそ信仰の本当の効き目があるのだと思います。現代はあまりにも巨大に育ちすぎた科学技術文明のブレーキが少しきかなくなって、高速道路を暴走しなじめた、といった感じがして仕方がありません。それは人間の物質的欲求が無限定なのに応じて現代文明の巨像は際限もなく大きくふくれてゆきつつあるからであります。

わたくしは、将来の人類社会において仏教が有効なはたらきをもつとすれば、仏教は人間の欲望を適当なところで抑止すべきであることを教えているところにあると思います。それは一見しますと、消極的であって、植物的ですらあるように受けとられますが、これこそ人類の危機に臨み、すばらしい人間の最高の英知を示唆していると思われます。

このようにみてまいりますと、お釈迦さまの説かれた教えには父母が三宝を信じるといった単純なことがらだけでなく、人間としての普遍的な真理、ひいては現代の科学技術文明に対する批判すらふくまれています。


法典:


直訳:
113 人びとよ。 114 昔から今にいたるまで、人としての道をふみはずしたために、わが身をほろぼし、家をほろぼし、君主をあやうくし、親をはずかしめない者はありません。 115 このようなわけですから、仏道修行者は独身をまもって、家庭生活をいとなむことなく、みずからの志をきよらかにし、ひたすら仏道の修行にはげみます。 116 世の親の子たる者は、この点に深く思いをいたし、遠いさきをおもんばかり、父母に対してつくす孝養では何が一番たいせつであるか、どんなときにどのようにしたらよいかを知らなければなりません。 117 このようにして、父母の恩のめぐみに報いることができるのであります。


解説:

「もって孝養の軽重、緩急を知らざるべからざるなり」、について

物質的な孝養、道徳的な孝養、宗教的な孝養というように、孝養の道にはそれぞれの軽重の度合いがあること、宗教的な孝養こそ親に対して探究的な報恩の道であることを、よくわきまえていなければなりません。


法典:


直訳:
118 このように、お釈迦さまは父母の恩のめぐみの尊さ、 たいせつさをじゅんじゅんと説き聞かせましたので、 仏弟子阿難尊者は感激の涙を払いながら、座より起きあがり、五体投地の最高礼をして合掌し、 お釈迦さまの前にすすみ出て、次のように申しあげました。 119 「お釈迦さま。このようにありがたいお経は、どういう名前のものでございましょうか。 また、このお経をどのようにいただいたらよいのでしょうか。」 そこで、お釈迦さまは阿難尊者にお答えになりました。 120 「阿難よ。このお経の名前は父母恩重経といいます。


法典:


直訳:
121 もしすべての人びとが、一度でもよいからこのお経を読むならば、とりもなおさず、自身をはぐくみ育てて下さった父母の恩のめぐみに十分にこたえることになるでありましょう。 122 もし、いっしょうけんめいにこのお経をいただき心に念じ、あるいはいただき念じることを人びとにすすめるならば、この人はよく父母の恩にこたえることになるということをよくよく知らなければなりません。 123 このようにして、一生の間に犯した十悪・五逆・無間の重い罪も、みんな消滅して、無上道をえることができるにちがいありません。 124 以上のように、お釈迦さまが仏弟子たちに説かれたとき、仏法を守護するぼん天、帝釈天をはじめ、多くの神々、多くの人びと、要するにお釈迦さまの説法の会座に集まったところのあらゆる者たちは、このすばらしい「父母恩重経」の説法を聞いて、すべての者たちは一人残らずさとりの心をおこし、お釈迦さまにむかって五体投地の最高礼をおこなって、感涙を流すこと雨のようであり、皆すすみ出て仏さまのみ足をいただき、再びもとの座にもどって、一人一人みんなの者が心から法のよろこびにひたり、お釈迦さまの教えをそのとおりにおこないました。


解説:

「経を読じゅする」「経を持念する」、について

「経を読じゅする」というのは、お経を声に出して読むこと。 「経を持念する」というのは、いつでもお経をたいせつにいただいてその説くところを心の中に念じることです。

仏教のことばに、薫習(くんじゅう)というのがありますが、よい香のかおりが衣服にしみつくと、いつまでもその残り香が衣服についているということ。それはよき行為がよき結果をもたらすのをたとえていったものです。こうした薫習的なものが、お経の読じゅ、持念によってもたらされるのであります。

「十悪・五逆・無間の重い罪」、について

「十悪」というのは、
  • 故意に生きものの命を傷つけたり奪うこと(殺生)
  • 与えられないものを取ること(ちゅう盗)
  • 男女の道を乱すこと(邪いん)
  • うそをつくこと(妄語)
  • かざったことばを口にすること(き語)
  • 中傷的なことばを口にすること(悪語)
  • ニ枚舌を使うこと(両舌)
  • むさぼること(けん貧)
  • 怒ること(しんに)
  • よこしまな見解をもつこと(邪見)
  • (殺生、ちゅう盗、邪いん)は体のはたらき、 (妄語、き語、悪語、両舌)は言葉使い、 (けん貧、しんに、邪見)は心のはたらきであります。

    「五逆」というのは、「五逆罪」の略ですでに述べましたとおりで、人間として絶対にあってはならない行為である「仏の五戒」のことです。

  • 殺すなかれ
  • 盗るなかれ
  • 男女の道を乱すなかれ
  • うそをつくなかれ
  • 酒を飲むなかれ
  • 「無間(むげん)の重罪」というのは、無間地獄というもっともおそろしい地獄におちるような重い罪をいいます。


    これで完読です。
    お疲れさまでした。

    最後に、もう一度、筆者のことばから

    親が子を思う。 それは子が親を思う以上のものがあることはいうまでもありません。 そして、誰しもが、親に死に別れてみて、親の心をしみじみと知ります。 「孝行のしたいときには親はなし」といっているのは、まことに人情の機微をうかがっています。

    子どものない者はいても、親のない者はひとりとしていないといわれます。 全くそのとおりです。 父母の限りないめぐみを恩として受けるところに人倫の根本、道徳の出発点があると申さなければなりません。


    サトー・ハチローの詩集「おかあさん」より

    もう乗らなくなった
    もう乗らなくなった わが子の古い三輪車
    庭の片すみにひきだし そっとまたがり さびたベルを鳴らしてみる
    そのひびきに わが子の声がある


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