旅・1991


しんときょろりんの家かじゅある愛蘭土>旅■1991

 

 

1991年3月26日(火)

京都から上京。(弟の下宿先に前泊のため)
京都の地下鉄はいつものごとくスムースだったが新幹線はめちゃ混み。
12:00東京駅着。
弟と難なく落ち合い、時間がないからと旅行の荷物をコインロッカーに預ける。
それからがタイヘン。
英ポンドT/Cを扱う銀行が全然なく、同じ銀行の支店をタライ回しの状況。
外貨担当のおニイさん、おネエさんは揃いも揃って高飛車・不親切。

それでもなんとか営業時間内にT/Cを手に入れ、もうひとつの目的地である政府観光局へと向かう。
アイルランドのは小さかった!(注:まだ山雅ビルにあった時代)でもとても親身になってもらった。
英国の方はクタクタに疲れた果てに訪れたので資料をもらうだけ。
夜もなかなか寝付けず、朝方まで何度も目が覚めた。

 


 

1991年3月27日(水)

通勤ラッシュの中、今回の旅の同行者である弟ともに上野駅に着く。
京成スカイライナーは9:20発、10:20成田着。
すぐさま英国空港カウンターに行きチェックイン。(11:00)
成田発13:40、ヒースロー着(現地時間)16:45。
到着はBA専用ターミナル4なので、急いで巡回バスにてエア・リンガス(アイルランド航空)の発着するターミナル1へと移動した。

しかし何ということだろうか。
おりしもイースター休暇とのことで、全機全席「FULL」の状態。
この時期はアイルランドへ帰る人、遊びに行く人でごったがえし、発券カウンターでチケットを購入することなどどだい無茶な話だったらしい。
日本で発券せずにヒースローで買う方が断然安いし、まず「満席で乗れない」ということなどないという友人の助言がこうなると恨めしい。
たしかにヒースローからアイルランドへは(特にダブリン行きは)1時間に1本のペースで便が行き交っているし、ふだんならその友人のアドバイスは的確であったと思う。
ただし、その国の文化について詳しくなければ「現地発券」は大変な賭けであることが身にしみてよく分かった。

そうしてその日にアイルランドに降り立つことを断念したのだが、不幸なことは重なる。
着いたその日と最終日のみ、ホテルの予約を日本から入れてあったのだ。
それもご丁寧に予定では最初に行くのがアイルランドだったのでその日に私たちが確保していたのは、たったいま行くのを諦めた国のホテル。
つまりわざわざ取った予約はキャンセルしなくてはならないし、そのうえであらたにホテル探しもしなくてはならなくなったという訳だ。

まずいきなり国際電話で、それもアイルランド人相手にしゃべらなければならないというヘヴィな場面に目眩がしたがそんなことは言ってられない。
とりあえずレートが悪いという評判の空港の両替所でポンド硬貨を手に入れる。(いまなら電話もカードで掛けられるのだろうが…)
にわかに英作文をでっち上げ、英国からアイルランドに電話を掛ける番号を冷静に組み立ててプッシュボタンを押す。

人間、必死になれば何とかなるものである。
自分でも何を喋ったのか、それに対して相手がどういう答を返したのかなどいまではどんな英会話が成立したのか思い出せないのだが、とにかくもアイルランドでのホテルの予約を延期してもらえた。
確実ではないくせに「OK」の返事を聞いたと確信している自分がいた。

次はその日の宿泊所確保だ。
空港のインフォメーションに行き、これまたそうとう怪しげな英語でホテルを探してもらう。
そこは空港内の施設といっても、サービスではなくお金を取って紹介しているおじさん1人でやっているようなカウンターだった。

元々の計画では目的地はあくまでアイルランドであり帰りに少し英国巡りをしようというくらいの予定であったのが、急きょ拠点の変更を余儀なくされ、いまだ頭の中でキチンと行動を把握できないままロンドンに3泊することになってしまった。
せっかくアイルランドまであと少しというところで足止めを食ってしまいはたして今後も席を確保することができるのだろうか。
いやいやその前に、空港で紹介されたホテルを無事見つけることができるかどうか。

そんな不安を抱えたまま、初めて乗るアンダーグラウンドと呼ばれる地下鉄に揺られて、カラダは疲れ切っているのに神経だけが張り詰めていた。

 


 

1991年3月28日(木)

ヒースローの空港ターミナル2で予約したロンドン市内のホテルはハイドパーク近くの「サボイコート」。
不案内、それも夜で見つけるのに苦労するかと思ったけれど、地下鉄を降りてしばらく探し回ったのち、なんとか見つけることが出来た。
ホッとしたものの今後のことを考えると気分が滅入ったが、一晩ぐっすり眠ると少し落ち着いてきた。

窓から見える景色は隣の建物裏だったけれど
朝の冷たい空気にさらされていると、きょうこれからこの異国の地でいろいろとやらなければならないことを思い、「うん。なるようにしかならないさ」と奮い立つ気がした。
開き直りといおうか、もうあれこれ考えたところで(ましてや後悔したところで)どうなるものでなしと、とにかくもこのロンドン滞在を楽しむことにした。

ホテル近くのハイドパークはその昔、ローリング・ストーンズが野外コンサートを開き有名になったそうだ。
弟はストーンズのファンなので感慨深げだった。
しかし広い。
公園というのは本来こんなにも広いものなのだろうかと感心してしまうくらい広い。
それもただただ芝生が続いているだけである。
子どもの遊び場があったり、花壇や噴水があったりという変化に富むものではなく、広々とした緑の絨毯が広がっているだけ。

朝だからか、犬を散歩させている人をたくさん見かけた。
どれも大型の犬だったけれど、この公園の広さならみな思う存分、駆け回れる。
走るために生まれてきたようなスラリとした体躯の犬たちがのびのびと走っている姿は実に美しかった。

広大な芝生を抜けて、ファッション発信地区といわれるキングズロード(当時。現在のトレンドは残念ながら存じあげない)へ向かう。
最先端であろうがなかろうが、どちらにせよ我々には何もかもが珍しくも思える反面、DCブランドに席巻されている現在の日本の状況(シツコイようだが当時)から考えると、とりたてて大した「何か」のある店があるようには思えない。
ロンドン・ファッションというのは、常に過激で新しいのだがそれがためにとても「洗練」とはいかないのだ。
またそれらは音楽と切り離しては考えられないものでもある。
それで一方では熱狂的に支持され、他方ではまるで「クズ」のように評価される。

一通り見て歩いた後、地下鉄でピカデリーサーカス近くのHISを訪ねた。
この格安航空券で一躍成長した日本の旅行会社のロンドン支店はリージェント通りという特徴的に湾曲した道沿いにある。
何かあったときはお世話になるかもと、簡単な地図と電話番号を控えておいたのだが、まさか早速お世話になろうとは。

アイルランド行きのエア・チケットは、4月1日出発4月3日リターンのが取れた。
ただし、ヒースローではなくリバプール発着のライン・エアという耳慣れないローカル航空会社のもの。
リバプールは当初、余裕があれば行ってみようぐらいの予定の街。
たった1便のズレが今回の旅のすべてを根底から覆すこととなった。
HISのあとはBR(ブリティシュ・レイルウェイ)でリバプールまでの往復チケットを予約する。
まさかとは思うが、念のために「指定席」にする。(当日BRの席も取れなければ、笑い話どころではない)
カード会社のロンドン支店でリバプールのホテルを探してもらう。
支払いもカードで出来るからインフォメーション・サービスは利用しない手はない。

 


 

1991年3月29日(金)

さて今後の予定がようやく決まり、肩の荷がだいぶおりた。
だからという訳でもないのだがきょうは思いきり「観光客」してしまった。
ビッグベン、ウエストミンスター寺院、バッキンガム宮殿、ロンドン塔にタワーブリッジと、恥ずかしいほどおきまりのコース。
地下鉄の1日乗車券(ワン・デイ・カード)を駆使して回れるだけ回る。
ひとつだけ心残りは大英博物館。
ここでもイースター・ホリデイという「壁」が立ちはだかった訳で。

それにしてもロンドンの地下鉄は東京がマネをしたというくらいだから、表示からしてよく似ている。
古い路線と新しい路線が複雑に入り組んでいる。

BRはロンドンを拠点に英国の各地方を放射線状に結んでいるが、ひとつひとつの発着駅は結構離れていて、それを取りまとめて(?)いるのが地下鉄(サークル・ライン)である。

地下鉄へ降りるエスカレーターも古いものが多く、木製のものもありおまけに随分と長い。
ロンドンの地下鉄はかなり地下深くを走っているようだ。
数年前火事騒ぎがあったそうで、全線禁煙。
これは徹底していて、見るからに「ワル」っぽいモヒカン兄さんやケバイお姉さんたちも誰1人として煙草を吸ってはいなかった。

 


 

1991年3月30日(土)

ホテルをチェックアウトしてすぐBRの駅には向かわずにカムデンロックのフリーマーケットに行く。(ここも当時はロンドン子(というより観光客?)御用達の(笑)流行発信地区(死語))
この古着とアンティークというより単に雑貨、そしてレコードが主体のマーケットで弟は黒の3つボタンジャケットを購入。
そこのオヤジさんは妙に人なつっこく愛想は抜群で彼にとっては良いカモだったのかも。>弟

ユーストン駅11:00発、BRの指定席は隣同士ではなく斜め向かいの席だった。
これまたイースター休暇の影響かBRもほぼ満席状態。
空いていたら勝手に席替えしようなどという目論見は叶わなかった。

リバプールに着いたときは少し雨が降っていた。
バス・ターミナルで予約したホテルの所在地を教えてもらう。
そこは最寄りのバス停から歩いてすぐのところだったにも関わらず我々はそれを見逃し、大きな公園とおぼしき芝地に辿り着いた。
そこを犬の散歩している人に教えてもらうべく地図を持って近づいて行ったのだが、気配を察知してかどうか早足で離れて行こうとする。
他に人影も見当たらなかったので我々も必死に走って声を掛ける。

どうやら大変シャイな男性だったようだ。
見知らぬ東洋人に声を掛けられるのがイヤというよりも大変な恥ずかしがり屋さんなだけ。
とても親切にホテルの位置を教えてもらった。
彼だけでなく、ここリバプールで出会った人々はみなとても「いいひと」たちだったように思う。

リバプールはイングランド第2の貿易港であると共に60年代ブリティッシュ・ロック・バンドのうち最もブレイクしたビートルズゆかりの地としても著名だ。
2泊する予定ではあるものの明日は日曜日。
イングランドではどこもかしこも「休み」になる恐れがあるので(注:昨年だったかな、ハロッズも日曜営業に踏み切ったのは?景気の低迷で伝統ばかり守っていられないというところだろうか)、とりあえず弟が行きたいというビートルズ関係の店に向かう。

ビートルズ・グッズ専門店で弟は自分のために、私はビートルズファンの友人のためにいろいろと物色。
しかし何ということだろう。
私の買い求めたグッズは「めいど・いん・じゃぱん」。(大汗)
まったく…

そのあと、マシューストリートやキャバーンクラブ(ただし、復刻版のお店)を回った。
イエローサブマリンのオブジェが可愛かった。

 


 

1991年3月31日(日)

またまた典型的観光客してしまった1日。
まず「ペニーレイン」通りに行き、ひととおり散策したあとタクシーで「ストロベリーヒルズ」に行く。
もちろん写真をバシバシ。(笑)

そのあとまたシティセンターに戻ってきて、もう一度ビートルズショップに行ってみる。
どうやらここは日曜でも開店しているらしい。(商魂かサービスか!?)
そのあとピアヘッドという港の先へ行き、リバプール市の資料館のようなところに入る。

大きな錨があった。
どっしりとして大きな錨が。
この港から世界に向けて大英帝国の物質文化が数多く発進されていった。
同じリバプール出身のニューウエーブ・バンド
エコー&ザ・バニーメンの歌の中で私が1番好きな「セブン・シーズ」に思いをはせる。
シンプルな小品でバニーズにしては明るめの可愛らしい楽曲なのだが、それでいてやはり拭いきれない翳りもある。

リバプールを包んでいるこの少し陰鬱な空気、それが七つの海にどうしようもなく憧れる気分を生むものなのかもしれない。
 


 

1991年4月1日(月)

リバプールのアリシア・ホテルを11時にチェックアウトしてタクシーで空港に向かう。
ホテルから見て市街地のちょうど反対側に空港はあった。
煉瓦造りの古い家並みとそこここにある大きな公園を過ぎてリバプール空港に着く。

小さな空港だった。
タラップで機内に乗り込む。
乗っているのはほとんどアイルランド人なのだろう。
日本人はいない。

数日前、ロンドン・ヒースロー空港に降り立つとき、飛行機の窓から森に囲まれたイングランドの
絵本にあるような風景を目にしてドキドキと感動したことを思い出した。
イングランド同様、アイルランドも緑深い島国だ。
空高くから見下ろすとおとぎの国のような可愛くて不思議な国。
「不思議な」というのは「知らない」からだろうが…。

きっと、世界中のどこでもそこに住む人たちというのは似たり寄ったりの生活をしているだろうし、笑ったり怒ったりして死んでゆく。
時間の流れは継続的で、決して私たちが降り立ったときから歩み始めるのではない。
そんなことは当たり前なのに、初めてそこの空気を吸い目に触れてそれらが輝き始めるような気がした。
私の中で。

ダブリン空港に到着したのは午後2時過ぎ。
まず市内のインフォメーション・オフィスに行って情報収拾。
本日のホテルはどうやらかなり南でシティ・センターから離れた場所にあるらしい。
あと2日目のホテルも探さないといけない。
ホテルのチラシのようなものから適当な値段のところをピックアップ。
まずは行ってみようということで地図を見ながら探す。
あまり迷うことなくそのB&Bは見つかった。(実際、分かりやすいところにあった)

縦に細長いアパートのようなところ。
同じような建物が並んでいるその中の1つで、町中であるのに比較的静かな場所にあった。
部屋を見せてもらった。
日当たりが良く、壁の白さが目に付いた。
最初からあまりに気に入らないことがない限り、次を探しに行くことは
やめようと思っていた。
ホテル探しにそんなに時間は取っていられないし、疲れてもいた。
明日の予約を取り付けて、本日のホテルに向かう。
日本で予約をしていて、本当なら初日に泊まるはずだったホテル、ヒースローから冷や汗ものの英語で予約を延期してもらったところだ。

ダートと呼ばれるダブリン郊外電車(路線は一本きり)に乗れば予約していたホテルの近くまでゆけると分かった。
停車駅から見えるほど近かったので探すことなく辿り着いてチェック・イン。
予約は無事、振り替えられていたようだ。(もしかしたら単に空き部屋があっただけかもしれないが)

まだ余力があったので再びダートでシティ・センターまで戻り、オコンネル通り(ダブリン最大の繁華街)やクライスト・チャーチなど歩いてゆける範囲を散策した。

 


 

1991年4月2日(火)

アイルランドの滞在はたった2泊。
ゆっくり出来るのは正味本日の1日だけだ。
まずインフォメーションまで行って、半日のバス・ツアーに参加。
始まってすぐに、参加を後悔してしまった。
たしかに座ったままいろんなところに連れていってもらえるしドライバーも一生懸命ガイドしてくれていたのだが、
何を言っているのか英語がほとんど分からない。

午前中のツアーのあと、きのう予約したB&Bにチェックインした。
それからは徒歩で散策することにする。
でもいわゆる観光地ではなく、名付けるなら「U2縁の地ツアー」のようなもの。(注:現在では立派に観光地だろうが…)

まず録音スタジオがあるウインドミル・レーン。
世界中の「U2信者」が訪れたのだろう、通りの壁一面は落書きMSGで埋め尽くされていた。
次に「グロリア」のプロモ・ビデオを撮影したといわれるグランドキャナル・ドックス。
そしてメンバーがよく訪れたというパブ「ドッカーズ」。
こう書いてみると順調そうだが、ひとつひとつを見つけるには相当苦労した。
だいたいが尋ねても誰も知らないのだ。(注:当時)
そのためかどうか、見つけたときには大層感激してしまった。

ドッカーズでサンドイッチの昼食のあと、繁華街に戻りナショナルギャラリーやグラフトン通りを散策した。
1日で回ったにしてはそれなりに充実していたはずなのだが、時間が少なすぎる…もっとゆっくり居たい…そんなことばかり考えていた。
それになによりどこでもいいから「お城」を見たかった。
しかし有名なお城はどこも離れたところにある。
ダブリン郊外に「マラハイド城」という可愛いお城があると聞いていたのだが、ついにそれがどこにあるのかさえ分からなかった。

軽い失意ののちに日が暮れた。
日本から予約していたホテルはたいへん立派で、節約旅行の私たちには
過ぎたぐらいのところだった。
けれど「せっかく来たのに…」という微かな無念を癒すことは出来なかった。

もう一度来よう。
近いうちに。絶対…
そう思いながら眠りに落ちていった。

 


 

1991年4月3日(水)

リバプールへの帰着便ライン・エアのチェックイン時間は17:30。
きょうはそれまでの時間「お土産」探しに費やす。
お店はショッピングセンターを中心に回った。
そのひとつ、「セント・スティーブンス・グリーン・センター」でここに来て初めて日本人旅行客と出くわす(ロンドンでは山と出くわした)。
「どっから来たの?」
「じゃあ、ばいばい」
と、会話とも言えない短い挨拶をかわしただけで別れた。

次の「パワーズコート・センター」はもとお屋敷を改造したというだけに少し薄暗く独特の雰囲気のある建物だった。
木造の床をギシギシいわせながら、部屋ごとに分かれているお店を見て回る。
角のお店(典型的スーベニア・ショップ)に入っていろいろと物色する。
床に大きな動物の敷物があるな…と思ったら、それがピクンと動いたので仰天した。
マウンテン・シープ・ドッグが寝ていたのだ。
折しもその店の奥さまが帰ってこられたのか、その犬は嬉しそうに立ち上がって飛びついていった。
足を延ばせば優に2メートルは超す巨大な体躯。
でも「おかえりの儀式」が終わるとまた床に長々と寝そべってしまった。
至極おっとりどっしりした性格的にも温厚なヤツらしい。
思わず店主に「写真を撮っていいですか?」と聞く。
「もちろん」と彼は微笑んで、その犬を挟んで弟と私とをカメラに収めてくれた。

その店で私はアラン模様のカーディガンとアイリッシュ・レースのコースターを買った。
店のショッピング・バッグには今しがた写真に撮ったばかりのあの犬がプリントされていた。

そのあとオコンネル橋の畔にある出来たばかりらしい「ヴァージン・メガストア」ダブリン支店に行く。
胸に「DUBLIN」と白地に黒のゴチック体で大きく書かれたTシャツを大量に購入し、レジのお兄さんに
「全部Tシャツなんだね〜(CDは買わないのかよ〜)」と苦笑される。
仕方ないもん、お金ないんだから…。
ビューリーズにも紅茶のお土産目当てで寄った。
さすがにスーパーに置いてあったのより高価で、私は見るだけだったが弟はいくつか買ったようだった。

B&Bにチェックアウト後に預けておいた荷物を引き取りに帰り、中央バスステーションまで歩く。
心残りは重いくらいあるのだがギリギリまで街をうろつくより空港の免税店で時間を使おうと早めに出発した。
空港バスがバスステーションを出るとき、「MALAHIDE」という標識が目に入った。
あそこからバスが出ているんだ…突然、寂しい気持ちに襲われた。
こんな間際になって見つけるとは、ある意味で残酷でもある。

空港DFSでは「シルクカット」という日本でもお馴染みの煙草を買った。
リバプール空港から再びアリシアホテルへと戻る。
フロントのお姉さんが私たちのことを覚えていてくれて「お帰りなさい」と声を掛けてくれたのが嬉しかった。

 


 

1991年4月4日(木)

リバプールですっかり馴染んでしまった「アリシアホテル」を出てBR駅にバスで向かう。
駅前のショッピングセンターで車内で食べるサンドイッチとジュースを買い列車に乗り込む。
帰りの便もほぼ満席だった。

ロンドンに戻って、本日予約しているのは空港近くの(つまりロンドン郊外の)ホテルなので、荷物を背負いながら最後のお土産探し。
その途中でビートルズのレコーディングスタジオだった「アビーロード」に立ち寄り、またもやミーハーと化す。

ちょっと一服しに入った本屋でしばらくぼんやり時間をやり過ごす。
弟はその間に、ロンドン滞在3日目の夜に見に行ったライブハウス「マーキー」にそのとき買えなかったグッズを購入しに行っていた。

広いとはいえないその書店内で
「なにやってんだろ私…こんなところで」という思いがぐるぐると頭の中を巡っていた。
実際、カラダは疲れ切っていて早くホテルに着きたいという思いとこんな中途半端なままでこのまま帰ってしまっていいのだろうかという残念な気持ちが交互に現れては消えてゆく。
弟が帰ってきて、「じゃ、行こうか」と声を掛けてくれてやっと我に帰れたような気がした。

初日に乗った「ロンドン郊外線」でヒースロー空港エリアに戻る。
空港からホテルまでは専用の送迎バスが巡回していた。
ダブリンで泊まったホテルと同じく、日本から予約していたホテルはどちらも私たちにとっては「高級」な大型ホテル。
情緒はないが設備は整っていた。
そこにいると、日本のホテルにいるのと変わらない感覚になる。

TVだけが異国の言葉でニュースを伝えていた。

 


 

1991年4月5日(金)

チェックインは13時。
成田に着くのは明日の朝11時過ぎの予定だ。
BA専用のヒースロー・ターミナル4は広々としていて美しく免税店でもゆっくりと最後の買い物が出来た。

座席は出発便と同じく機体2階の操縦席後ろの小さなスペース。
実はここはとても気に入ってしまった場所だ。
もちろんエコノミー・クラスの旅なのだが、禁煙席でいつも1番早めにチェックインしていたせいか、往復ともこの特別室ようなコンパートメント仕立ての2階席が取れた。
通路はひとつで3席ずつ20列ぐらいの小さな空間。
旅の終わりもここに座れてよかったとつくづく思った。
とても静かで落ち着いたこの見慣れた場所で。

 

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