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自然・歴史


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アイルランドに興味を持って、まず第一に私がしたことというと資料館に行ってアイルランド関係の文献を調べたことだ。今なら関連サイトへ行くようなものである。しかし当時はインターネット環境が整っていなかったこと以上に、「アイルランド」そのものの認識が日本の中では希薄でありお隣の英国などに比べると、本当に雲泥の差…というよりはアイルランドという国自体まるで存在しないかのようであった。資料館ではどちらかといえば辞典的な資料調べに終始した。その中でも、歴史的な混迷ののちに拗れすぎた北アイルランド問題と、密接に関係していると思われる「自然(地理)」的データはただ数行の文字だけであっても、私に多くの想像を与えてくれた。どこからみても決して恵まれた国・民族でないことだけはたしかだ。移民の流出状況からもそれは明らかだが、そういう僅かばかりのデータから、同じ小さな島国でありながら大陸の西と東ではこうも違うものなのかと、もしかしたら私はアイルランドのその向こうにいつも日本という国を見ていたのかもしれない。
 

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2度目の旅行でアイルランド第2の都市コークにて朝散歩に出掛けたときのことである。アイルランドというと「エメラルドの島」と別名が付いているほどに緑が多いとされている。実際に多いのだが、だからといって「自然に満ちあふれた」ところかというとそうではない。その朝の散歩で、どうも目がしばしばするというか何となく変なので何かゴミでも入ったかと鏡を見てびっくり。顔中なにやら黒い埃というか塵というか、小さな黒い点々がいっぱいくっついていたのだ。アイルランドにはいちおうIRという国有の鉄道があるが、全土をフォローしているかというとそうではなくて、人も物資も移動手段としては長距離バス・大型トレーラーといったガソリン車なのだ。排ガス、ことにディーゼルがもくもくとした黒い煙を大量に撒き散らしながら疾走している。朝の清々しい気分はいっぺんに醒めて、早々にホテルに帰って顔を洗った。都市部はそうした輸送用の大型車以外にも、交通量は極めて多く渋滞も多い。はっきりいって空気は汚れきっている。自然や環境に対する感じ方というものは、妙なものだとつくづく思った。アイルランドだけが特別な訳はないのに。その後も「街歩き」をすれば車との折り合いをつけなければならないことを思い知ること数知れず。車道沿いの環境はどこも同じ。汚染された空気があるばかりなのだ。
 

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歴史の陰の部分に触れよう。といっても悪名高きテロ組織IRAのことではなく、アイルランド近代史上最悪の「飢饉(ファミン)」について…しかし、その「真実」はごく最近まで歴史上の恥部として覆い隠されていた。なにより、アイルランド国民自身が直視できかねる複雑な社会構造上の事情があった。それは日本においての「従軍慰安婦」問題であり「南京大虐殺」に匹敵する出来事であったと。1845年夏、アイルランド農民の主食であるジャガイモ疫病が発生する。これはすなわち「死」を意味した。事実、壊滅的な餓死者を出した。餓死のみならず飢饉により蔓延した熱病での死者を含めると150万人が死んだといわれている。そう、この近代ヨーロッパ史上例のない惨事の実体はしかしながら、当時はおろか現代まで封印されてきたという。なぜか?
飢饉はたしかに起こった。が、貧しいアイルランド人が「食べることを許されていた食べ物がジャガイモだけだった」という事実に何よりも着目しなければならない。肉や野菜はすべてお隣の英国へと運ばれていったという事実。たとえ飢えて死ぬものが出ようが(それが赤ん坊や病人であっても)、英国は自分たちの当然の「取り分」として、容赦なく奪い去っていったという。そのうえ飢饉により地代が払えない小作人たちは、英国兵士たちの手によって住居さえ追われた。搾取につぐ搾取…こうして自尊心どころか生きる意欲さえ失っていった彼らが選んだ道は海を渡ること。1851年からの70年間にわたって451万人以上が移民により祖国を離れていった。いや、移民によってしか生き残るすべがなかったといった方が正しい。もちろん、新天地を見ることなく息絶えたものもおびただしい数にのぼったという。これが英国の過酷な植民地下にあったアイルランドの、つい一世紀あまり過去の姿である。アイルランドにおいてさえ、「歴史の教科書」には「飢饉の恐怖」のみを描き、真実は糊塗されてきた。
シンニード・オコナーは歌う。真実をさらすこと、そしてそれを深く悲しむことなしには先へ進めない。その傷を真に癒すこともそれを許すこともできないと…。
 

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初めてひとりでアイルランドに渡ったときの旅は、周遊型のプランで、時間の許す限りあちこち訪ね歩き見て回った。そのひとつにコーク郊外のブラーニーという村があり、そこはお城が有名なところだった。ブラーニー城を有名にしたのは城壁の頂上部にある石のひとつを、18世紀にプラウトが「ブラーニーストーン」という詩に書いたことに由来するという。その内容は、「城のブラーニーストーンにキスする者は誰でも「雄弁」の才能を得ることが出来る…」というもので、元来「おしゃべり好き」なアイルランド人ではあるがその中でも口べたな人のために作られたようなささやかな伝説の趣だ。憧れの人に告白する勇気あるいは議員や弁護士になりたい人の演説の武器として…と。
さてその城は世界的に有名なこともあって、きちんと入場料を徴収して管理運営されている(アイルランドの城は外から見る分には無料のところが基本)。大型観光バスが乗り付け、団体客も多い。その中にひとめで「知的障害者」と分かるグループもいた。とはいえ、アイルランドにはそういった人々を普段から目にすることが多い。民族的にどうなのか知る由もないが、かといってそれが問題になるものでもなく、ごく普通の人々として扱われ普通に暮らしている(少なくとも私にはそう感じられた)。最初は英語という言葉(それもアイルランド訛)の壁と相まって「理解を超えた存在」である「彼ら」が本当のところ恐かった。しかしながらハーンも告白していたように思うが、日本人の「曖昧な微笑み」もまた不可思議なものとして受け取られるものだ。トイレという場で、その団体と遭遇したときはもしかしたらお互い、「どうしよう!?」と思っていたのかもしれない。しかしすぐに気を取り直して普段通りに振る舞っていると向こうもリラックスし、私という人間はもう「見知らぬ異国の人」ではなくて「どこにでもいる人」となったようだ。
思えばそれが車椅子の人であれ、歩行困難なほどの老人であれ、真っ昼間の酔っぱらいであれ、どこかに引っ込んでいることはなく、そのため私のような観光客でもごく普通に目にする訳だ。かといって、暮らしやすいようにバリアフリーな環境が整備されているのではなくて、敢えて言えばそこにいる人自体がバリアフリーなのかもしれない。もちろん、すべてがそういう人ばかりではなくて、慇懃無礼だったり乱暴だったりもするのだが、概ね「世話好き・人好き」でそれを常とする気質が出会った多くの人たちから感じたものだった。
 

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司馬遼太郎著「街道を行く/愛蘭土紀行」が今年(1999)国営放送で映像化された。番組中のアラン諸島の不毛の地の描写を見ていて、ふとかつての日本においてのイルカ騒動を思い出していた。あるいはクジラ問題。知能の高い哺乳動物を食らうとは(殺すとは)何たることかと西欧諸国から日本がたたかれた出来事。「たたかれたこと」に関しては政治的経済的なパワーゲームが作用したのであろうし、それぞれの言い分も納得度に差はあるものの「気持ちは分かる」という、はっきりとこうだと決められない要素を含んでいた。ただ、そのときの模様を描写した誰かだったかが、「それを「当然だ」と思わないでほしい」というニュアンスを提示していたのだけが心に残っている。どんな立場もそれを「卑屈」に考える必要はないが、少なくとも「謙虚さ」はあってほしい。例えば漁民たちの立場で言えば、クジラやイルカを殺さないと死活問題になるということを訴えてもそれは仕方がないが、だからといってヒステリックに「殺して当然」というのはやりきれない。かれらが殺されなければならない悲しみをいちばんに受けるべきなのは誰なのか?ということだ。もちろん、クジラなどはとても神聖化されていてクジラがいるから生きて行けるのだと祈りながら漁に出ている人たちのことも聞いたことがあるので、「自分たちの犠牲になっていてくれている」という思いをいちばんに持っているのが誰なのかは考えるまでもないのかもしれない。
アラン諸島の人々が厳しい自然から「与えられるものが少ない」のにも関わらず、ますます信心深く心穏やかに優しい人間性が、「自分たちに「当然」与えられるべきもの」などという強者の論理が少しもないことからくるのではないかという司馬氏の暗黙の指摘として伝わってくる。これは前記のクジラ漁のみならず、もし「不遇な現在の自己」があるとすればそれをどうとらえるのかという事例として普遍的なものではないだろうか。善悪の区別がつきかねるようなこと、あるいはある苦痛なる出来事に対して自分がそれをどうとらえればよいか混乱してしまうようなときには、このアランの人々のように「決して卑屈にならず、しかし謙虚に」そのことを考えられないだろうか?と。人間が営む日常生活においては「自然の法則」だけではなく、多くの規範が存在する。それはときに肉体的、精神的苦痛を与える。もちろんその根底には種々雑多な人間たちがより摩擦なく暮らしてゆけるようにと考えられたものであるのだろうが、どのような法則(法律)も完璧ではあり得ない。誰かがどこかに不満を持つ。正しいことばかりでは息が詰まる、と。また、妬みや羨む気持ちが暴走してしまうこともあるだろう。どうしてか? 「多くを持つ」ことにより豊かになるどころかますます殺伐とするのはなぜか? たとえば生まれついて「飢えていない」のは、「豊かである」のはその当人の責任ではないだろう。どこのどういう家に生まれるかはまさに運命であるのだから。世界には貧しい国が確かに存在するが、そのことに対して「豊かである」ことに引け目を感じることはない。ただ「当然」と思うのはやはり驕りであると思う。
「卑屈にならず、しかし謙虚に」という気持ちをひとことで表すなら「感謝」になるのだろうか。生きていることへの…たぶん、この「生きていること」に感謝することなしに謙虚には生きられないだろう。生きることはそれほど忍従に満ちていることだから。規範はおそらく「易きに流れないこと」であると思う。アランのあの厳しい自然を肌で感じたならそれが容易に屈しないものであることは想像に難くない。だからこそあらゆることに謙虚になれる。いたずらに「堪え忍ぶ」ことなど必要でないかもしれないが、たとえ自分が心地良くなくとも少なくともその苛々や鬱憤を晴らすために自分や周りの人間を傷つけるだけならコトは簡単だ。その自分の負のエネルギーをそんな簡単に発散させてしまうのでは、この先もずっと易きに流され自らの責任は他者へと転嫁し、どこまでも転がり落ちて行くだろう…簡単に。そうならないためには常に自然(運命)に対して「謙虚さ」を持つことしかないのだろうと私は思う。そしてその不運に対処するために何か「過ち」を犯してしまったら、どうにかして軌道修正を試みること…開き直ったり「自分のせいじゃない」と転嫁したりすることなく、謙虚に反省すること。それが「心穏やかに運命を受け入れる」ことにつながるのではないだろうか。

 

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