旅・1992


しんときょろりんの家かじゅある愛蘭土>旅■1992

 

 

1992年6月8日(月)ダブリン泊

長い一日だった。
時差が8時間あるので実際長かったのだが。

まず伊丹発のJALは成田に定刻より早く着いたのだが雨のため着陸に時間がかかった。
降りるのにタラップを使う。
リヴァプール空港以来のことだ。

雨が降っていて風も強い。
降ろされたのが北ウイングの端だったので、チェックインカウンターまでかなり歩いた。

BAもこれまた悪天候で離陸が遅れる。
それでも気流の関係か、ロンドン・ヒースローには定刻より30分早く着いた。

が、問題はそのあと。
入国手続きがもうタイヘンな手間取りようで、すっかり足止めを食らってしまったのだ。

アイルランドへヒースロー経由で行く場合、空港以外の英国の地に一歩でも踏み入れなくても「入国」しなくてはいけないことになっている。(その代わりアイルランドでの入国チェックはない)

ヒースローの入国管理官は、一ヶ月も観光するなんて勤務先の証明書はあるのかとか、アイルランドに一ヶ月も居ても見るべきもの(名所?)はないとかなんとか、くどくどと非難した。

帰国便のチケットも、ホテルの予約証も見せろといわれて素直に見せたのにこの言われ方。
たく…アイルランド人が聞いたら怒るぞ。
他人の仕事のことまで余計なお世話だわさ〜。

とにかく、日本人スタッフの方が出てきてくれて何とか入国できたけどその間30分ほどのロス。

当の審査員はまだ納得できていない様子だったが、
言っちゃ悪いけど、私にとっては英国は単なる通過点なだけで本当は直接アイルランドに入りたかったんだからね。
それに会社がどうとかこうとか…日本の職場で私は充分満足しているよ。

どなたかも本に書いていらしたけど、いまどき英国で一旗揚げよう(??)なんて人日本人でいるのかしらん?
ただ仕事を見つけに来る人なんて??

ヒースローの審査所はいつも長い行列が出来ていて混み合う場所らしいが、そのワケが少し分かった気がする。

ダブリン空港に着いたときにはすっかり夜だった。
予約していたホテルは町中の便利な場所にあり、なおかつランクも良いところだったはずなのだが、案内された部屋のトイレがいきなり壊れているアクシデントに見舞われ、早々に部屋替えしてもらう。
やれやれ。

お風呂で汗を流してベッドに腰掛けようやく一息つけた。
ほの暗い照明の中にいると何やらすうっと不安が頭をもたげる。
本当にこれから一ヶ月間、ひとりでこの誰も知る人のいないアイルランドの地で過ごしてゆけるのだろうかと。

「疲れているせいだ」と声に出してみる。
それに夜だから…

一晩ぐっすり寝て朝の光の中で目覚めればきっとワクワクとした期待の方が勝るに違いない。
しかし、まだ何も始まっていないのに逃げてしまいたいほどの不安。
自分の存在のちっぽけさをただただ感じていた。

 


 

1992年6月9日(火)ダブリン泊

さて、2日目と3日目のホテルがまだ決まっていない。
ダブリンとコークは相場が高く、日本から代理店経由で予約できるところは予算オーバーになってしまうので、あえて予約を入れなかったのだ。

自由旅行においての宿泊についての考え方には2通りあると思う。
まず、元々気ままな旅なのだから自由に動き回れる「場所」に重点を置き、その日に行きたいところに行って気に入ったところを探すという考え方。

もう1つはホテルというのは前もってリサーチしておかなければ最悪の場合「ホテル探し」で一日が終わるようなことにもなりかねないのはナンセンスだという合理主義に基づき、自由に動き回れる「時間」の方に
重点を置く考え方。

もし私が男だったら前者のようにも考えられただろうが(野宿も覚悟なら、なお選択肢は広がるものだし)
女の1人旅、ましてやカタコトの英語力という要素を考え合わせるとどうしても後者にならざるを得なかった。

ホテル予約はエア・チケットともに旅行代理店に頼むことにした。
まず粗方の予算を伝えて見積もりを出してもらう。
そして納得できれば予約を入れてもらうという方法だ。

ルートはアイルランドのほぼ半周だから10箇所以上の場所を転々とする。
で、冒頭に戻るのだけれど、ダブリンとコークのホテルだけが納得できかねる値段だったのだ。

どうしよう。ムリをすれば出せない金額ではないけど…と悩んだ末に「現地調達」する気になった訳で。
今回は一ヶ月ほどの滞在なので、着いた翌日・翌々日のダブリンのホテルさえ何とか見つけられれば、あとは時間の余裕もあるからとふんで。

という訳で、現地での「部屋探し」に考えられる方法は3つ。
1日目のホテルを延長してもらう。
インフォメーションで探してもらう。
カード会社のロンドン支店で探してもらう。

まず1つ目はフロントに聞いたが空き部屋がないと断られた。
で次はインフォメーションとなるのだがカード会社に電話するにもインフォの前の中央郵便局に行けば国際電話が掛けられるし、とにかく出発することにする。

で、チェックアウトして重い鞄を抱えてホテルを出たところで、ふと去年の旅行で泊まったB&Bのことを思い出した。
ちょうどここから歩いてもそれほど離れたところではないし、ダメモトで行くだけ行ってみよう…と。

結果、6月はオンシーズンだと思うが「空き」があった。
ただし、空いていた部屋にはバスタブはないし、トイレも共同だ。
さてどうしようか…と思いかけたが、案内された部屋が南向きでとても明るくなんだか気持ちまで晴れ上がってきたので、ほとんど即決することになった。

ホッとしているヒマはない。
明後日からの周遊に必要なランブラーチケット確保やコークのホテル探しなど
やらなければならないことが山とある。
分からないことばかりなんだけど、悩んでいる時間はなかった。

何回も人に聞いて、頭はフル回転させて、その「やらなければならないこと」をひとつひとつクリアしてゆく。
計画立案、実行の繰り返し。
これが旅行のもうひとつの面白さなんだろうと感じながら。

 


 

1992年6月10日(水)ダブリン泊

ダブリン3日目、明日はIRに乗ってキルケニーへ発たねばならない。
そんな「ダブリン泊パート1」の最終日、念願のマラハイドとホースへ行った。

DARTと呼ばれるダブリン郊外線に乗ってまずはホースへ。
ここは半島で、ホースジャンクションから二股に別れている一方なのだがたまたま乗った便がホース行きだったのでそのまま連れて行かれたという案配。

地図を見ながらホース城へと歩き出す。
ガイドブックにもここはリゾート地と書かれていたが、天気も良かったせいかDARTの車窓からは海辺を海水浴する親子連れを見掛けた。
私には肌寒いと感じられた日だったが、短い夏を少しでも満喫したいということなのだろう。

ホース城のほとりの池でこの春生まれたばかりだろう小鴨の一団が親鴨のあとに続いて水面を泳いでゆくさまにしばし魅入られた。

ホース城は緑の丘の途中、森の傍らにひっそりとした風情で建っていた。
個人所有のものらしいが周辺にひとけは感じられなかった。
城までの道も徒歩で行くのは私だけで、木々の枝葉の音だけが風にかすれて木霊しているようなうら寂しい場所だった。
ときおり車が行き過ぎると、走り去ったあとの静けさが際だつ気がした。

何枚か写真を撮ったあと、城を過ぎて丘の道の続きをのぼってゆく。
急に見晴らしが良くなったと思ったら、そこはゴルフ場になっていた。
どうやら車で行き過ぎていった人々の目的地はここだったようだ。

どうしようかと少し迷ったが、時間もないことだしホース散策はここまでとして駅への道を引き返し、次の目的地のマラハイドに向かうことにする。

DARTでホースジャンクションまで戻り乗り換えて…と思っていたのだが駅員さんに「マラハイドに行きたいのだけれど」と伝えると直通のバスに乗るように言われて、停留所を教えられた。

国内でも不案内な土地での線路のないところを走るバスはどこに連れて行かれるか分からず不安であるのに、いきなり大丈夫だろうか…と、乗るときも(このバスでいいのかどうか)、乗っている最中も(いったい今どの辺を走っているのだろうと)ずっと心許なく、たえずドライバーの動きに気を配っていた数分間だった。

降ろされてからも、その場所がどこなのか分からないので、とりあえず最寄りのコンビニで聞いてみようと思った。
趣味で集めているポストカードを適当に選び、支払いの際オーナーらしき人に「マラハイド城はどこですか?」と聞くと、店の外まで出てあれこれ行く道を
丁寧に説明してくれた。(ほとんど理解してなかったけど…)

とりあえず指で示された方向に歩き出す。
有名なお城だ、そのうち案内板でも出ているだろうと思って。

まもなくマラハイド城の入り口らしきものは見つけたのだが、そこを入ってから歩けど歩けど城の姿は視界に入ってこない…本当にこの道で良かったんだろうか?
自信なく、通りすがりの人に確認する。

「YES」と言われて再び歩き出す。
城への道は芝生の開けたところあり、木々の林立するところありと変化に富んでいた。
ここはすべて城の領内というわけか。
なんとも広大な敷地である。

最後にやっと城にたどり着いたときには本当に「やっと」という感じだった。
城の横には観光バスの駐車場が見えた。
城までの道はともかく、城自体は観光コースに入っているということだろうか。

城の前にはまたもや広大な芝生の平原が広がっていた。
その芝生エリアから城の全面を納めるべくカメラを構えた。

城はまさに絵本の「お伽の国」から抜け出てきたような愛らしさだった。
中世の城…といって、多くの人が頭に浮かべるであろう典型的なお城。
皆に愛されているのがよく理解できる。
アイルランドに来ているのだという感慨がまたひとしお感じられた。

DARTと相互乗り入れしているIRでダブリン市街地まで帰ることとなったのだが、思い出深いのはマラハイド駅。
これが城に引けを取らないくらい「お伽の国」していて可愛らしかった。
列車が来るまでの数10分、いま見てきたお城を思い出しながらその木造の小さな駅でぼんやりしていた時間も何やら夢見心地だったようだ。

ホテルに帰って、コークと周遊後のダブリンのホテルの予約の取れたことが確認できた。
なんともすんなり行き過ぎで気持ち悪いくらいだが、念のためにどちらも早い目にチェックインしようと心づもりしておく。

 


 

1992年6月11日(木)キルケニー泊

きょうは朝からちょっぴりついてなかった。

アイルランド鉄道(IR)のダブリン西の拠点であるヒューストン駅はB&Bからかなり離れていたのでタクシーで向かうことにした。
マスターにタクシーを呼んでくれるように頼んでラウンジで待つ。

ところが指定の時間になってもなかなかやって来ない。
IRの時間も迫ってきて焦った私はマスターにタクシーのことを確認した。
これが言葉のニュアンスなのかそれとも単なる気分屋だったのか、B&B主人を怒らせることになってしまったようだ。

早口の英語はほとんど分からなかったのだが
「私はちゃんと連絡した。タクシーが来ないからといってそんなこと知るもんか!」
だいたいはこんなふうなことを言っていたのだと想像する。
プイと怒ったようにして行ってしまった。

どうしようかと一瞬迷ったが、とりあえず外に出た。
流しのタクシーがあるかとかバスに乗ろうかとかいろんな方法が瞬時に頭の中を駆けめぐった。
と、一台のタクシーが横付けされて「駅までの客か?」とドライバーが声を掛けてきた。
引き返してマスターに「来ました」と声を掛けるのも恐くてそのままタクシーに飛び乗ってしまった。

駅に着いたのは出発ギリギリだったのだが改札係等、駅員さんすべてがまだのんびりとしていて、私は思わず車両の確認をしてしまった。(もしかしてもう行ってしまったのかと…)

IR、長距離バス共通のランブラーチケットを初めて使う緊張感もあったのだが改札のちょっと赤ら顔の人の良さそうな鉄道員は「この列車だよ」と、ニッコリ笑って渡したチケットに印をつけた。
どうやら30日間で15回分の使用が可能なので、こうして印をつけていって欄が埋まれば「使い切る」ことになるらしい。

列車の中は比較的すいていて、進行方向に向いている席につくことが出来た。(IR車両はすべて向かい合わせのテーブル付きロマンスカータイプ)
出発予定時間をやや遅れて列車はキルケニーに向かってディーゼルを蒸かせた。

さて、キルケニーの宿泊所でひとつ気になることがあった。
それは前もって手に入れた地図によると所在地がどうも曖昧なのだ。
いや位置的には単純で、駅からのびる一本道をひたすらいった先にあるようだがその距離感がまったく分からない。
予約を入れた代理店からして「想像がつかない」との弁のところだ。

駅についてこの点が気になったのだが、特に疲れてもいないし分かり難い場所でもなさそうなのでとりあえず歩くことにしたのだが、これが大きな間違いであったことはまもなく判明した。
こんなにもロケーションが離れているとは…。

1ヶ月分の荷物が肩に食い込み、何度も休憩をはさみながらいつ着くともなく続く長い道を歩き続けた。

やっとたどり着いた時には本当にすぐにも横になりたいというぐらい疲れ果てていた。
とはいえ、チェックインにはいつも緊張する。
「予約を入れているのですが」と言って代理店から渡された受領書を見せる。

レセプションには男性1人だったが、ただちに部屋に通された。
外観はいかにも郊外のホテルといった趣だったので、オン・シーズンとはいえ平日の客は少ないようだった。

案内された部屋は驚くほど広かった。
ツインのシングルユースのようで、それを考えても広すぎるくらい広かった。
広さを重要視するならば郊外のホテルだなとつくづく思った。

静かで落ち着くその部屋の中で、今日一日を振り返る。
言葉が流ちょうでないために本意が伝わらずに無念だったこと、初めて乗ったIRのこと、へとへとになるくらい歩きづめだったホテルへの道々などを思うに、頭の中も体もなにやら妙に興奮していて、疲れているにも関わらずなかなか寝付けなかった。

 


 

1992年6月12日(金)キルケニー泊

今日は思いがけずアドベンチャーしてしまった。

ひととおり町歩きをしたあと、市街地北方にある聖カニス寺院という古い教会へ行くことにした。
そこにはアイルランド名物(?)の円塔がそびえ立っていて、ふと見ると「入場料50p」と掲げてある。

で、話のネタにと入ってみることにしたのだが、これが何ともえらいこっちゃなことになってしまったのだ。

外から見ると円塔の直径は結構あるように思えたのだが、中はかなり狭い。
いきなりハシゴ状の階段もさることながら、上に行くほどほとんど真っ暗状態。
よく考えたらそもそも円塔には窓がないのだった。(かなり汗)

日本だったら当然、電灯の1つぐらいはつけてあるものだし、その程度で遺跡が破壊されるというのなら保全のために、もとより「入場」などさせるはずはない。
そういうところがアイルランドらしいといえばいえるのだが…。

とりあえず中は真っ暗だ。
手探りで埃だらけの(たぶん)これでもかというくらい長いハシゴを一段一段握りしめながら登る。

実は何度も「もうダメだ。引き返したい」と思ったのだが、下からフランス人とおぼしき観光客の女の子2人連れがすでに私のすぐあとについてキャーキャー言いながら登ってきているので
途中で降りるわけにいかなくなっていたのだ。
で、心は半泣き状態でそれでもなんとか登り切った。

頂上は街が一望できる見晴らしの良さだったが、足も手も恐怖心と疲れでガクガクしていてうまくカメラが構えられなかった。
まあ、またあのハシゴを降りなければならないと思うとそれだけでも震えがきたのだが。

ただ不思議なものであれだけ「なんてこった!」と自分のシチュエーションを呪った体験でありながらこうして思い出してみると、なんだかまたもう一度登ってみたい気になっている。

この強烈な体験のおかげでメインであるキルケニー城周辺散策がいまでは色褪せて思えるほどだ。
お城は立派で敷地の庭は広大で手入れも行き届いていたというのにあの目一杯服を汚しながら登った円塔が懐かしくてならない。

 


 

1992年6月13日(土)ウェックスフォード泊

今日の宿泊場所はウェックスフォードなのだが、この海岸線の街は首都ダブリンからならばIRで乗り換えナシで行けるのにキルケニーからは地図上の近さがまったくアテにならないほど行き来がしにくい。

それで手段としてはまずIRで、いずれ訪れることになるウォーターフォードという川沿いの街までまず行き、そこから1日数往復(1〜2本ぐらいだったと思う)の長距離バスを乗り継ぐことにした。
連結はあまりうまくいかなくて朝早くにホテルを出たものの結局目的地に着いたのは午後2時過ぎになってしまっていた。

ということで中継地点のウォーターフォードの、それも駅で過ごす時間がいちばん長くなってしまった1日だったのだが、日本から持ってきた地図や資料といった情報を鵜呑みにしてしまってはいけないということを思い知った日でもあった。

列車からバスに乗り継がねばらななかったのだが、バスの発着場は前情報ではツーリスト・インフォメーション近くとなっていた。
街の配置としてはウォーターフォード駅だけがシュア河の北の畔にあり、おもだったホテルやインフォメーション、店などは橋を渡った南側に集結している。

ここに腰を落ち着けるのならば何はともあれ重い荷物を運びながらもその橋を渡って河の南側の繁華街に行くのもいとわないが
今回の訪問はただのトランジット。
バスが来たら直ちに出発する予定であるのに、なんだって「乗り継ぎ」だけにわざわざ駅から離れたところにバス・ストップを設けるのかとブツブツ言いながら肩に食い込む荷物を運んでシュア河に架かる橋を渡った。

やっとインフォメーション付近に着いたのだが、どこにもバスターミナルらしき標識は見当たらない。
それもそのはず、インフォメーションで尋ねると、なんとバス発着場は駅と隣接するように移動変更されたと言われてしまった。
それを聞いて肩に食い込む荷物の重みが倍になったことはいうまでもない。

しかし憤りをぶつける相手もなくて、またブツブツ言いながら来た道を戻る。
長距離バスは始めてで不安いっぱいだったが、それ以上に体が消耗していて目的のバスが来たときにはそのドライバーにホテルの名まえを伝え近いところに止めてくれるように頼み込んでいた。
距離的には近いのだが、なんだかくねくねとした道が多く、いま自分がどのあたりにいるのかもサッパリ分からない行程だった。

ようやくたどり着き、降ろされたところは街の南端でほとんど目の前がホテルだった。
キルケニーのホテルも広くて良かったが、ここはもっと気に入ってしまった。

どちらかといえば野暮ったい外観とは裏腹に内装は近代的で南向きの明るい広々とした部屋。
窓からは海岸線が臨める。(オーシャンビューというやつね)
ビジターへとちょっとしたフルーツとお菓子のサービスもあり、何よりフロント以下ホテル関係者たちがとても感じが良かった。
フレンドリーというか気さくというか、心から迎えてくれているという感じ。

ロケーションは街の中心より少し離れているし、バスターミナルなどももう一方の街の端でまったくの逆方向なのだがそれさえなければ本当に最高に近いホテルだと思った。

もちろん私のいうところの「最高」には「コストパフォーマンス」が大きく加味されている。
この価格でこのバリューということで大枚はたけば他にもいくらでも満足感を得られるホテルは存在することだろう。
それで居心地が良いかというのはともかくとしても。

 


 

1992年6月14日(日)ウェックスフォード泊

この日のメインメニューは何といってもジョンズタウン城である。
ウェックスフォード最大の目的地でもある。
街の南郊外にあり、ツアー・バスもあるようなのだが詳細が分からないので1人でタクシーで行くことにした。
これは大正解だったようだ。

このゴシック様式というのだろうか、荘厳かつ幽玄の姿を1人で心ゆくまで満喫することができた。
ツアーなど団体で訪れたならば、その美しさは半減していたことだろう。
タクシー・ドライバーに1時間したらピックアップに戻ってきてくれと頼んだことをすぐに後悔した。
1時間では短すぎる。

まず城にたどり着くまでの緑の木々が素晴らしい。
どこを切り取っても絵になるという感じだ。
少しずつ近づいてはシャッターを切り続ける。

城の内部は農業学校として今も使用されているということだが今日は日曜日。
ひと気はまったくなかった。
城の向かって右側からぐるりと周りを散策しながらシャッターを切り続ける。

ちょうど反対側には池があり、ちょっとした公園になっていた。
風雨にさらされた彫像、屋根の落ちた塔、そのどれもが何ともいえない独特の世界を紡ぎだしている。
目を閉じると葉のこすれあう音が風にまじって運ばれてくる。
あとは自分の存在の「音」だけ。

だから立ち止まって息を止めて耳を澄ますと、聞こえないはずのものまで聞こえそうな静けさに包まれてしまう。
いつまでもここにいて佇んでいたい気になってしまう。
自然と同化してしまいそうなほどに時間が止まっている。

予定時間を少し過ぎて、城の入り口まで走って戻った。
すこし足を引きずりながら(例の円塔登りで痛めたもの)だったのでドライバーが気遣ってくれた。

それから直接ホテルには戻らず、街の中心まで行ってもらった。
インフォメーションは予想通り休日で閉まっていたのであてなく「街歩き」を敢行した。

まず海岸線を歩いていると大きな橋が目に付いたので渡ってみる。
対岸はリゾートホテルがあるようだった。
潮風が強く、寒くなってきたので街の方に戻る。
セルスカー修道院などを見て回るが、朝にジョンズタウン城を見てしまっているので何を見ても今はそれほどの感慨がわかなかった。

あの優美な姿をおさめたフィルムを早く確認したくてならない気持ちで一杯だった。

 


 

1992年6月15日(月)ウォーターフォード泊

地図上で距離的には近いウォーターフォードとウェックスフォード間の行き来が非常に不便なことは先に書いた。

で、急な思いつきなんだけど、長距離バスを使わずにIRだけで移動することにした。
つまり早朝のダブリン行きに乗り、そこからすぐ再びウォーターフォードに折り返すという道のりである。

走行距離はかなりなものであるがIRなので「線路のないところは行かない」という安心感(?)がある。
ダブリンでの乗り継ぎはあるものの(両始発駅はダブリンの東西の端にそれぞれ分かれている)、とにかく時間的にも「確実」である。

かくして半日はIR車内で過ごすこととなる。
これは思ったよりも(精神的にはともかく、肉体的には)ハードだったようだ。

というのもダブリンからウォーターフォード行きの列車に乗って1時間ほどたったとき、自分でも覚えていないのだが猛烈な睡魔に襲われて熟睡してしまったのだ。
目覚めたとき「ここはどこ? 私は何をしているんだろう?」と一瞬分からなくて滅茶苦茶焦ってしまった。

再び訪れた河の街ウォーターフォードは、何だか必要以上に場馴れしていた気がする。
列車から降りるやいなや、すでにチェックしておいた
川の畔のホテルに向かってずんずん歩き始めた。

いつもならまず地図を取り出して、さてホテルはどこかな?と探し始めることから新しい街の旅は始まるのだが、ここは「勝手知ったる」てなものだったから。

ホテルは部屋は広々としていたが古い建物で設備はイマイチだった。
部屋の中に大きな油絵の肖像画があって、これは雰囲気を高める効果より不気味な感じがして、ほとんど目を向けることはなかった。

街歩き1番の目的はウォーターフォードの最大の売り物でもある
「クリスタル」ショップ。
特に前もってどこと決めていたわけではないのだが、ふと入った店のオーナーが日本、それも京都に行ったことがあると話しかけてきたことがキッカケで長居をすることになってしまった。

クリスタル工房の中も見せてもらえて、そこにいた職人さんは熱心にあれこれ説明しながらガラス加工していたのだが、(オーナーとの話でも感じたことなんだけど)「英語での突っ込んだ話」が分からないのが残念だった。

総じてアイルランド人は多弁であるので、ここに限らず知り合いになった人はたくさんお話ししてくれるのだけど、私の英語力は早口のアイルランド弁(?)を
理解できるようなものではない。
だいたいこういうことを言っているのではないかな?という想像のもとに返事をしている。

で、クリスタル工房の職人さんが最後にぽつりと
「君はあまり分かっていないね?」
と言ったのは当たっているだけに苦笑するしかなかった。

ほとんど国際語である英語をちゃんと理解するようになれればそれに越したことはないけれど。
まあ、完璧に理解しているはずの日本語でも、言葉の行き違いや勘違いでコミュニケーション・ギャップというのはあるわけで、単に言葉の問題としてだけ片づけるわけにはいかないことなんだけどね。>意志の疎通

そこではおみやげ品のクリスタル・グラスを2つ買った。
お世話になった人に贈るためのもので私にとっては高価なもの。
鞄に詰めるときには衣類で何重にもくるんで万全を期した。

 


 

1992年6月16日(火)コーク泊

長距離バスの旅はウォーターフォード−ウェックスフォード間を経験済みだが、距離的には短時間だった。

今回のコークまでの旅は2時間ちょっとの予定で、経由地をチェックすると海岸沿いのルートのようだ。
ダブリンで予約していたホテルはコークのバスステーションのすぐ近くで、これならば迷うことなく行けそうだ。

長距離バスはなかなか落ち着かないというか、フロントガラスに張られた表示には目的地しか記載されていないし、本当にこれでいいのかといちいちドライバーに確かめてしまう。
そのうえ始発から終着ターミナルまでだというのに、自分のいまいる位置が分からないと不安なために、隣り合わせた地元の女性に「ここはどこ?」と何度も聞いてしまった。(これは以後の旅でも同じ)

何せバスはところによっては日に1往復。
特にこれから訪れようとしているアイルランド南西部はそういうところばかりでちょっと間違ったからといって取り返しがつくものではない。
始めての1人旅にしてはヘヴィというか綱渡り的精神状態がこれから続くことになる。(以降はゴルウェイ−ダブリン間まで列車の旅はない)

コークというのは尖塔の街だといわれている。
そして坂の多い街だった。

バスステーションはごった返していた。
ここで初めて日本人観光客らしき2人連れの女性を見掛けた。
着いたばかりでまだぼーっとしている私を後目に、慣れた様子で坂の上方に向かっていった。

コークの真ん中にはリー河が流れていて街を南北に分けている。
繁華街は南の地区。
北は住宅地で予約したホテルは河の北沿いに建っていてバスステーションからも見えていた。

ホテルはガイドブックにも載っている年代物の建造物だ。
川沿いの南側から見ると、ちょっとしたシティホテルのようなのだが北の表玄関は赤煉瓦造りの重厚な趣だった。
街なかのホテルらしく狭くて(シングル)、設備も整っているとは言い難かった。

今回の旅行ではどの宿泊場所もだいたい同じ値段で探したのだが「安いライン」というのは部屋の広さと設備において、都市と地方とではこれほどまでに差があるのかということを身をもって体験した。

チェックイン後、少し時間があったので街歩きをしてみた。
最初、バスステーションから見えた大きなショッピングセンターをチェック。
とにかく広い。

スーパーと専門店とが合体した形というのは日本でももう珍しくなくなっているが、デパートという形態が上手く機能しているとは思えないアイルランドなので
こういう大型ショッピングモールは旅行者には大助かりだ。
とにかくチョコレート一枚から旅行のお土産まで何でも揃っている。

ダブリンでもそうだったが、ここに設置してあるトイレは有料だった。
ただ、みんな出てくる人を待ってその隙を狙って(?)
タイミングよく入ってゆくのでお金を払っている人は誰1人いないようだったが。(汗)

 


 

1992年6月17日(水)コーク泊

今日はコーク郊外にあるブラーニー城へ行く。
ガイドブックによると、バスステーションから頻繁に便があるらしい。

ターミナルの窓口に行って、チケットと時刻表をもらう。
同乗者はほぼ間違いなく目的は同じ。
マラハイド城以上に観光地化されていて、ツアーバスが何台も乗り付けていた。

アイルランドのお城はその内部に入らない限り(周りから眺める限り)無料が常だったのだが、ここはその敷地に入るところでしっかりと入場料を取っていた。

その分を取り返すべく(?)城内に入ると「おみやげショップ」などがあって「静かな佇まい」などとは無縁の世界のようだった。
まぁ、とりあえず気を取り直して、皆の後に続いて見学する。

ルートは城の屋上へとのびていたが、それは当然「ブラーニーストーン」があるからだろう。

観光客たちはみな、そのブラーニーストーンにキスする順番を待っているようだった。
私はどうしようかと迷った。
せっかく来たのだから…という思いと、何だか気恥ずかしいという思い。

そんなことをぼうっと考えながら、見晴らしの良いついカメラ片手に足下の注意を疎かにして写真を撮りまくっていたその途中で
何とも見事に滑ってころんでしまった。

一瞬、その場にいた人々の息をのむ音が聞こえたように思った。
実際「おおっ!」とどよめきもあり、人々の視線が一斉に自分に向かっていたのが痛いほど感じられた。

1人の紳士が「滑るからね、気を付けないといけないよ」とわざわざ注意しに来てくれたが、ヘタをすれば転落していたかと思われる状況だったのでムリもない。

あまりの恥ずかしさに動転してしまって、打った痛みとかカメラは大丈夫かとかそういったこと全部がふっとんでしまい心臓だけがばくばくとしていたものの、ひたすら皆の注目がなくなるのを待つように平常にふるまって時をやり過ごした。

城外に出てからはしばらく周りの庭園を散歩した。
そこでフランスのツアーらしき団体と一緒になってしまう。
どうしてフランスと分かったかというとその中の1人の女性とカタコトの英語どうしの会話だったのだが、少ししゃべったからだ。
向こうは団体ツアーに少し飽きていたらしく話し相手を捜していたようだった。

とにかく人が多いことに落ち着かなかったのと、ブラーニー城以外には予定もないのでランチを食べて帰ることにする。

今日に限らず、アイルランドに来てから概ね天気がいい。
日本が梅雨の鬱陶しい時期にアイルランドでは1年で最も美しい時期を迎えるのだろう。
太陽は暖かく明るく、花々が咲き、緑はいっそう鮮やかとなる。
アメリカ・ヨーロッパからの観光ツアーもこの後9月頃まで盛況らしい。

 


 

1992年6月18日(木)コーク泊

コーク最終日、市内観光に明け暮れる。

まずは河の北側だが、相当な坂の街でパトリックヒルと呼ばれる道をまっすぐ北に登ってゆき、ふと振り返るとコークの街が一望できた。
このあたりは住宅地なのだろう、坂が多いこともあり神戸の街並を思わせる。

丘の上から見おろすと、南方の商業地である中心地のそのまた向こうにゆるやかな田園風景が広がっていた。
日本と違って山が少ないので遙か先まで見渡すことが出来る。

ガイドブックにも載っているシャンドン鐘楼や聖メアリー大聖堂とは高度はほぼ同じなのだが、東西につなぐ道がないために再び河近くの道まで坂を下って西に移動する。
くねくねと細い道を行くとすれ違う人々から「ハロー」と声を掛けられた。
いちおう、観光名所だとは思うのだが街の北側は概ね人通りは少ない。

繁華街はダブリンと同じく河の南側にあり、セント・パトリック通りからグランドパレード通りにかけてがいちばんのメインストリート。
スーパー、マーケット、数々のショーウインドウが軒を連ねている。
若者、そして旅行者で常にごった返している感じだ。

グランドパレードの南端にあるナショナルモニュメントのあたりから横道に逸れ、聖フィンバル大聖堂に行く。
白亜の堂々たるその姿をカメラに収めた後、かなり歩いたので休みがてら中に入る。

外は眩しいぐらいの陽気だったのだが、中は薄暗く静まり返っていた。
参列席にしばらく腰掛けて休憩をとる。
暗い中、色鮮やかなステンドクラスが美しく映えていた。

まだ余力があるようなので、フィッツジェラルド公園まで少し足を伸ばしてみることにした。
手書きの地図でもそうだったが、場所はなかなかに離れていて途中道を間違ったこともあり、ようやく着いた頃にはふらふらになっていた。

公園はちょっとした花園という趣のところで少しの休息ののち帰路に就く。
ナショナルモニュメント近くのツーリスト・インフォメーションで明日の宿泊地であるグレンガリフについて情報を集めようとしたが徒労に終わった。

かなり小さな街らしい。
ホテルの所在地はおろか、グレンガリフがどのあたりなのかもおぼろげにしか分かっていない。
不安感が頭をかすめたが、それ以上に歩き疲れで体がクタクタでまあ何とかなるだろうとそのことを考えるのはやめにした。

 


 

1992年6月19日(金)グレンガリフ泊

コークでのバスステーションで、出発時間がほぼ同じバスがあり、どれに乗って良いのか迷ってしまった。

グレンガリフはアイルランド南西部の小さな街で当然というべきか経由地なのでバスにその名は記載されていない。
「グレンガリフに行くか?」とバスが来るたびドライバーに確認する。

ルートはアイルランドでは珍しい山岳地帯だ。
そこを長距離バスは恐ろしいスピードで飛ばしまくる。
なにせ右に左に振られて、前座席の手すりにつかまっていないと通路に転げていきそうになるくらいだ。

グレンガリフに着いてドライバーにホテルを聞いたらすぐに分かった。
停留所の10mほど先だった。
ロケーションはウォーターフォードよりもさらに良いといえる。

ホテルは本当に小さく(グレンガリフ自体が小さいのだが)「小綺麗・こぢんまり」といった表現がまさにぴったり。
道に面しているのだが、車が通らなければ音がまったくなくなってしまうほど
静かな所だ。

近くに「ガーニッシュ・アイランド」という観光スポットがあるとのことで荷物を置いてさっそく出掛ける。

渡し船は始終出ているので特に予約なしでも行くことが出来るようだ。
イタリア庭園など、島全体がガーデニングされていた。
取りたてて書くほどのこともないが、松が目に付き何となく日本を思い出してしまった。

島を一周して再び船に乗る。
他には特に名所もなく店も数えるほどしかない小さな村だ。
いや、村というよりはリゾート地なのかもしれない。

住むには交通の便が悪すぎるし、だいたい人家もほとんどないのだ。
何となく「隔離された世界」であるような気がした。

 


 

1992年6月20日(土)キラニー泊

ホテルの朝食といったら、だいたい7時ぐらいから10時ぐらいのあいだで客は各々の出発時間に合わせて取るものだろう。
しかしながら土曜日だからか、はたまたグレンガリフだからか8時になってもラウンジはシーンと静まり返っていた。
しかたないのでしばらくホテル周辺を朝の散歩がてら歩き回る。

帰ってきてもまだホテルは寝静まっているようだった。
9時になってまたラウンジをのぞいてみると、今度は先客が入っていた。
あいかわらず静かではあったけど。

アイリッシュブレックファーストを取り、部屋に帰って出発の準備をする。
長距離バスの停留所まで、ホテルの女主人が見送ってくれた。

相変わらず、バスドライバーの運転は荒い。
あまり荒いので車酔いするヒマもないくらいだ。
しかし車窓からの眺めはしばし心を奪われるくらいの美しさだった。

「緑の谷」というのはこういうのをいうのだろう。
深い緑と新緑の輝き…緑のグラデーションの絨毯をびっしりと敷きつめたよう。

何度も写真に撮って帰りたいとカメラを構えたのだが、車内の振動はひどくとてもまともにシャッターを切れる状態ではなかった。
あの雄大で感動的な景色はいつの日かぜひもう一度、目の当たりにしたいものだ。

キラニーのバス停は格式高そうな蔦の絡まるホテル前にあった。
このホテルが予約しているところだったらよかったのだが地図の住所を見ると国道沿いのかなり離れた場所にあるらしい。

荷物の重みを肩にずっしりと感じながら歩き出す。
国道沿いのホテル…ということでキルケニーのホテルを思い出したのだが横を通り過ぎる大型ダンプといい、ちょっと悪夢の再来かなと思ってしまった。

排気ガスと埃にまみれてようやく着いてみると、外観はまったく同じようでキルケニーのそれよりかなり広大で、レセプションを訪ねて中に入ると内装も近代的で今回のホテルもいいところだなとホッとさせてくれた。

しかし、いつものように予約票を兼ねたホテル・クーポンを差し出すと何だか様子がおかしかった。
クーポンを何度か確かめ、名簿を繰って、そのうち数人が集まって来られた。

どうやらダブル・ブッキングらしく私ははじかれてしまったらしい。
それで当然のことながら別の姉妹ホテルに案内されたのだがこれが驚いたことに、最初に見たバス停近くの古びたホテルだったのだ。

確かに歴史的建造物というか、風情はある。
ロケーションもいい。

しかし、レセプションは高慢だし、設備といったらお粗末としか言いようがない。
特に水回りはゴボゴボと汚水が逆流してきたりして気持ち悪かった。

しかしここのホテル関係者は
「格下のホテルからラッキーにもやってきた客」というようなこちらが気後れしてしまうような高飛車な態度で接してくる。
まったく、従業員はイングランド系なのかと思うばかりの慇懃無礼さだった。(かなりの偏見…)

ここのホテルの悪印象が、以後「ホテルの予約は自分自身で」というポリシーを持つきっかけになったのかもしれない。
そして、ホテルの印象こそがその旅を左右するということも。

一息ついた後、ツーリスト・インフォメーションに行って日帰りツアーを2つ申し込む。

キラニーには4泊もするのだ。
できるだけホテルには居たくないと思った。
それだけ居心地が悪かったということである。

 


 

1992年6月21日(日)キラニー泊

今回の旅行での初めての「地元のツアー」に参加する。

ただし、今日のツアーは少々不安であった。
というのも前日に「朝の集合場所」の下調べに行ったのだがそれが何とも曖昧というか、どうみても単なるパブの前で「集合場所」にふさわしくない場所だったのだ。

でもインフォメーションの案内の地図ではたしかにそこなのだ。
地元の人に確かめても、地図の場所に間違いないといわれた。
が、何ともいやな予感がしてならなかった。

念のために朝は早い目に集合場所に赴いた。
しかし案の定というべきか、予定時間5分前になっても誰1人としてツアー客らしい人たちはやって来ない。

業を煮やして、思い切ってパブの中に入っていき、インフォメーションで渡された地図を見せて片言の英語で必死に説明した。
するとやはりそこは「集合場所」などではなかったようで困り果てた私を見かねたのか、店の人がツアー会社に電話してくれた。

出発時間は迫っている…というか、予定時間は過ぎてしまっている。
どうなるのだろうかと不安なまま待つこと数分、大型観光バスらしきものが近づいて来た。

どきどきしながら中に入って、理不尽だとは思いながらもドライバーと乗客に謝りながら席に着く。
下調べし、予定時間より大幅に早く指定時間に到着していたというのにという思いが、どうしても笑顔を引きつらせた。

そんなさんざんなスタートのツアーだったが、内容自体もあまり魅力的なものではなかった。
何度も休憩に止まるのだが、それがおみやげ屋さんと
ドライブインを兼ねたところで、何か日本のパックツアーに参加している錯覚さえ感じた。

ツアーの目玉とも言うべき「眺望」も、グレンガリフ〜キラニーのすごい絶景をすでに見てしまった後なのでどうしても色褪せて見える。
「レディースビュー(貴婦人の眺め)」と呼ばれる名所もそう大したことがあるようには思えないのだ。

それにとてつもなく風が強い。
カメラを構えるのもつらいくらいの突風が吹き荒んでいる。
アイルランドは平地でも結構な風が吹いているのだが
山岳地帯ではなおさらにそれが荒れ狂っている感じがした。

明日もまた別のツアーに参加を予定しているのだが、どうだろう。
またまた不安になってしまった。
それにしてもホテルに帰ってきてからまた一段と感じたのだ、ここのレセプションはなんと冷たいのだろう。
アイルランドへ来て、初めてイヤな気持ちになってしまった。

 


 

1992年6月22日(月)キラニー泊

同じホテルに3日目ともなると、妙に居着いてしまっているという感じがした。
相変わらずレセプションは感じ悪いのだが。
今日は「ダンロー峡谷ツアー」で、ガイドブックでもおなじみのコースだ。

印象はというと大きく2つ。
「寒い」と「臭い」。
コースが湖や山中で風が強く体感温度が低いのは前日に引き続きで、「臭い」というのはポニーのニオイだ。

これはキラニーという街全体に満ちている悪臭で、自然のカオリといえばそれまでだが、実際に体験していない人にはなかなか伝わりづらいものかもしれない。

バスで峡谷まで行き、そこからはタクシーかポニーで湖まで行く。
このポニー乗り合い場はまさに悪臭の権化(?)となっていた。
街内のポニー馬車もそうとうなニオイなのだが、これだけの大群になると臭すぎて頭痛がしてくるほどだ。

早く乗って出発したかったのだが、「定員は4名」と
きっちりと決まっているらしく、1人旅の私はあと3人のメンバーが集まるまで延々と待たされることになった。

それも「ファミリー・カップルあるいはグループで来るのが常識」とでもいうように1人で参加した私は鬱陶しがられているのが感じられ、何とも惨めな気持ちにさせられた。(声を掛けた馬車は私が乗るためにメンバーを待ち続けなければならないので御者はイライラしていたのだ)

足下はポニーの落とし物だらけでベチャベチャしていて気持ち悪く加えてニオイと寒さで、ほとんど立っているのが精一杯だった。

ようやく1組の老夫婦と1人の婦人が集まってスタートと相成ったのだが、私たちのグループは最後に近かったと思う。
ところが肝心のポニーときたら体の調子が悪いらしく、何度も止まってしまい、あげくには降りて歩いてくれと言われてしまった。

タクシーを選ぶべきだったとつくづく後悔したのはこのときだけではない。

やっと湖について、疲れてクタクタになっていたがなんとか気を取り直し、チップ(とてもあげる気になどなれなかったのだがぐっとガマンして)を他の3人と同額の2£渡した。
まさかツアーの代金にポニーの乗車料が含まれてないなどとは思わずに。
合計きっかり10£。
正直なところ今回の旅ではかなり痛い支出額だった。ううう

湖を北上するボートは文字通りボートで、寒いわ水しぶきで濡れるわ、風はますます冷たいわで疲れたカラダにムチ打つような状態だったのだがそれ以上に私には気掛かりなことがあった。
降りてからまた「ボート代」なるものを請求されないかと…。
しかしこれは杞憂だったようだ。(どっと汗)

最初に乗ったバスが迎えに来ていた。
ポニーに乗って出発するときに記念写真を撮られたのだが、その焼き増しを売りに来ていた。

どうしようかと一瞬迷ったが、本日の出費は予定を遙かに超えている。
きっぱりと諦めることにしてバスに向かった。
ようやく一息つけるとホッとして、風の当たらない
ありがたい車内に落ち着いた。

すると後から来たツアー客の1人がトントンと肩を叩いた。
なんだろう?と振り返るとポニーに乗り合わせた老夫婦の奥さんの方で「はい」と一枚の写真を渡してくれた。

それは私が「諦めた写真」で、その大きく引き伸ばされた一枚は、ポニーに乗った4人がみんな笑顔でうまく撮れているものだった。
これならたしかにお金を払ってもいいなと思える「良い写真」だった。

「あなた買わなかったでしょう? だから私たちがもらってきたの」
「ありがとう。おいくらでしたか?」
「いえいえ、いいのよ。あなたにあげようと思って…」
「そんな…いくらですか? 払いますから」
「本当にいいのよ。気にしないで」
「そうですか…ではいただきます。ありがとうございます」

旦那さんの方にも礼を言って、ふたたび写真をしみじみと見つめた。
老夫婦はアメリカから来たと言っていた。
隠居後の旅行らしい。

彼らの目から見て私はどう映っていたのだろう。
連れもなく、話し相手もいなくて「かわいそう」に思ったのだろうか。

実際、ポニーを降りるあたりから、「早く帰りたい」とばかり考えていた。
その姿はきっと少しもツアーを楽しんでいるようには
見えなかったことだろう。

言葉がしゃべれたら、この気持ちをもっと細やかに伝えることが出来たなら、「ありがとう」の他にもいろいろ話せたのに…と疲れた頭でぼんやりと考えていた。

顔はいくぶんほほえみを取り戻したと思うが、心の中はまさに「泣き笑い」に満ちていた。
たくさんの感情が一度に押し寄せてきて、どうしていいのか分からなかった。

 


 

1992年6月23日(火)キラニー泊

夜中、寝入ってしばらくして猛烈な腹痛に見まわれた。

ともかくも1時間ほど冷や汗にまみれながらのたうち回っていた。
朝になったらケロッと治ってしまったのだが、ひとり旅の心細さを改めて感じた出来事だった。

朝食にダイニングに行くと、満員で座る場所がなかったので出直すことにする。
9時過ぎに行くと普段並にすいていた。

すでに食べ始めている日本人の団体に会う。
とすると、このホテルは団体向けのホテルかもしれない。
それにしては「近代的」とはほど遠いが、フロントの慇懃無礼さはまさに団体向けという感じ。

昨日、一昨日と地元ツアーに参加したので、きょうは
街歩きをしたが、日本でいうところのいわゆる地方の観光地ぽいお土産屋さんが軒を並べた、取りたてて見るべきものはない街並みだ。
景勝地なので、ツアーで見に行ったような景色以上のものはない。

それで私も買い物に集中したのだが、まあお土産というのはどこでもだいたい同じ物が置いてあるものである。
いろいろと見て回って、同じ品物が一番安くディスプレイしてあるお店に入った。

オーナーもとても親切でいい人だった。
…が、プライスを間違って計算していた。はあぁっ
でもあんまりいい人なんで、チップをあげたと思うことにしようと指摘はせずじまい。(向こうは正しい値段だと思っているのが悲しいけれど)

いろんなことが積み重なって、
今は誰かに「文句を言う」ような気分になれない。

キラニー…日本でガイドブックを見ていたときには、いちばん期待していた場所だ。
それだけに失望感が大きい。
ここを「避暑地」といったら言い過ぎだろう。
あまりにもポニーが臭いので…何度も言うようだが街中にその「落とし物」の匂いが漂っている。

この匂いに平気な人でないと、森林浴もままならない。
本当に臭いから。
「優雅」とはほど遠い感覚だ。

「庶民的な地方の観光地」…これが日本人(殊に古都京都人)から見た正直な感想といったところ。
それだけに、ホテルのレセプションの態度は信じられない気がした。

どうしてあれほどまでに高慢になれるのだろう。
もう何かを聞いたり、頼んだりする気にもなれない。

早く次の街に行きたい。
そうすればまた気分も晴れるだろう。
どうやらちょっと重いホームシックにかかってしまったようだ。

 


 

1992年6月24日(水)リマリック泊

今回のホテルは分かりやすくすぐに見つかった。
リストによるとグレードBということだが、ホテルとしてはCランク…というより、ゲストハウスあるいは民宿といった風情だ。(部屋の中)
鍵もビジネスホテルっぽい。

ここは一泊なので遠出は出来ない。
早速、街歩きに出掛ける。

シティセンターの市民ホールは新しく明るい建物でランチを取るには最適。
近くに名所も多いし、ここを中心に歩くと良い。

インフォメーションはドーム状の変わった建物で、広く近代的。
だが、中のグッズは街の方が安いようだ。
ポストカードもあまりこれといったのはなかった。
周辺にはダイナース、ロシャスといった大型スーパーもあり買い物にも困らない。

さて、一通り見て帰ってきて、部屋に戻って窓を開けるとそれが閉まらないというトラブルがあった。
直しに来られるまで2時間ほど待っただろうか。

でも閉塞感に満ちたキラニーの後なので、あまりイライラせずに待つことが出来た。
どちらにせよ、時間にはかなり大まかなお国柄である。

 


 

1992年6月25日(木)エニス泊

京都という「観光地」に住んでいるからだろうか。
玄関口である駅を中心に交通が発達し、インフォメーションをはじめとする各種機関がまずはその玄関周辺にあって地図や標識があるのが「観光地」だという意識がある。

そういう意味ではエニスは本当に普通の街というか、あまり機能的な街ではなかった。
バスステーションはえらく街はずれにあり、そこは
停留所の他は何もなくて、タクシーもいない、店もない、インフォメーションは遠いしでどうしようもない。

ホテルもまた反対の街のはずれでとても歩いてはいけないのでとにかくタクシーを延々と待っていたら、バスドライバーが気の毒に思ったのか声を掛けてくれて、タクシーを電話で呼んでくれることになった。

が、そのタクシーがまた問題アリでかなりボられた。
そんなことしなくても、タクシーにはいつもチップを気前よくはずむつもりでいるのに…。

ホテルに着いて、さてどうしようかと考えたが、天気が悪かったのとまだお腹の調子が良くなかったので終日ホテル内で過ごすことにした。

バスの時刻表を見ていると、エニスからこの時期に日帰りで行けるところといったらシャノン空港だけで、結局この街は時間に余裕があって、静かに過ごしたい人以外はあまり意味のないところだと思った。

特にホテルがこんなにシティセンターから離れたところにあってはちょっと出掛けるのにはおっくうにならざるを得ない。
ロケーションの悪さはキルケニーと争うほどだ。
で、キルケニーのように連泊でないので、ホテルの不便さはいかんともしがたい。

ただ、部屋は広々として設備も泊まった中ではトップクラスだった。
誰か気の合う友だちでもいれば、きっと楽しく過ごせただろう。

リマリックで連泊か、あるいは一気にゴルウェイまで
行ってしまった方が良かったのではないかといろいろと考えた。

静かで思いにふけるには最適の場所かもしれない。
ただ今の自分では「余計なこと」ばかり考えてしまって落ち込むばかりなのだが。

キラニーでふくらんでいた期待の風船がシュルシュルと音を立ててしぼんでしまったという感じだ。
もう一度ふくらませるにも、時間がかかるのかもしれない。

 


 

1992年6月26日(金)ゴルウェイ泊

ちょっとイヤな予感はしていたのだ。

それは前日、街外れのバス停で降ろされたときからかもしれない。
エニスという街がどういうところなのか前知識はなかったがリマリックからゴルウェイという大都市間を行き来する交通機関の途中の小さな街…それは降りる人も乗る人もほとんどない規模で、観光客にとっては「通り過ぎる街」ということが今日、身にしみて分かった。

タクシーでまたその何もないバス停まで行き、ゴルウェイ行きの便を待っていた。
やっと来た…と思ったら満員通過されてしまった。がーん

しばらくして「臨時便」が来てやっと乗れたのだけど
本当に何のためにこの街に来たのだろう…と、ちょっと自己嫌悪になってしまった。

バスはわざわざタクシーを使ってホテルから赴いたバス停からなんとそのホテル経由でゴルウェイに向かって行く。
この街の地図が手に入らなくてホテルとバスルートの位置関係が分かっていなかったとはいえ、これはかなりショックなことだ。
これならホテル近くでピックアップしてもらえたから…。

ま、済んだことは早く忘れることにして、ゴルウェイである。

賑やかな街だった。
ホテルが見つけられず、インフォメーションで聞くと恥ずかしいぐらい
繁華街のど真ん中にあった。
仮設の遊園地のようなものがその近くに出来ていて
とにかくすごい人波だ。

チェックインして早速、街歩き。
元リンチ城の銀行や聖ニコラス教会などを回った後、ショッピングモールにも立ち寄る。
ダブリン、コークに次ぐ街であるゆえ、お馴染みのチェーン店が軒を連ねている。
並んでいる商品もお馴染みさんで、こういうのを確認してはホッとしている自分が可笑しかった。

インフォメーションに再び行き、アラン諸島へのフェリーの予約をする。
手持ちの現金がなくなったので銀行へ行ってトラベラーズチェックを渡すと「東京銀行ですか…?」と言われてかなり待たされた。

奥の方で何やらいろいろ問い合わせている様子で少々焦ってしまった。
TCはやはりアメックスがベストだなと思ってしまった。

 


 

1992年6月27日(土)ゴルウェイ泊

もう少し金銭的に余裕があればゴルウェイのインフォメーションで日帰りツアーに参加できたのだがそれは許されず(汗)、かといって街歩きはもう見たいものは見てしまった。

そこで思いついたのが、まだ数回の余裕があるランブラーチケットを使うこと。
早速行けるところを探し、ゴルウェイ−ダブリン間を走るIRの途中駅アスロンへ行ってみることにした。

が、駅を降りていきなり道に迷ってしまった。
落ち着いて地図と見合わせると、どう考えても駅自体が移動してしまっているとしか思えない。

街並みや古い教会の位置からすると、地図が間違っているかどちらかしかありえない。
見直すと地方の駅にしては新しいので、駅が移動したと結論づけた。

しかしアスロンは釣り好きでもない限り(マス釣り場として有名)特にどうということはない街だった。
アスロン城も城というより要塞ぽくて美しくない。
インフォメーションも探したが結局見つからなかった。

仕方ないので列車の時間までシャノン河の畔でぼんやりしていると地元の人に声を掛けられてしばらく話した。

ダブリンに帰ったら行くといいよと、ビューリーズの位置を私の持っていた地図に書き込んでくれた。
話し相手が行ってしまうと、「なにやっているんだろ、私って…」とまた余計なことを考えてしまいそうで、早々にゴルウェイに帰ることにする。

ホテルに着くとカード会社から電話があって、BAの帰着便の予約が入ってないと言われた。
こちらはチケットも手にしているのだから、そんなはずはないと再度確認してもらうように依頼する。

またまたなにやら不安要素が肩に乗ってきたようで、昼間のアスロン行きが少々期待はずれだったこともありどっと疲れが押し寄せてきた。

 


 

1992年6月28日(日)ゴルウェイ泊

気を取り直してアラン諸島のイニシモア島へ向かう。

ゴルウェイのフェリー発着場までバスで向かったのだが港に着くと同じようなバスが何台か来ていて、さすがオン・シーズン、フェリーは満杯状態で出航した。

室内で座る場所はなく甲板でも長椅子の隅がやっとである。
あとの人は立っているか、何かの出っ張りに腰を掛けるかで約90分の航路を行く。

途中で人々の歓声が突如として起こったので何事かと
皆が指さす方へと目を向けると、イルカのグループが船と帆走していて水族館のショーのごとく、何頭かが海面をジャンプしていた。

イルカは遊び好きだといわれるので、この時期フェリーに乗るとよく見られる光景なのかもしれない。
それとも本当に、たまたまの出来事でとてもラッキーだったのだろうか?

キルローナン港についたときはとてもよく晴れて
建物が白く明るく輝いて見えた。
B&Bやカフェも多く、「孤高」のイメージは今や存在していない。

港からダン・エンガス遺跡までのルートには迷わず
乗り合いの小型バスを選んだ。
ポニーはもうキラニーで懲りている。

何度も写真で見た石積みの柵や点在する小屋の横を車は爆走して行く。
ダン・エンガスの入り口で降ろされて、そこから徒歩。
断崖に近づくほどに烈風が強まってくる。

足下は瓦礫と雑草が生え放題なのだが、強い風のおかげで這いつくばるような草しか残っていない。
同心円を描いた石積みの砦は大西洋に向かって突然崖で断たれている。
崖はオーバーハングしており、グループ出来ている人は足を持ってもらい這いながら崖っぷちまで寄っていた。

今までにここの遺跡は空撮された写真を何枚も見ている。
実際にそこに立つとやはり感慨深いものだ。
大西洋に目をやるときらきらと静かに輝いていた。

キルローナン港に戻り、フェリーの時間までカフェなどで時間をつぶす。

たぶん天候いかんで恐ろしく荒れ狂う黒い海にもなるのであろう。
眼前に今あるのは、穏やかで暖かな光に満ちた同じ海なのだが。
そのどちらもがとても好ましいものに思えるのは
たぶん私が旅行者だからだろう。
生活している人は静かな海しか望みはしない。

 


 

1992年6月29日(月)ダブリン泊

約3週間ぶりにダブリンに帰ってくる。
アイルランドもあと3泊となった。
うち1日はお土産の買い物につぶれるだろうから正味2日の猶予なのだが、本日はリコンファームのトラブルで振り回された。

日本での発券者がBA「7便」をどういうわけか「1007便」と登録していて、そのためいくら問い合わせても名まえがないという事態だった。(カード会社の説明)

片言の英語でこのややこしいトラブルを説明する自信がなかったのでツーリスト・インフォメーションで日帰りバスツアーの申し込みついでに、BAの支店の所在地を教えてもらって直接チケット等を見せて説明しようと考えていたら、受付の女性はいきなりそこに電話を掛けてその受話器を渡された。

あたふたとチケットを見ながら、とりあえず向こうが質問するまま答えていたら、あっさりリコンファーム受理。

カード会社の女性はたぶん流暢な英語で何度も同じことを説明しただろうに受け付けてもらえなかった訳で、少々キツネにつままれたような感じだった。
インフォの女性に受話器を返すと、ニッコリと微笑んでくれたのでやっと我に帰れた。

「ありがとう」
と、こちらもニッコリ微笑んで(ちょっと引きつっていたかもしれないが…)カウンターを離れる。
まだ何か頭の中がぼーっとしていたのだが、とにかくトラブルは回避出来たわけで多少は気持ちが軽くなった。

そのあとは繁華街を歩いたのだが、自分でも驚くほど道を覚えていて一年前に行った店などを訪ね歩いた。

残念だったのは去年、ほとんど急ぎ足の旅の中でいちばん印象的だったパワーズコート・ショッピングセンターの名物犬に会えなかったこと。

オーナーに聞いてみると
「今はほら、暑いだろう? だから彼は涼しいところに行ってるんだ」
アイルランドを周遊する前なら…3週間前ならいたかも…と思うとちょっぴり悔やまれた。

 


 

1992年6月30日(火)ダブリン泊

日帰りバス・ツアーはだいたい曜日によって行く場所が決まっている。

それで今回の「ボインバレー・ツアー」も選べないといったら失礼だが、まあ、そんな感じで参加したようなものだ。
しかし内容的には見どころ満載でとても有意義なものだった。

タラの丘、モナスタボイスの巨大十字架石碑と円塔、
ニューグレンジ古墳…そしてU2が録音スタジオとして使用したというスレーン城までしっかりとツアーの中に組み込まれていた。

難をいえば天気が少々悪かった(今回の旅はほとんど雨にあったことがなかったので、これまでが幸運すぎたのだったが)のとドライバーがしゃべりすぎることぐらい。

しかし休憩所のトイレもケリーやアラン諸島のツアーのように「水が出ないし紙もない」ということもなく
その点でも快適だった。

タラの丘とモナスタボイスはガイドブックでもお馴染みのところ。
少し曇り空だったが、それも古代の雰囲気を盛り上げるかのようで素晴らしかった。
例によって、足下の草原は羊の「おとしもの」があるので注意を要するのだが。

スレーン城に近づいたときは雨が降っていて、バスは停車したもののほとんどの参加者は外には出なかった。
が、数人の若者は降りて遠くに見える城の陰影に思いをはせているようだった。
その中でゲートに登って写真を撮っている人がいたので、せめて写真の一枚でも…と思い、彼にカメラを頼んだ。

ニューグレンジは完全に観光地化されていて、専門の案内人がいろいろと説明してくれる。
古墳の中にも入ることが出来るし、中の電灯を消して
その構造をまた説明…と、とりあえず慣れていた。

曜日のかげんで選ぶことなしに参加したとはいえ
今回の旅では最も充実していたツアーだった。
アイルランドに来て、それが時間の余裕もない旅ならば絶対にオススメしたいソツのなさだ。

 


 

1992年7月1日(水)ダブリン泊

もし時間が余れば半日ツアーも…と考えていたが、そんな余裕は全然なかった。
それだけダブリン市内はいろいろと賑やかな店が多く楽しめる街なのだ。

おりしもサマーセールの真っ最中で、陶器や服、その他何でもプライスダウン。
その中でいかにも「お土産品」の店だけは正価のままだったのが何やら印象に残っている。
買わないまでも見ているだけでも結構な時間つぶしになってしまった。

再びパワーズコート・ショッピングセンターに行き、セルフサービスのカフェで一息つく。
明日は帰るとなるともう少し何かしら感傷的になりそうなものだが1人旅のせいか、最後までどこか緊張している。

ちゃんと空港に着けるかとか、チェックインはスムーズにいくだろうかとか、ヒースロー空港内の移動はどうかとか…いろいろ頭の中で組み立てていく。
いろんな思いと一緒に。

 


 

1992年7月2日(木)機内泊

予想以上に忙しい移動だった。

 6:50 起床
 7:40 朝食
 7:55 荷物まとめ
 8:20 チェックアウト
 8:45 空港バス発車
 9:10 ダブリン空港着
      ELチェックイン
      DFSで最後のショッピング
11:30 出発
12:25 ヒースロー着
13:30 BAチェックイン

再び、去年同様の2階のキャビンの席が取れた。
これでゆったりとゆっくりと日本までの旅を楽しめる。
BAには絶対的信頼を置いている。

 

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