バーンスタインの非公式の講演


「バーンスタイン音楽を語る」の書の最後にある「非公式の講演」から
「いうべきこと......」を多少とも短く縮めて紹介します。
これは1957年2月19日、シカゴ大学で行った即興の講演の記録です。

読みやすいように、目次をつけてみました。

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今日こちらへ向かう飛行機の中で

この講演のことをあれこれ思案しながら、すっかり恐怖心にとりつかれておりました。
講演内容のパンフレットには、独創性とか創造的個性といった神秘的いなことばが、
次々と連ねられていたからです。
私に論じる資格があるかどうかを自分に問いただしてみました。

私は、丸一日を作曲家として費やしているわけではないので、純然たる創造者
であるとは言えません。自分の半分の時間は創造者であることをやめ、
ちいさな魔法のスイッチを切り替えて、演奏家に戻るのです。
本日ただいまの時間は、演奏の期間が終わって、創造の時間が始まったところです。
つまり数ヵ月の指揮の期間が終わって、先週ふたたびスイッチを切り替えたわけで、
これからの7ヵ月間はブロードウェイのためのシリアスで悲劇的なミユージカル・
コメディーをひとつ書くことになっているのです。
どのようなものができるか、ご想像なさってみて下さい。
(これが「ウエストサイド物語」の音楽となったのです)

私は、このように創造の過程とその客観性へ移る、まさに境界線上にいるゆえに、
私には何かを論じる資格があるのではないかと、機中で考えた次第です。

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私が頻繁にうける質問を引き合いに出して話を進めます

「あなたはピアノに向かって作曲するのか、それとも机に向かってなのか。
そうでなければどこで作曲するのか」という質問です。
これに答えて申しますと、
私は、ピアノに向かって作曲することもあれば、机に向かって、時に空港で、
またある時には街を歩きながら作曲することもあります。
しかしたいていの場合は、ベットに横になっているときか、ソファーに寝ころんで
いる時であります。

思うにこれは一種の夢幻状態であって、創造という仕事と瞑想ということのあいだ
には非常に密接な関係があるのです。
横になっていて、次第に意識にかすみがかかってくると、
意識のレベルが降下しはじめ眠りに入りつつある幻想があらわれる領域の、
どちらともつかない境界のあたりをさまよっていることがよくあるものです。
こういった経験は、独創的な人であるか否かに関係なく、誰もが持っています。

もし幻想のなかにいる自分自身をながめていることができる程度の自覚、観察力、
客観性を失わないでいることが誰にでも可能であるとすれば、それはすばらしい
ことではないでしょうか。もとめているのはそういう瞬間なのであります。
もしてその幻想がたまたま創造的なものであったり、たまたま音というかたちを
とっていたり、あるいは構図を手段とする作家や画家であったとしたら。

このようなお話をしていると、すべてひどく神秘的で、不可思議で、あやしげな
このとのように聞えます。こうした論法の中にはいくぶん気取りがあるように
感じられるからですが、しかし一方そこには一つの真理も含まれているものです。

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ユングがかって創造の過程を説明しようと試みたことが思いおこされます

彼は「たまごのから」をもちだして説明したのです。
たまごのからには通気性がありますが、
その中にあるもの(たまごのなかみである流動体)を無意識と名づけました。
彼はさらに「たましい」という言葉も使いはじめますが、わたしたちは、
たましいにまでは立ち入らないことにします。

次に彼は、たまごのからが通気性に富んでいればいるほど、
そのなかにある物質(真に価値のあるもの、神からさずかった、幻想の本質)
によりちかいものがにじみでる、という仮設をたてたのです。
 
彼は、この卵殻に「人格」という呼び方を好んでもちいておりました。
もし私が、自分は人目にどううつるか、どううつって「ほしい」かという一つの
心像をいだいているとすれば、それが私の人格であって、
これは卵殻の内部にある私の「精神」と対立するものというわけです。

そこで、きわめて自我の強い人はきわめて固い卵殻をもっていることであり、
したがって通気性に乏しく、逆に自我が弱いと、あるいは自我が弱ければ
弱いほど、中の物質はにじみでやすくなるのです。

例えば、シユーベルトといった作曲家は、非常にうすくて通気性に富む卵殻を
もっていたことになります。なかみは常にあふれ出ておりました。 
彼は、寝ていても覚めていても、その間に休みなく作曲を続けていたのです。
いわば彼はつねにこういった夢幻状態にあったのです。
彼の卵殻自体はそれほど重要ではなかったのです。

彼は、だらしのない身なりでいつも薄汚れており、
極端に内気で気軽な付き合いができず、女性をおそれ、
騒ぎが起こりそうな気配を感じただけであわてて逃げ出し、
言ってみれば外で歩くことでさえ満足にできなかったのです。
これとつり合って、中から出てくるものはそれだけ自由に流れ出したわけです。

さて、これはあまりにも単純化しすぎた考えであることは明らかであって、
私はこれを指示する気は全くありません。
創造の過程というものの意味を考えるのに、それが非常に明快な方法であることから、
皆さまにお話している次第です。

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次に扱う問題は、才能と狂気の関係という昔からの議論です

なぜならば、卵殻が薄ければ薄いほど、世渡りは当然むずかしくなり、
社会に融合しにくくなるからです。
皆さまは、会社に出かける前には髪を整え、街に出かけるには衣服をつけなければ
ならないのは当然で、こういったことは文明とか社会とかにつながっています。
卵殻がもう少し薄ければ、そこはもう狂気の世界です。
病院のベットで、すばらしい無意識の言葉をしゃべりちらしている人は
精神異常なのです。

そのようなものを書き取って、それが真の芸術であるとするのを、
しばしば耳にするのです。
たしかにそれは緻密な構造をもつ芸術ではありませんが、
その人の非常に深いとことからでてきた無意識的なものである以上、
少なくともそれは芸術の本質である、とだけはいえるのです。


何か真に重要なものがあらわれ出るには、このような夢幻的、狂気的状態が
必要であるという点はみとめることにしましょう。
この点こそ、つまりそれが頭の中で慎重に練り上げたものではないということ
こそ、あらゆる芸術において最も大切な点であると私は考えます。

もし必要にせまられて、私がいまピアノに向かい、11時までにソナタを1曲
完成させようと心に決め、しかし一方頭の中には何の楽想も浮んでこない
とした場合、おそらく私の全くの意思だけによって11時までにソナタかなにか
短い作品を仕上げることができるでしょう。
そうような作品によい点があろうとは思われません。
なぜならば、それは無意識から生まれたのではなく、私の頭脳の人工的な、
思考力をもった、理知的な、批判力のある、抑制された部分からできたこと
になるからです。
したがって夢幻状態はどうしても必要なのです。

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夢幻状態のなかで知覚されるのはいったい何なのでしょうか

知覚することのできる限度は、せいぜい作品の全体の姿についてです。
言いかえますと、冒頭の音がどうなるかさえ分かっていないかもしれないのです。
全体の姿をとらえたのであり、そこでなすべきことは、それを表面に引き出して
それを誘導することです。誘導というのはかなり意識的な過程であるかもしれませんが、
それがそこに存在することが分かっているのです。
概念が把握されたということ、それが望みうる最大の成果なのです。

第2番目に重要なのは、雰囲気、つまり全体的な状況の知覚であります。
これには形式の構造が含まれていない点で、作品全体の姿とは違っています。
どこか内なるところから生まれるものである限り、それを知覚できたということ
に意味があるのです。
あらゆる真の芸術作品は、そのまわりに独自の世界を持っており、
そこにはある独特のにおい、ある独特の感じがあります。
同じ芸術家の作品であっても、真に優れた作品であればひとつひとつが、
全て違っています。

期待できることの第3の段階は、テーマを知覚すること。
つまりテーマは、発展性をひめた基本的な楽想あるいは動機となりうるものであって、
それがすばらしい成果、すばらしい展開の可能性を約束することにもなるのです。
創意にとむテーマであれば、それはただちに分かるものです。
さかさまにしたり、逆方向にするとうまくゆくことや、それがすばらしいカノンや
フーガになるということが分かるのです。
私が強調しているのは、そのテーマの中にある創意や柔軟性、発展の可能性です。

ひとつの旋律のみを知覚することは、第4位の段階なのです。
旋律の知覚は、テーマよりも、その重要さにおいても、また思いつきとしての
望ましさの点でも劣っているのです。
なぜならば旋律うというのは、たとえそれがいかに美しいものであっても、
終わったときには結局完成されてしまうからです。
旋律は展開させることができません。
テーマの場合にはそれが可能なのです。

最も劣るものとして、第5の段階もあると思います。
ひとつの断片的な部分、ひとつの和声進行、あるいはひとつの修飾、
ちいさな着想、何らかの効果、楽器の組み合わせといったようなもの、
つまりふと思いうかぶことで、そこから非常に多くの他のことがらが
連想によって発展してくるといったようなもの、を知覚することです。

そして第6の段階はもちろん就眠です。
これは実はしばしば起こります。
実際は、たいていの場合こういうことになってしまうように思われます。
ところで、就眠状態にはいるという事実は、かならずしも何事も起こらなかった
という意味ではありません。
すばらしい幻想を知覚していながら、うすあかりの世界とまざめた世界との境界に
とどまることができなかったために、眠りにおちてしまったのかもしれません。

夜まさに眠りにはいろうとしている時に、自分が絶対にいるはずのない場所に
いるとか、するはずのない話をしているとか、まったき意味のないおろかしい行為
をしているといった幻想の経験を、どなたもかならずもっていることと思います。
私がいま話題にしているのは幻想であって、夢ではありません。
完全に眠っているときではなく、ほとんど眠っているときの話をしているのです。
こうしためざめ、つまりうすあかりの状態からの離脱は、たいていの場合、
それ自体がちょっとしたショックであって、この気持ちの動揺に影響されて幻想は
完全に消滅してしまうのです。
私の場合、いつもそうなるのが自分でも分かっています。

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よくできた交響曲であった、しかし彼はいうべきことを何ももっていなかった

新聞などによくこう書かれています。
優れた創造者は「何かいうべきこと」をもっており、一方、
つまらない芸術家は「いうべきこと」をもっていなかったということで、
創造者の優劣が区別されるのです。
「いうべきこと」とは実に意味深長な不思議なことばです。

それにしても、なぜ作曲家は何かをいいたがるのでしょう。
かりに、事実、いうべきことを持っていたとしたらどうだというのでしょうか。
彼はなぜそれを自分の胸にしまっておかないのでしょう。
それは、抑えることができないものなのです。
それが芸術家の本質です。

もちろん私生活ではこういったことは不可能です。
なぜなら、いいたいことがあっても自分の順番を待たなければならないのです。
自分の言いたいことを、誰かが聞きたいと思っているかどうかを確かめなければ
なりません。
パーティであれば、絶好の機会が来るのを待ち構えていなければなりません。
ところが作曲家とか芸術家の場合は、とにかくそれをいいだすことができる
という特権をもっているわけです。

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いわないではいられなくさせるものとは、いったい何なのでしょうか

それは、伝達したいという欲求なのです。
誰もが誰かほかの人と近づきになりたいと望んでいるものです。
エリック・フロムは、愛こそこの世界で伝達のあたたかさをいくらかでも
感じさせることができる、唯一の手段であると本で書いていますが、
私もこれは真実ではないかと思っています。
もっとも、私が付け加えたいのは、愛が唯一の手段ではないということです。
芸術も一つの方法なのです。芸術を通しての伝達です。

つまり皆さまは、モーツアルトのあたたかいフレーズが耳に聞えてくるとき、
愛と同質のなにものかを受け取っているともいえる、という気がするのです。


何かをいいたいというこの衝動は、それを聞かせたい相手(この場合は聴衆)
との関連の中でおこるのです。
私自身、曲を書いているときはつねに聴衆を念頭においていることを自覚しています。
聴衆を意識しないという作曲家も多数います。
聴く人のあるなしにかかわりなく、いうべきことをいうのであると彼らは主張します。
神の栄光のために作曲するというバッハたちの方向をめざす人たちです。
しかしバッハがきわめて功利的な作曲家であったという面も知られています。

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「いうべきこと」とは、主情的なものなのでしょうか

誰かになんらかの情報を伝えるような曲をつくることは出来ないのであり、
その曲でなにをいいあらわしたいのか注釈でも加えない限り、
なにかを描写する音楽をつくることさえ不可能なのです。
例えば、ベートーベンの「田園」交響曲は。。。
作曲家がどのような注釈をつけているにしろ、それは決して事実を述べて
いるのではなく、それが主情的なもとなることは避けられません。

もちろんそれは冷静に回想された感情であることが必要です。
そしてこの冷静さとは、私が説明してきた半眠状態をさすことはもちろんです。
回想は冷静に行なわなければなりません。
興奮の感じられる曲は、決して興奮している作曲家によって書かれるのではなく、
絶望の音楽が絶望している作曲家によって作られることは決してないのです。

私たちは、ベートーベンがあの「田園」交響曲を書いているすがたを
思いうかべてみましょう。
森を歩き、岩に腰をおろして、かたわらを流れる小川に目を転じ、
そしてやおら手帳が取り出されるというわけです。
岩に腰をおろしていたのでは交響曲は書けないのです。
家に帰っていすにすわり、気がちらないようにブラインドをおろして自然界を
完全に遮断しなければなりません。
どうしたらこのフーガに最適の第三声部を創作することができるか、
に集中しなければならないのです。

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概念というものについて、私が最後に申しあげておくべきこと

ここで概念というのは、あの魔法のことば「いうべきとこ」をさしているのですが。
概念というものについて、純粋に音楽的な面からのみあつかってきました。
しかし、この夢幻状態の中でおこる知覚がどのようなものであれ、
それは多くの非音楽的な面からも影響されます。

心象に入り込んでくる非音楽的な要素にはどのようなものがあるのでしょうか。
夢幻状態で横になっているとき、どういうタイプの作曲家であるかによって、
かならずどこかで何らかの検閲が行われているのです。
たとえ無意識にではあれ、楽奏の取捨選択がなされているのです。

例えば、民族主義がそれです。
19世紀にはそれが特に大きな影響力をもっていて、重大な問題であり、
芸術のあらゆる分野で大規模な運動がくりひろげられました。
こうした民族主義は、すべて非音楽的な要素です。
いくらかでも民族主義的な感情をいだいていたとすると、それはつまり
夢幻状態の中に非音楽的要素が介入して、条件をもうけることになります。

アメリカ人の場合、それがジャズというかたちであらわれると思われます。
もし私が、アメリカ的な曲を書こうと慎重にかまえてとりかかったとすると、
できあがる作品はつまらないものになると思われるのです。
アメリカ的なものが絶対要素となり、その曲の重要な構成部分をなすからです。

仮に私が、およそ考えられないつまらないテーマを作ったとします。
腰をすえてこの旋律を書き、こういうのです。
「実につまらないし、その上アメリカ的な感じもでていない」
さて、どうしたらアメリカ的になるでしょう。
少しばかりジャズの技法を加えるとよいのです。
例えば、整然としたリズムの代わりにブーギーのビートを使って同じものを
書き直すのです。わけもないことです。
こんどはいくらかの個性と、いくらかのおもしろみが出てきます。
それよりいっそうジャズ的にすることもできます。
どのようなことでもできるのです。
どうしたらよいかが私にはよくわかっているため、そのような方法をきわめて
意識的に使ったというわけです。

作曲界では、そういった方法で作曲する作曲家がいますし、いつの時代にも
絶えることはありません。
この方法で創作する作家、画家も同様です。
そして最後に彼らは、感動的といえるほどの作品をたずさえて表われるのです。
このたぐいの音楽はあとをたたず、堂々とまかりとおるばかりか大変な興奮
をさえまきおこすのです。
それが内的なところからでてきたものか、あるいは外的なところからできたもの
であるかは、必ず判定できるものです。
そしてもっともすぐれた判断力をもっているのは、まったく意外にも
批評家でもなければ、作曲家でもなく、大衆なのです。

   *    *    *

私がこれまで話してきたことは、すべての作曲家の内部で作用しています。
ただしく作用しているかは、ひとえに無意識と意識とがどのような割合になって
いるかにかかっています。
作曲家がどの程度のところで自分の心を決め、自分の方針を実行に移してしまうか
によって変わるのです。

もしそのような決断をくだす必要が全くないのなら、幸運な作曲家であるといえます。
あらゆることがひとりでにおこってくるとしたら、その作曲家はめぐまれている
といえるのです。
もし自分で決めなければならないのであれば、おそらくその人はもともと作曲家
などではなく、道をあやまっているのです。

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質疑応答の中から

質問: 夢幻状態についてのお話が多かったのですが、あなたのお考えでは創造とは受動的な...
バーンスタイン: いや、そういうことではありません。

質問: 質問が聞えなかったのですが。
バーンスタイン: ただいまのご質問は、夢幻状態に関する話が多かったが、つまり私は、
創造とは基本的に受動的な状態であるかといいたいのか、ということですね。

質問: はい。

バーンスタイン: ではお答えします。そういうわけではないのです。
この創造という行為は非常に神秘的なので、もしそれが真に創造的なものであれば、
むこうからとりついてくるのであって、能動的なものであります。
ともすると私たちはそれの奴隷になってしまうという意味においてのみ、
それは受動的であるといえるのです。
わたしは、そのもたらす興奮と狂喜を皆さまにお伝えできたらと思います。

これのとりことなったときの異常な陶酔感に比較できるものはなにもありません。
ただ自己の内部にとじこもり、ただそこに横たわっているのではないのです。
たとえば、ある楽奏がひらめいてピアノに向かい、それにとりかかるとします。
自分が次に何をしようとしているかは分からないのです。
すると次になにか別のことをしているのです。
そして、その次のことをしないではいられなくなるのですが、
その理由は自分にもわかりません。
それは狂気であり、すばらしいことであり、匹敵するものはどこにもないのです。


質問: あなたは、創造力を得るのに横にならなければならないのですか。

バーンスタイン: たしかにいえることは、私がこれまでに得た楽奏のうち、
最もよかったおおくは、決して横になっているとに生まれたのではないのです。
たとえば、あるロシア風のレストランで食事をしているときに、雑談中に、
頭に浮かんだ旋律をナプキンに書きとめて家にもちかえり、あの曲の第一楽章を
書き上げたのです。
自分のある一部で雑談をしていたとも考えられますが、
そのときに何かがうかんでくるのに、ちょうど十分な程度にくつろいでいた
ともいえるのです。たいへん説明しにくいことです。

また、ピアノに向かっているときに考えがうかぶこともあります。
ある作曲家が同時にピアニストである場合には、普通こころみるのは、
ピアノに向かってなんでもかまわず即興的に弾き続けることです。
目を使わない分だけ気持ちをくつろがせることができるのです。
自分がなにも見ていないときに、自己を把握しようとするわけです。
こういったことは、なにか精神分裂的なところがあって、
気違いじみた作曲家が非常におおい理由もそこにあるのです。
...おや、ずいぶん遅い時間になってしまいました。
質問はもう一つだけ。


質問: 音楽を意識的に聴くことによって、創造の過程を逆にたどることができる
とお考えでしょうか。

バーンスタイン: そして、あなたがお聴きになっている音楽をつうじて、
作曲家がそれを書いたときの段階にまでさかのぼる、ということですか。
あなたのおっしゃるのはそういうことでしょうか。
考えられないことはないような気がします。
きわめて神秘的な考えかたです。
私が話してきたどのことよりも神秘的であると思われます。

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