しんときょろりんの家>かじゅある>愛蘭土>ケルト■はじめに |
おそらく世界中にいるという「ケルトファン」と違うのは、その最初のアプローチだったろう。 まず「ケルト」があった訳ではないのだ。 私の場合、アイルランドという辺境の国を知り、それが「ケルト」であった。 その名を認知したのも実際にかの地へ渡り、よくあるスーベニア・ショップで 「ケルティック・アクセサリー」なるものを見たのが始まりだった気がする。 いわゆるケルト・ブームはいまなお広がり続けているそうなのだが、 そんな訳だからケルトに関する知識もいまやちょっと本屋さんに行けば、 詳しく解説してあるものがいくつも出版されてい、それは当然のことながら とても私の及ぶ範囲ではない。 この自然発生的な、つまりは「誰かの仕掛けなしに」起こったケルト信仰は、 たぶん多くの人が指摘するように「世紀末的」「物質文明の幻滅」など、 不可思議で超自然現象を容易くといったら語弊があるが、 受け入れられる「気分」の落とし子であろうと思う。 ケルト、要するにケルト人というのは「謎の多い」存在である。 それは「文字を持たなかった」ことから、口承で伝えられてきた経緯により ますます霧は深まるのだ。 ケルト人自身も「想像力に富む人種」であったとされるが、その歴史の空白の部分を 私たちはいかようにも想像できる。 文明と対峙する「野蛮さ」は、ともすれば私たちが失ってしまったものでもあるが、 ケルト神話の残酷さと奇蹟の列挙はまさしく「これでもか」というくらいに繰り返される。 端折ればいくらでも洗練されるものを延々と、 まるで装飾は多いほど良いという強迫観念の如くその枝葉を広げて行く。 気分の高揚する英雄話はいつまでも聞いていたいと、より脚色されより大袈裟に肥大化してゆく。 話を戻そう。 私にってのケルトの取っ掛かりは「アクセサリー」であったが、 タラブローチにしてもアイリッシュハープ、おなじみの「渦巻き模様」にしても、 それは「フォルム」としてかなり魅力的なものだ。 ケルト人は装飾品に関しても独特の才能があったとされているが、 そのカタチはシンプルさと複雑さが入り混じり、完成された造形美を感じさせる。 いや、完成はしていないのかもしれない。 なにせ渦巻き模様は「永遠」をあらわすものらしいから。 |