--発表原稿--


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1998.7.25 東京農工大学大学院 連合農学研究科
(宇都宮大学配属)博士課程1年 鈴木研二


「豊かさと発展の価値観を問う」



 出発点としての東北タイということから話を始めたい。これは私が「発展途上国」と呼ばれる地域で、考えたことや学んだことである。

1.出発点としての東北タイ 〜修論作成を通じて考えたことと学んだこと〜
1.1貧困とは何か 〜東北タイは貧困地帯か〜東北タイは貧困地帯か?
 私はここ数年、東南アジアにあるタイ国の特に東北地域を対象として天水田稲作に関する研究を行ってきた。研究するための準備としていくつかの文献を読むうちに、多くの文献の冒頭部分には、以下のような文章によって東北タイが紹介されている。「東北タイはタイの面積・人口のおよそ三分の一を占める地域である。この地域の所得水準は低く、貧困地帯である。また、東北タイはタイの首都であるバンコクへの労働力の一大供給源となっている。」私が引っかかったのは、この貧困地帯とは一体何を意味するのか、ということである。実際に現地を訪れてみたが、人々は飢餓に怯えている訳でもなく、生活に困っている様子もない。現地調査の副産物として、私は地域格差や貧困ということを改めて考えるようになった。

1.2劣位農村地域の抱える問題
 東北タイからの農閑期における季節的な出稼ぎは、伝統的であり、このような点においては日本でも同様の現象がかつては存在していた。しかしながら、これはおおよその諸国で確認されることだが、農村を捨てて都市へ移住する人が多く確認される。地域(農村)から都市への人口移動の発生は歴史的であるものの、近年急速に増加している。こうした背景には、雇用機会がないという決定的な理由がある。タイではかつてから存在する「バンコクへの農閑期における出稼ぎ」から、年間を通じた出稼ぎや定住まで進みつつある。タイでも日本の中山間地域と類似した現象が起こっている。中国では「盲流」という用語が定着した。このような状況は、都市への憧憬・貨幣経済優先に立脚したものであるといえよう。

1.3豊かさの指標
 中村尚司(1989)は『豊かなアジア貧しい日本』で、以下のような貧困を計る既存の物差しを整理した。
・ 所得基準:金額表示(経済生活の実態を正確に表現できていない)
・ 栄養摂取量基準:生命維持に不可欠な栄養物の摂取量
・ 生活資料基準:栄養摂取以外の物やサービスなど文化の側面を含む
 しかし、中村は「どうやら貧困とは、衣食住の充足度、あるいはカネやモノの有無によってのみ決まるものではなく、人間と人間との社会的な関係のあり方によって決まる、と考えたほうがよさそうである。」、すなわち「貧困とは経済的従属関係である。」としている。これは、「同僚に毎日メシをおごってもらう。」という例で説明されている。一方で、単一指標の不充分さを補うために複合指標を採択する傾向もある。BHN(Basic Human Needs)などがその例である。
 東南アジアの描写として「貧困であっても飢餓はない」などと表現されることがある。貨幣経済から見て東北タイは確かに「貧困」であった。現物経済という観点からは、食に関する現物は、稲作の限界的な状況にある東北タイでさえ、豊富であるといえる。果物などが比較的年間を通じてそこいらにあるのだ。食料は豊富で腐敗も早いから、「残さず食べなさい」という習慣もあまりない。このように、考え方(基準)によって貧困あるいは豊かさの捉え方が変わってくるのである。


 次に、偏った価値観・判断基準ということで話をする。これは、私の生まれ故郷でもあり最もよく知っている「先進国」と呼ばれる日本の現状を、私なりに解釈したものである。ここで注意すべきなのは、以下で指摘する問題は、日本の固有の問題ではない、ということ。欧米が始めたことであり、現在「先進的な発展途上国」がまねをしようとしている。

2.偏った価値観・判断基準 〜人々は何を拠り所にして、何を欲しているのか〜
2.1人々の生活観は経済至上主義・拝金主義に支配されているのではないか。貨幣経済への従属を支持する過程もしくは、何でも貨幣で片付けようとする価値観が定着してしまった観がある。すなわち「物質文明」が「精神文明」を凌駕してしまった。迎合型社会の弊害。消費者・業者の指向に合わせた生産物。例としては、流通上の利便を追求し、見た目重視のまっすぐなキュウリ。本来甘酸っぱいはずの果物も、甘いだけの果物になってしまっている。甘さを指標化する糖度計の開発とその普及によって、甘いだけの果物を育種するという図式によって、この状況は説明される。

2.2情報や数字の弊害
 支配的な数字による判断、本来は間接的判断基準であるべき。不充分な数値化がまかり通っている。例えば初任給やビタミン含有量、糖度など、単一項目によって指標化されたものがのさばっている。これらは対象のほんの一部分を数値的に表現しているに過ぎない。また、以下のような問題も、これらに関連していると思われる。
・ 多い情報量:人間の処理能力以上の情報が簡単に入手できることとして、情報の氾濫は大分前から指摘されている。単一基準から複合基準によって豊かさを評価しようという動きがあるといったが、指標が多すぎるとどこで効いているのか、つまり輪郭がぼやけてしまうということもあって、余計わからなくなってしまうこともある。
・ 少ない検討項目:情報量が多い割にはなのか、多いからなのか不明だが、物事を検討する際に、偏った基準によって判断してしまうことが多い。甘いだけの果物の開発が盲目的に進んでしまう。思慮深い開発行動とは思えない。

2.3発展至上主義
 今日の新幹線は昨日のそれより速く走るべきである、と考えること。他にも、経済は成長すべきであるとか、利便をとにかく追求するなどということを前提として受け取っている人が多い。狭い意味での産業の分野では、技術革新や激しい競争を強いられる。発展しなければいけないような価値観が植え付けられてしまっている。そして、発展に対する固定観念は、その基準である(何とか率)などの「指標」を支持している。


 最後に、今後の展望ということで、題名に表現した私の意見を述べる。また、これから行われる討論につながるような形で締めくくりたい。

3.今後の展望 〜価値観の転換、均衡ある価値観の採択〜
3.1発展追求型社会に対する疑問
 そもそも発展しなければいけないのか?ということを、一般の人はもとより、特にエンジニアリングの分野に関わる人が考えなければなるまい。伝統的な社会は確かに平凡であろう。しかし、見方によっては良き停滞であるともいえる。合理性や効率など、貨幣経済にとって都合のいい部分以外はことごとく切り捨てられてしまっている現状に対してどのように対応してゆくべきかが問題である。

3.2価値観の問題
 経済至上主義を冷静な目で見ることのできる生活観を養いたいものである。偏向した価値観はそろそろ転換を迫られているとも考えられる。では我々は農業・農村への回帰を促すべきなのか。最近盛んな農業・農村への回帰に対して、普通の広告のような性質を持たせるのは危険である。農村での生活を理想として追い求める都市生活者には思いもよらない苦労が農村にはある。豊かな農村像の描写も重要であるが、それを指向する価値観がなければ意味がない。ある人にとっては黙っていても農村はいい場所なのである。

3.3二項対立
 豊かさ・発展などという抽象的な表現は議論を難しくするかもしれない。では、どのような具体的な問題に書き直すことができるだろうか。いくつかの図式がある。以下の例は見事に二項対立を成している。都市と農村(地域格差の問題)、商業的農業と自給的農業(生産と消費の問題)、農業生産物における量の増大と品質の低下。これらを部分的に解消する方法を模索することは、先の抽象的な問題を扱う上での具体的な足がかりになると考えられる1。


議論の前に
 私は東北タイのことについては皆さんよりも少しは詳しいかもしれませんが、豊かさや発展などについてはよく知りません。そもそも豊かさや発展については勉強して知ることのできる部分といくら勉強しても知り得ない部分とがあるようです。豊かさを例に取ってみると、豊かさの基準や歴史的な事実に詳しい専門家はいても、「豊かさとはなにか」についての明確な回答を持った専門家はまれであると思われます。「豊かさや発展のあり方」について考えるということは、知識の積み重ねだけでできるものではないのでしょう。従って、このテーマについては、比較的平等な立場での議論が期待できるのではないでしょうか。


参考文献
中村尚司(1989)『豊かなアジア貧しい日本』学陽書房
大薗友和(1998)『新・アジアを読む地図』講談社
一般に、ひとつの国家を形成・維持するためには「国土の均衡ある発展」が必須であり、歴史的にもこの均衡が崩壊したときに革命や内紛、独立分離などが起こると見なされている。戦後の日本の国土政策は「都市と農村」の格差是正、「過密と過疎」の解消を望んでいたといえる。その対応策としては、農家所得の向上を第一義的な目標として、具体的には農産物価格の安定・維持や補助金の投入などがとられてきた。このように、政策などにおいて、この地域格差を問題視することが多いが、私はこれを経済至上主義に基づく視点であると考える。



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